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こんにちは、みやです。


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名は体を表す。


子ども名前をつけるときに

親は「こんな子に育って欲しい。」と

願いを込めてつけるだろう。


私の名前の漢字は

「美絵子」と書きます。


幼い頃は

この名前が好きでした。


アートを通して両親が出会ったことも

何となく知っていたし、

家には父がデザインした作品が飾られ

父がデザインに使う画材が身近にあって、自由に使うことができて。


私も絵を描くことが好きで、

チラシの裏紙によく絵を描いていた。


「ライオン描いて!」


ササッとクロッキー帳に描いてくれる父の様子を

見るのも大好きだった。


中高と美術部に入って

母と一緒に油彩の道具を買いに行ったり、

父とデザインパネルの水張りも一緒にした。


「三角定規は

 使う前に白い紙の上でようこすっておくんやで。

 作品が汚れてしまうからな。」


三角定規の使い方も

定規とガラス棒を使って

ポスターカーラーの直線を引く方法も

父から教わった。


新卒で印刷会社に入って

芸大出身の同僚や

表現力豊かなデザイナーさんとも仕事をした。


その頃両親は

麺類店をリタイヤして、

父は二科展デザイン部への出展、

母は若い頃からやりたかった日本画に夢中になって

取り組んでいた。


実家に帰省する度に

きっちり額装された

クオリティの高い作品が

どんどん増えていった。


息子を出産する前に

2年ほどパステル画を習いに行ったこととがあり

私のパステル画を母に見せると

「ええやん!

 カサブランカの花びら、難しかったやろう!」

「このリンゴ、フジやね!

 かったい感じがよう出てる!」と

描き手の苦しさや大変さみたいなものも

よく理解してくれた。


父は私が送ったハガキ1枚でも

「”作品”が届いたで。」と

連絡をくれて、

私が実家でとなく描いたイラストを

「これはええ!

 額に入れたるから

 ここにサイン入れ!」とペンを持ってきたり。


以前画廊で自分の名前を書いた時に

受付の人に言われたことがあった。


「まぁ!お母様が絵がお好きなのね!」


確かにそう。


でも、、、

私はそれほど絵が上手くはない。


圧倒的な情熱と

圧倒的な表現力で

圧倒的な作品に仕上げてくる

両親と比べると

自分が描く絵なんて、、、


幼い頃好きだった「美絵子」と言う名前は

「美しい絵を描かねばならない子」的な解釈になり、

いつの間には素直に受け取れなくなっていた。


私は「美絵子」であることは間違いないんだけど

「美絵子」じゃない。


名前負けしている、と。


弔問に来て下さる方をお迎えしました父の作品。


数年前に

インテリアコーディネーター島村知子さんから

「自分のことを知るために

 自分の名前について

 親に聞いてみるといいよ。」と

アドバイスをもらったことがあり

両親に聞いてみたことがあった。


「美絵子」は

「美しい絵のような子」なの?

「美しい絵を描く子」なの?


両親に定義づけてもらいたかったけれど、

父は

「うーん、どうやったかなぁ、、、」と

ニヤニヤ笑うばかり。


あげくの果てには、

「美絵子の名前が私がつけたんよ!」と言う母に

「そうやったかなぁ??」と父。


結局私の名前に込められた願いのようなものは聞けないまま、

去年父が亡くなり、

母はグループホームに入ってしまった。


今年の2月に父の遺品を整理した時に

母も二科展に入選したことがあったことを

初めて知った。


春には姉が実家に戻ってくるから、

父が若い頃から使い込んできた筆や

大量の作品とデザインにまつわる本、

母が描きためたスケッチも

ほとんど捨てざるえなかった。


父の百箇日もまだだったから

どれを残そうかまで

頭が回ってなかった。


作品が遺るのは

何ともやっかいだと思った。



母が使っていた色鉛筆はもらってきました。


両親は60歳でリタイヤしてから

2人で西国三十三箇所を回っていて、

掛け軸以外にも

自分達が亡くなった時に着る装束に

各お寺の御朱印を押してもらって、

戒名までもらっていた。


そのことは随分前から知っていたけれど、

父が亡くなって

院主さんから戒名の意味を聞いた。


「一生添い遂げる

 おつもりやったんやと思います。」


ケンカも多かった両親だったけれど、

2人で約束したことがあったんだなぁ、と。


父は入院中に看護師さんに

「うちのん若い時からキレイやったんですよ。

 僕が結婚してくださいって言った人だから、

 僕が面倒見んとあかんのです。」と

惚気まくっていたらしい。


愛嬌たっぷりの父は

看護師さんとも仲良くなっていたようで。


「お父さまと

 最期のお別れをしてください。」


そう伝えに来た看護師さんの方が

私達よりも先に泣き出してしまうほどで。


頼まれもしないのに

主治医の先生のロゴマークまで作って

プレゼントして。


私が生まれた頃、

両親はデザイン事務所と絵画教室を廃業して、

母方の祖父の稼業である麺類店を継いで

数年経った頃でした。


一軒家を売って

小さなアパートに引っ越して

結婚に大反対だった祖父を見返し、超えるべくある種の戦いのようなものが

本格化していった時期だったと思います。


父は屋号の看板、メニュー、

店内のデザインを手掛け

麺類店の世界観を表現する一方で

麺類店の営業期間中に

母が絵を描く姿は一度も見たことがなかったです。


父が亡くなり

彼らのアートへの情熱が

どれほどのものだったのか、

彼らがいかに愛し合っていたのかを

私はこの1年想像しながら過ごしました。


ふと「美絵子」と言う名前に

新しい解釈が生まれました。


私の名前には

「いつかアートの世界に2人で戻ろう!

 必ず戻ろう!」と言う

両親の約束が込められていたんじゃないだろうか、と。


そもそも自分達のこと一番大事で

好きなことへの情熱が

とんでもなく振り切っていた両親。


これはありえるなぁ、、、と。


今年は母に毎月ハガキを描いて送っていました。


特にこの11月、12月は

手を動かしてアイデアを形にする機会も多かったです。


やはり

絵を描くのも見るのも好きで、

「こうかな?」「ああかな?」と

色見本帳を見たりしながら

自分のアイデアに近づきながら

それを形にしていくプロセスが

私は好きなんだなぁと感じました。


文字つづりすと 伏見美帆子さんから

こんな言葉をかけてもらいました。


一杯のコーヒーも

お父様の言葉をお借りしたら

立派な「作品」。


自分がアウトプットするものは

全て「作品」なんだ、

そう考えればいいんだと気づきました。


「美」や「絵」を

アートだけにしばられることなく

もっと広い意味に捉えて

「美」は「私が美しいと感じるモノ、コト」、

「絵」は「私が生み出す”作品”(言葉、絵、コーヒー、関わりなど)」と

自分なりに新しく解釈することにしました。


表現することは

上手い下手ではない。


表現することは

誰かと比べるわけではない。


「あなたを大切に思っていますよ。」


そんな想いを

自分なりに形にしていこうと思います。


自分で思い込んでいた

「美しい絵を描かねばならない子」から

ようやく解放され、

「美絵子」と言う名前が

ようやく受けとることができました。




国立新美術館の二科展デザイン部エリアに飾られた父の作品。