昨日は「鬼の子」の話しを書きましたが、

 

タイムリーに阿部敏郎さん(⇒この方)が、

 

天河神社の『鬼のお宿』というご神事に参加された様子をブログに綴ってました。

 

⇒阿部さんの記事

 

 

このご神事はNHKでも数年前に紹介され、

 

「実際に」鬼が現れた物理的な証拠が毎年残る神秘的なご神事だそうです。

 

 

 

話すにはまずは鬼の師匠から始める必要があり、

 

ウィキペディアによると、

 

前鬼・後鬼を従えた役行者(葛飾北斎)

 

修験道の開祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ)は鬼をも従える法力を持ち、

 

前鬼・後鬼という夫婦の鬼を弟子にした。

 

天河神社の宮司さんはその鬼の実際の子孫にあたるそうで、

 

節分の日に、先祖である鬼を家にお迎えする神事があり、

 

それを『鬼のお宿』と言うそうです。

 

 


⇒以下阿部さんの記事より

 

昨夜から今朝にかけて起きた事を書くのはとても難しい。
見える世界と見えない世界があることはわかりますが、見えない世界のものが物質化して見える世界に現れるということが、僕のような凡夫には理解しがたいからです。

 

2月2日の夜、鬼が年に1度柿坂宮司の家にやってきて、一夜を過ごすため、

宮司さんの家では新しい布団を二組並べ、厳かにご神事をして鬼を迎える準備をします。

その際、神社から清水をいただき、14枚の白い布を重ねてその清水を濾過していきます。
そうやって不純物が一切なくなった水を、

直径50センチほどの真新しい桶に入れ、縁側から上がったあたりの廊下に置いておきます。

そして翌朝5時、その桶の水をもう一度、新しい14枚の白布で濾すのです。
ちなみに14という数は天と地をつなぐ数だそうです。

 

すると前の晩にあれだけ綿密に濾過した真水のはずなのに、白い布には砂のようなものが何箇所にも残っています。
鬼がやってきたとき、桶の水で手足を洗った跡だそうです。

実際僕も宮司さんの家で、前の晩と今朝の5時からの神事に参加させてもらい、その後で白い布を覗き込みました。
白布を確認するときは、参加した神職たち全員に緊張が走っていたのがわかりました。

民間からは僕だけでしたが、砂を確認した瞬間は、不思議と言うよりは少しほっとしました。
というのも、僕がいたことで万が一にも鬼の痕跡が残らなければ、宮司はそのまま宮司職を辞めねばならず、本日これから行われるご神事も中止となるからです。

 

⇒阿部さんの記事抜粋終わり


 

先祖である「鬼」が山を降りて来て、

子孫の自宅にひいてあるお布団で眠る。

その際に、手足に付いた泥を洗うので、真水を置いておく。

すると、完全に純水なはずなのに、翌日には砂が出る。

 

その砂が出なかったら、その年に宮司は職を辞さないとイケナイ。

 

宮司さんはもう80歳を超えますから、

何十年間も毎年、ちゃんと先祖が帰って来ているということですね。

凄い。

 

沖縄も、先祖崇拝。

 

前に沖縄の離島のカミンチュさんが、雨乞いをJAに頼まれておこなった。

 

すると、直後に大雨が降った。

 

僕が凄いと思ったのは雨が降った事じゃなくて、そのカミンチュさんが僕に言った言葉。

 

「ご先祖様が私に恥をかかさないように、雨を降らしてくれたさぁ~。本当にありがたい。」って、

 

はにかんだように笑ってた笑顔がメチャ素敵だった。

 

 

沖縄も、先祖崇拝。

 

沖縄の宗教は先祖です。

 

それはどこかの神社より、どこかの寺より、どこかの教祖より確かなモノだから。

 

自分が存在する限り、確かに存在する「ご先祖」を崇拝するのは当然だろう。

 

先祖がたとえ鬼と呼ばれていようと、

 

その先祖のお陰で、私はここに在るのだから。神よりも確かで尊い。

 

 

 

毎年、砂の跡を残すのは、

 

子孫のためにという柿坂家の先祖の優しさだろうなと、勝手ながら思ったり。

 

 

だって、うちの先祖も毎年帰ってきてるけど、何の跡も残さないもん。

 

それが鬼ほどのパワーがあるんだから、何も残さないことは簡単なはずだけど、

 

何百年前かのある年から子孫が桶に水を張り始めて、先祖様ここで足を洗ってくださいね、と。

 

この優しさに、仕方あるまいと足を洗って。

 

本当は何も残さずに帰れるんだけど、優しさで愛の砂を子孫のために置いていってくれてるのかも。

 

それがいつの年からか、この桶に砂が入ってないと先祖様をもてなせなかった事になるから、

 

と腹をくくった子孫が出ちゃって。

 

「い、いや、俺たち別に砂を残さずに帰れるんだよ?」

 

どちらも、優しさ。鬼の優しさ。

 

生きてる人間同士でよく起こる、遠慮の仕合いみたい。

 

どちらもやらなくて良いことを、優しさゆえにやりあってること。

 

挨拶もそうかな。

 

「おいしかった?」

 

「うんとっても」

 

どちらも、言わなくても良かったことなのかもしれない。初めは。

 

「(このお料理でもてなせたかな?美味しかった?って聞かないと失礼かな)」

 

「(言わなくても美味しかったけど、やっぱ言わないと失礼かな。)」

 

 

「ご馳走さまでした」

 

「お粗末様でした」

 

 

「ありがとうございました」

 

「どういたしまして」

 

 

「行って来ますね」

 

「行ってらっしゃい」

 

 

「他人には気を使わないで」、

「自分のやりたいことだけやって」、

「やらないで良いことはやめよう運動」

が流行ってるけど。

 

最終的には、挨拶も全部なくなるのかな。

 

 

 

優しさが用意した、本当は必要なかった桶と。

 

優しさが用意した、本当は残さずに帰れた砂。

 

 

 

お、もうすぐ六時半。

 

本当は必要なかったけど、

 

優しさが用意した、お早う御座いますと、

 

優しさが用意した、お早う御座いますが、

 

この街に響き合う時間だな。

 

 

 

良い朝だ。

 

 

 

 

 

 

 

柿坂宮司の生き様が出ている素敵な本2冊↓

 

 


 

 

あなたの先祖が福の神だろうと、鬼だろうと。

 

その先祖が居なければ、あなたは居ません。

 

より確かなものを、より尊く。

 

 

 

偶然にも、鬼の話し?がさとうみつろう公式LINEにも送られてきたので、

 

こちらも添付。

 

 

 

 

 

 

京都の神社では、「鬼役」をやらされるらしい。

 

 

 

 

 

 

昨日のブログで紹介した、

「パパ、鬼の役をかっこよく演じて来てね」って子供が、

大人になって先祖を布団しいて迎えるようになったのかも。

「鬼の役、おつかれさま」って。

⇒鬼の子は気が気じゃないのです

 
 
 
⇒節分には豆じゃなく桃をまく?

 

 

 

 

 

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