「天理教」は宗教か、真実の教えか -24ページ目

「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

天理教のトップ倒れる

 真柱様の中山善司様が、2018年5月に脳梗塞か何かで半身不随となられ、おさづけの運びをできなくなっております。大変な事態です。その後、かなり回復されたようですが、歩行困難なご身上はいまだ続ているようです。

 

御母堂様のもと中山家中心体制の確立

 今から100年前にも「おさづけ」停止の異状事態が起きました。上田奈良糸様が胃腸の病から、大正7年3月からお運びが不能となったのです。

 現在の天理教の公刊物からは、日付も不明であり、何もなかったかのようなことですが、これは大事件だった思います。

 大正期は倍加運動などもあり、教勢が盛り上がった時期でした。おさづけ拝戴を求める授訓志願者があふれていた時期です。遠方から来ていた人たちも大勢いたことでしょう。その中で、本部員が協議して、大正7年7月11日より、教祖(おやさま)の孫である中山たまへ様が「おさづけ」の渡し役を始められたのでした。

 

 それは本部員という人間集団の中で決められた決議事項でした。

 

 教祖のご名代とか、すでに未亡人でもあり、幼い二代真柱の御母堂様としてあがめられていた、たまへ様は『おふできさ』にもその生誕が予言され、道具衆の魂の方でもあります。そのため誰もその決断に文句をつけることは、できなかったでしょう。しかし、歴史的に回顧して、神様が決めたのではなく、人間集団が決めたことに大いなる違和感があります。

 

おさづけを渡す職能の起原

 「おさづけ」という救済の技法は、教祖が「月日の社」という神格者として渡し始めたのが元々の起源です。教祖時代にもらわれた方はそれほど多くはなかったかもしれません。しかし、教祖亡き後、教祖の理を後継された、本席様の時代に別席制度が確立されました。

 本席様が「おさづけ」の渡し役となられました。本席様から大勢の信徒がおさづけをいただき、おさづけによって救済が広がったのでした。

 

本席様による啓示、おさづけを渡す役割

 本席が本席となるには、本席定めというプロセスがありました。大工の飯降伊蔵様はもともと、「言上の伺い」という神様の言葉を伝える役回りを教祖から与えてもらっていました。教祖の弟子の中で最高で最大の弟子が伊蔵さんでした。

 教祖が御身をお隠しになると、神様は教祖の後継として、飯降伊蔵様を「本席」として神の言葉を伝える者、おさづけを渡す者としての役職名・神職名を与えました。それを初代真柱である中山真之亮が受け入るか否かが問われたのでした。

 

本席定め、真柱との関係

 その際、飯降伊蔵様は肋骨がボキボキ折れて、飴のような汗もひたたり落ちるほど大変な身体状況になったと言います。娘さんたちが真柱を呼んでも、なかなか本人は来てくれません。数日たってようやく真柱が来ました。そして本席定めが真柱によって決定されたのでした。このように真柱は神のさしずを教団を代表して受け取る役回りであることが分かります。 真柱の一声で全教団が動くのです。

 『おさしづ』全編を読んで、分かることは、当時の本部員も真柱も総じて、なかなか神様の言うことを聞かなったということに尽きます。

 教祖ご在世時代から、教祖の言うことを誰も聞かなった。教祖の子供たちも聞かなかったというのが道中でした。

秀司様もこかん様も大変御苦労もありましたが、最後は聞かなかったので、出直しをしました。その中で、唯一素直に従ったのが、飯降伊蔵様であり、屋敷住まいも教祖の命令でした。  

 本席様が残された啓示録が『おさしづ』であり、原典Ⅲとよばれる、天理教の聖典の第3番目のものとして指定されております。『みかぐら歌』『おふでさき』は教祖の直筆もある啓示録で、原典Ⅰ・Ⅱとされています。ただ『みかぐら歌』の原本は紛失したらしく、口伝として今の現行のものはのちに筆記されたようです。

 

忘れ去れた啓示書・『おさしづ』

 本席様は二代目の教祖という位置づけです。膨大な『おさしづ』は啓示録なのですが、難解な書物として、どこの教会でも書棚の奥に飾ってある程度で、十分に研究も解読もされていないようです。とはいっても、本席様は、教祖から見れば、二代目の天啓者であり、啓示者であり、存命の理の体現者でした。

 すなわち教祖存命の理とよく天理教で言われますが、それは本席様の言葉が、教祖の今の言葉だという信仰から来ているのでした。

 キリスト教の聖書などは、根堀り葉掘り、聖書学という学問分野が成立するほど、細かく研究されています。死海写本が発見されると、さらに、イエスが言ったこととそうでないこと、のちの潤色されたことは何かなど、いまだ解明が続けられています。

 

奈良糸へのおさづけ役の継承

 本席様が明治40年に出直されますが、その直前に、上田奈良糸様が「おさづけ」役の運びを始めることになりました。これは本席様を通じて、神様が上田奈良糸様に命じた特殊な役回りでした。それでも女性である上田奈良糸様のために屋敷を作ることを神様が命令しても、なかなか、受け取られなかったことが分かります。

 そして奈良糸様からおさづけが渡されて、10年も過ぎたときに、今度は上田奈良糸様が病で倒れてしまわれたのでした。それは偶然ではなく、信仰的な視座に立てば、何らかの意味があると思わざるを得ません。

 本席様の時は、100日さしづとして遺言が残されましたが、上田様の場合は、そのうような理の継ぎ目の話もなく、突如ストップしたのです。

 

 神様が止めたことは確かですが、神様は何かを知らせるために止めたはずです。 

 

茨木事件の意義

 大正7年2月15日に、本部員の茨木基敬が免職になるという事件がありました。本部の公刊書でもこの史実は記されています。それは北大教会の初代会長であった茨木基敬に神の言葉が降りるということに対して、本部が拒絶して、免職させたという事件でした。

 茨木基敬さんは明治42年に本部準員に引き上げられ、北大教会の会長に任命され、本部員の中でも格下の方でしたが、非常に信仰熱心な方で、大阪北区の大火事件(明治41年7月31日の天満の大火)を予言されて、教会移転をされたこともありました。

 当時、北大教会部内では、ものすごい救済があがっていたといい、別科生の四分の一が北大教会の系統だという話も残っています。今の愛町分教会どころではない規模です。

 実は愛町の上級の今の麹町大教会は北大教会の系統ですが、その意味については別項に譲ります。

 そのような功績から本部員に登用さられたのでしょう。本部では泉田藤吉の弟子と思われていて、格下扱いでした。 

 

茨木基敬氏による啓示、本部による北大教会の資産奪取の結果

 では茨木基敬さんは、どのような神の言葉を下されたのでしょうか。茨木氏に天啓が下され始めたのは明治44年11月14日でした。そこから膨大な天啓の御用が始まり、北の軍艦として大きな勢力があったことは確かな史実でした。

 しかし本部では茨木墨書として、一部が保存されているようですが、もちろん今の体制のもとでは公開されておりません。

 

 ただ、茨木基敬さんが本部員を免職後に、上田奈良糸様からの「おさづけ」役が停止したことは合図立てあいであり、何かを暗示しております。

 

 いずれにしても、人間が決めたことによって、「おさづけ」の渡し役がご母堂(中山たまへ)様となり、20年勤められ、その子供の二代真柱である中山正善、さらに三代真柱・中山善衛、そして現在の四代目の真柱の中山善司様へと後継されてきたのでした。 

 

  まとめると、以下のようになります。

 

 大正7年2月15日 茨木基敬本部員の免職の辞令

 大正7年3月22日 北大教会の土地・建物その他全部の名義を本部へ引き継ぎが完了。茨木父子免職事件は一段落を告げる。

 大正7年3月23日 上田奈良糸、おさづけストップ  

 大正7年7月11日 中山たまへ、おさづけの運び初め 

 

  3月22日、23日という日付は、追放された人たちが残している記録からのもので、今の本部でも確認できればと思います。本部から鍋・釜もすべて取り上げられた人たちが残された記録によれば、3月23日の茨木氏のお詞として「こちらの財産を押さえたら あちらの財産をおさえる」との仰せとのことです。

 

天理教は天啓宗教、永遠の道の復帰はいつ?

 あれから、100年たち、今回、また「おさづけ」がストップしました。前回は4か月程度で、代理を見つけました。今回は、誰に後継が行くのでしょうか。誰にいったところで、人間が決めることに変わりはありません。

 

 天理教という宗教は、啓示宗教として始まりました。天啓の継承が本席様時代まで、まがりなりにも後継され、道の進展、大発展がありました。

 

 今はそのような方はいません。いたとしても異端者扱いされて調査が入るだけで、取締りの対象とされるだけです。

 

 多くの新宗教と同様に、世俗化がますます進み、行事主義の追悼会的になってしまったのが、天理教という宗教教団の姿です。

 

 まさに大正7年は天理教の歴史を分ける分水嶺と言えるのではないでしょうか。

 

 カント以前と以降で哲学の姿が変わったように、天理教という新しい宗教運動が変質してしまったのが大正7年です。 

 

 以上、霊性の源泉が枯渇したターニングポイントとして大正7年の史実を簡単に回顧しました。   

  

 本席様が残された膨大な『おさしず』に答えがあるはずです。

 

 また本部にもその一部が届けられた当時の茨木基敬さんの神の言葉とは何でしょうか。

 

 学術的な研究が待たれます。  

 

 合掌

 

 

 

 

 

 

 現在、真柱様は神様からご身上を抑えられており、「おさづけ」を渡すという天理教の中でも最高の仕事が出来なくなっております。3代真柱の善衛様が海外からの賓客から、What is your job ? (「あなたの仕事は何ですか?」)と問われた時、「「おさづけ」を渡すことです。」と答えたそうです。これは素晴らしい名言だと思われます。天理教の教団トップ、統率者である真柱様の至高のお仕事が「おさづけ」を信徒に渡すことなのです。

 「おさづけ」とは別席を9度運び、天理教の根本教義を理解し、心におさめ、世界助けを決意した信徒に、救済の技法である「おさづけ」が渡されるのです。霊術系の新新宗教が流行ったことがありますが、それより以前に天理教では「おさづけ」を渡された信徒による救済活動で爆発的に信徒が拡大した時期もあるほど、不思議なご利益があるとされているのが、「おさづけ」なのです。今では誰でも別席を運べば、自動的にもらえますので、あまりありがたみもないし、もらってもなんだか効能がないとなれば、その意義が低下してしまうのも無理のないことです。

 本席様の時代、また上田奈良糸様が「おさづけ」の渡し役をされていた当時、これは史実ですが、別席を運んで最終のお話を聞いて、いざ頂こうとした信徒に渡さない場合もあったそうです。心通りに守護する神様の世界にあって、神様の目から見て、渡すことができない人もいたということです。その方が、改心して、運びなおして、もらったかどうかは分かりませんが、「おさづけ」の神秘的な意義が生き生きとしていた時代があったのです。逆に、おさづけをいただいていないにも関わらず、おさづけをして人を助け人もいたそうです。その正誤は論じないとして、まさにお助け人の心にのって神様が働かれたのだろうと思います。

 天理教では「おさづけ」をもらうと、用木(ようぼく)であるとして信者として一人前になったことの証拠となります。助けられた人間から助ける人間へと心の成人を遂げた証であり、宗教学的にはイニシエーションをしたことを意味します。キリスト教でいう、洗礼式みたいなものです。あるいはイスラム教で信仰告白をして信徒に正式になることとも通じます。修験道で千日回峰行を行って阿闍梨となるというような荒行とは異なって、お話を聞いて、心のなかで、人を助ける心に変わる回心ができればいいという簡易なイニシエーションで、万人に開かれた心の道でしょう。キリスト教では、古い人間から新しい人間に変わるというようなたとえ話をC.S.ルイスなどはしています。自己中心的で自分のことしか考えられない心の狭い人間から、自分は救われた、他の人も助けたいという利他の心に生まれ変わるのが回心の一般論であります。これは天理教のさづけをもらう前と後で、精神的変容があるのが本来の趣旨です。

 天理教を全く知らなかったひとが、修養科3か月の間をお地場で精神修行し、別席も同時に運んで、最後に「おさづけ」をいただきます。おさづけを拝戴した人たちの晴れやかな心こそ、日々に持続させて成長させねばならない真実の心でしょう。 

 利己的でわがままな人間から実在中心、利他主義へと精神の建て替え、心のトラン

スフォーメイションが回心であり、「おさづけ」を拝戴する意義はここにあります。人を助ける真実の心に神様がのって不思議な霊救を示すのです。本席となられた飯降伊蔵様が教祖から理の後継をされた中で、最大のものが「おさづけ」の渡し役でした。教祖が明治20年正月26日に御身を隠される直前に、飯降伊蔵様を通じて「お言葉」が残っていますが、それは「子供たちに渡したいもの」というものでした。それがまさしく「おさづけ」でした。

 本席様から最初に渡された方は、西浦弥平さんでした。地場から離れた場所に住んでいた方ですので、夜に呼び出すのも大変だなと思ってみたら、何と甘露台の前で祈っている弥平さんがたまたまいたということでした。弥平さんの真実の心に答えて、すぐに渡したいと思われた神様の心の一端を感じるエピソードです。

 救済の技法としての「おさづけ」は、霊術的技法として神秘のベールに包まれているわけでありません。医者を乗り越えるヒーリング技法に陥ってもいけません。おさづけ人は単なるヒーラーであってはいけません。それでは拝み祈祷の範疇にとどまり、人間としての心の成人に進みません。「おさづけ」で助かることは、一つの神さまを知るきっかけにしか過ぎないのです。目に見えない神などいるのか、というのが偏狭な科学主義・物質万能主義で汚染された近代人の心の有りようが蔓延しおります。しかしそのようなヒューマニズムを超える仕組みが、「おさづけ」による不思議な救済、御利益なのです。  

 目に見えない神様の実在、神様の力を感じることは普通にはなかなかできないことです。胡散臭い宗教で人をだます人もいれば、社会問題をおこすカルトもあります。そのような中で、真実をもってお助けを運ばれている天理教の教会長から「おさづけ」をいただいて、医者でもダメだった病をいやしてもらったとなれば、神様を感じざるを得ないでしょう。 「おさづけ」はそのように、救済の証をしめす技法として「道の路銀」とも神様からお話のように、神様の実在を感じさせるための技法なのです。そして神様を知って、人間としての本来の人間へ、新しい人間へと心の成長を遂げることが本来的には志向されていること、これがもっと大切な点でしょう。ただ助かったのがいいのではなく、人間として真に陽気暮らしのできる新しい人間へと人間的成長をすることが神様のお望みだと思われます。すなわち、おさづけ通じて神様を知り、神様の心に近づく信仰の道、心の道を歩むという連続性がないといけないのです。  

  このように意義のある「おさづけ」を渡す真柱様がご身上中で、誰も渡すことが出来ないことになっています。今からは100年前にも同じことがありました。上田奈良糸様による「おさづけ」がストップしたのが、大正7年(1918年)でした。なぜ止まったのか、どのような事情が当時あったのか、そして、中山たまへ様がなぜ「おさづけ」役が後継されたのか、天理教の裏面史に迫る必要があります。  

 

 

 

 各宗教ごとに中心となる聖地、詣り所がある。中でもイスラム教の聖地であっるメッカへの巡礼は信徒にとって重要な義務である。巡礼月ともなれば、世界中からメッカに信徒が参集して、特定の儀礼をおこなう。それは開祖ムハンマドが行った最後の巡礼をモデルとした行動を追慕するものである。メッカにはカーバ神殿があり、そこの周りを周回する行事がある。元々カーバ神殿という巨石に何等かの聖地的な意味付けが元々あり、イスラム教の聖地となった。メッカに巡礼した人はハッジと呼ばれて、尊敬される。北京やマレーシアなどからの巡礼なら、各村から一人しかいけないこともあり、巡礼に行くだけだけでも大変なことである。あらゆる民族を超えての聖地での行事によって、回心を深めたマルコムXのような事例もある。メッカへの巡礼は預言者ムハンマドをモデルとして信仰体験を深めるもので、ムスリムの5つの義務の一つともされる。

 またエルムサレムはイスラエルの首都であるが、イエス・キリストが磔刑にされた土地であり、大変有名な聖地である。またイスムラ教、ユダヤ教にとってもエルサレムは特別な聖地である。

 イエスの使徒であるペテロの墓がたつローマのバチカンもカトリックにっては総本山であり、教皇の住まいがある。そこはカトリック教会にとって信仰の中心地であり、外交権のある一つの国ともなっている。

 西洋世界が、聖地エルサレムの奪回を目指して、イスラム圏と戦った十字軍は宗教的意義だけでなく、経済的な富の獲得も目指されていた。

 スペイン北西部の聖地であるサンティアゴ・デ・コンポステーラも有名な聖地で、そこへの巡礼路であるカミーノ・デ・サンティアゴは今でも有名である。キリスト教世界では、イエスの高弟であるヤコブの遺骸が眠るサンティアゴは、エルサレム、バチカンと並ぶ世界三大聖地とも言う。

 我が国でも四国巡礼のお遍路さんは弘法大師ゆかりの88か所の寺院巡りとして有名である。こちらは一か所の中心軸があるのではなく、複数のお寺を巡ることで功徳を得ようとしていることで、聖地巡礼とは違うかもしれないが、宗教的ツーリズムの一種であることに変わりはない。

 かつて創価学会の会員の大石寺参詣は大きな巡礼地参詣であったが、日蓮正宗との関係が絶縁されてから、その宗教的ツーリズムの需要が大幅になくなり、地元の旅行会社がつぶれたこともあった。

 最近ではパワースポット巡りも盛んだが、宗教・非宗教に関わらず、御利益を目指して、アニメ・映画の舞台も含めていろいろな聖地も生まれているようだ。

 さて、各宗教ごとに聖地巡礼という宗教的行為が多様にあるなかで、天理教のお地場帰りとはどのような意義があるのだろうか。ブラジルのような地球の反対側からも自宅を売って、奈良県天理市の教会本部に帰参した女性の話もあるが、北海道など遠方からでも教会長なら毎月のように、お地場帰りをされている。

 天理教において、地場とは人間世界創造の地点であり、その特定の地点に甘露台が立てられており、その六角柱の構造物が信仰の目標物として安置されている。天理教の教会本部の神殿の中央に、中心軸/宇宙軸としての甘露台があり、東西南北あらゆる方向から拝めるようになっている。このように柱が信仰の目標物となっているのは、原始宗教を彷彿されるものがあり、三内丸山の六本の巨大な柱もそれに相当するし、諏訪の御柱祭りのような奇祭もあり、それは縄文期からの古代の信仰を残すものである。このような古代信仰的な柱を信仰の対象物とする信仰が近代的に生まれたことが非常に不思議で奇抜でもある。 

 現在は神殿は南北東西の礼拝場があり、石だたみで囲まれた更地が広がり、なんとも殺伐した感じである。真柱邸の前、東礼拝場の目の前には、三島神社という教祖伝の舞台ともなった神社があり、緑陰や鏡池という大きな池もあったが、更地となった。このような更地は殺風景である。将来的には縄文杉が並ぶような林を植林でもして植物多様性をもった森の中央に甘露台の柱が立っていて、世界中の人が拝せるような舞台となる必要があるのではないだろうか。  

 さて、この地場の甘露台の立つ地点が明かされたのは、明治8年6月29日のことであった。教祖の天啓が天保9年に始まって以来、すぐに開示されたのではなく、立教して38年もたってようやく明かされたのであった。

 『みかぐら歌』(教祖による啓示録、原典Ⅰ)にも地場・甘露台について以下のようにある。

 「ここはこのよのもとのぢば めづらしところがあらはれた」 5下り9

 「ひのもとしようやしきの かみのやかたのぢばさだめ」11下り1

 ここはこの世界の元となる地場であり、世界に一つとない珍しい、唯一の地場が明らかにされた。

 日の本、日本の中の庄屋敷村において 神の館の地場定めがされる。

 ここには天理教の根源的性格、唯一絶対的な性質が表出されている。大和国山辺郡庄屋敷村という一寒村で啓示が38年前に起こり、中山家の没落がある中で、親族縁者も離縁する中で、誰も信仰をしなかった。しかしようやくめぼしい信者が現れる中で、本格的な教示が始まりだし、つとめの完成むけて、『おふでさき』の執筆も集中したのが明治8年であった。そしてこの年に「地場定め」が行われたのであった。

 この地場の甘露台という宇宙軸(axis mundi)の周りで、「かづらづとめ」という天理教にとっての最高儀礼が毎月26日の本部月次祭において執り行われる。地場のつとめが世界を助ける根源のつとめであり、そこに信徒が帰参するお地場帰りの根本的な意義が見出せる。中でも10月26日は、立教の元一日という立教の日を祈念し、世界助けをとつとめる特別な日として聖別されている。「かづらづとめ」は10人の人衆で舞われるが、それは創造原理を地上的にシンボライズしたものであり、同時に救済原理も含意されている。神の心に仕込まれた人たちが舞うことで、実質的なつとめの意義が果たされて、世界に波動として伝播するのである。         合掌

 

 

 

 

 

 


 天理教という啓示宗教の創始された日が10月26日ということから、元一日の尊い日を祈念して、毎年のこの日は天理教にとって大切な祭儀式が奈良県天理市の教会本部がある神殿で施行され。世界各地からも大勢の帰参客が地場に押し寄せるのである。祭典の終わりに神殿講話がなされる。通常は教団トップの真柱(しんばしら)が神殿講話を行うが、この日は内統領の役職を担っている宮森与一郎(61歳、本年4月に就任)・本部員が講話を担当した。内統領とは天理教の祭儀・教義を統括する最高責任者を意味する。ここでは教義の最高責任者としての内統領のお話からその趣旨と現在における天理教の教理理解について検討してみよう。

 

 教祖(きょうそは、おやさまと呼称される)となった中山みきの生涯は雛型の親として、その生き様が人生のあるべきモデルとして尊ばれる。人間の常識や世間並みの思考様式が批判され、あるべき人間の生き方、神一条の信仰態度が求められれることになる。そこに信仰心というものが問われる。天理教の教えは、一言で言って、「人間が生かされていることを喜ぶ」という一字に集約できるだろう。それも艱難辛苦、病いや家庭不和の中でもそれを喜びに変えることが天理教信仰の醍醐味にある。

 さて、その雛型は教祖一人によって成り立ったわけではなく、夫や6人の子供たちとの中山家の家庭での出来事も雛型の重要な要素であることが今回の神殿講話の冒頭に強調された。神が入りこみ、神の言葉を伝える中山みきからの神意は本人一人で完結するのではない。まず一番近くにいる家族に大きな影響を及ぼし、家族がいかにその教えを受け取るかに信仰の有り方が試金石として試されたのである。

 今回、娘の「こかん」さんが特に取上げれられた。教祖の子供たちは6人いたが、教祖より長生きしたのは「おまさ」だけであり、他は皆、教祖が御在世中に亡くなられたといという悲話が今回「こかん」さんを事例として話された。

 天保9年に教祖に神が天下った時に、こかんはわずか、10ヶ月の赤ん坊であった。父の善兵衛が17歳の時に出直し(天理教では亡くなることを出直しと言う)た時、こかんは、教祖から命令されて、大阪で神名流しの匂いがけ(布教)を行ったという。こかんは教祖の元にいて、よりくる信者に神の意志を伝え、「若き神、名はこかん」(『おさしづ』31年7月14日夜)と言われたほどであった。教祖が生き神扱いをされたが、こかんも同様に一種の神格者として受け取られるような人間だったことが想定される。実際にこかんも神の言葉を伝えたとされる。

 

 こかん様については、教祖と同格の神の社(やしろ)であることを匂わす以下のような『おふできさき』』(教祖直筆の啓示録、原典Ⅱとも)

もある。

 「月日より 社となるを 二人とも 別間へだてて おいてもろたら」 第九号五

 この二人とは、教祖とこかんをさしているとされるが、教祖が「月日の社」という称号を与えられた神の言葉を伝える啓示者であるなら、こかかも同様に「やしろ」として、特別な扱いを受けるべきであるということが諭されている。そこに「別間」隔ての意義があり、神の言葉を伝えるこかんの重要な役割が期待されていたのであった。

 

 そのこかんが明治8年、39歳の時に出直してしまう。この時、教祖は監獄に入れられており、娘の死に立ち会うことができなかった。天理教に対する迫害弾圧も盛んな頃であった。多くの信徒が生まれており、明治政府からも疎まれていた時期である。亡くなった理由は、『おふでさき』第11号に詳しく記されている。こかんは、請われて、亡くなった姉はるの嫁ぎ先である櫟本の梶本家に幼い子供たちの面倒を見ることで、三島の屋敷を離れてしまっていた。当時の常識として、妹が亡くなった姉の代わりに後沿いとしてその家に入ることが期待されていた。しかし、神一条の仕事を、こかんに期待した教祖、親神がゆるすことでは無かった。

 

 あれいんでこらほどなにもすきやかに たすかる事をはやくしりたら  第十一号三十三

 それしらずどふどいなさすこのことで よふぢよさしてをことをもだで  第十一号三十四

 こんな事はやくしりたる事ならば せつなみもなししんバいもなし    第十一号三十五

 

 こかんが屋敷に帰ったなら、すみやかに救済されることを早く知ったなら

 そのように助かることも知らず、こかんを屋敷に戻さずに、櫟本で養生させようと思ってしまった

 この真実を早く知ったならば、こかんの苦しみも心配もないはずであった

 

 この神の言葉がこかんが亡くなったことの意味を明快に明かしている。教祖は冷たくなったこかんの体をさすって、「可哀想に、早く帰っておいで」とねぎらいの言葉をかけたという。大切な期待も大きかった娘の死に対して、教祖の態度は毅然としたものであった。普通の人間なら、娘の死に対してこれほど感情をコントロールすることは出来ないだろうが、ここに最愛の娘の死を止揚する教祖の強い心、親神の意志に忠実な教祖の心の有り方が示されている。教祖は肉体のこかんはたとえ早死にしたとしても、その魂は出直しても直に生まれ変わってくることが見えていたのである(玉千代様として27年後、明治35年9月30日に再生された。ただ山澤本・和歌体14年本の第30号では、30年後にたまひめとして元の屋敷へととも予言されているので、神様の当初の計画より早まったと思われます。)。

 なお「こかん」様の魂は教祖の次女「おやす」、四女「おつね」の生まれ変わりという話は教祖伝、梶本宗太郎氏の講話に詳しい。

(参照 http://blog.livedoor.jp/rokkouoroshini/archives/1045258705.html )

 

 宮森本部員は教会長などの肩書に意味があるのではなく、その実質的な行いにこそ意味があることに警鐘を鳴らした。

 そして、真柱が身上(病のことを見上という、脳こうそくで両手麻痺とされる)であり、段々回復に向かっているなかで、このような神の仕込みがあること。そして、真柱の意義について『おさしづ』明治39年5月26日のお言葉引用され、指導者として真柱の声を立てることが説かれた。

 

 「さあさあ皆の一声千声よりも、しんばしらの一声。しんばしらの一声は用いらん者はあろうまい」(『おさしづ』第6巻, 4598-4599頁)

 

 現在の天理教の教団のトップである真柱は中山善司様は、実は2018年の6月7日に東京で倒れ、入院。「おさづけ」の運びも止まってしまった。代行者の善亮氏がお運びをされていることは、一部の信徒には知られていた。「おさづけ」とは救済の技法を神様からいただくというのが元々の趣旨であり、それは現行の慣習では真柱が与えることになっていた。それがストップしてしまった。これは天理教にとって一大大事件である。

 今回初めて、本部の神殿講話を通じて、真柱の身上が全信徒に伝達されたという意義は大きい。教団のトップリーダーが倒れた意味は、実は大変深刻な事態であるが、あたかも何事もなかったように隠されてきたことに今の教団組織のあり方が疑問視されてしかるべきであろう。

 おふでさきの神意に沿えば、真柱自身が、神一条に沿っていないことへの大きな仕込みであることが、別の論理展開によってすり替えらえている。神一条、つとめ一条、地場一条と内統領は強調された。そこから真柱の大切さが強調されているが、これは本末転倒であります。

 真柱には教団トップリーダーの役割があることは、その始まりから決められたことであるが、それを決めたのは神意の発露である教祖であった。おさしづの中でも、真柱の意義とはなにかが繰り返し説かれた。すなわち「裏は鍛冶屋に、表は大工」という重要なお言葉があり、今では忘れ去られている。初代真柱は、櫟本にある鍛冶屋の梶本家から養子としてむかられた、中山真之亮である。これが屋敷の中では位置的に裏手に住んでいた。それに対して神意の発露であった、本席の飯降伊蔵は元々大工であった。膨大の神意は『おさしず』として残されている。天理教は啓示宗教が元来の姿であったが、本席さまが明治40年6月9日にお出直しになられてから、その神意の発露が無くなり、今に至る。

 幸い、本席様から上田奈良糸様への「おさづけ」役の後継は、本席様が出直す前のご遺言となる「百日さしず」の間に正式にぎりぎりになされました。しかし、大正七年(1918年)に、ある大きな天啓者弾圧事件と同時に、奈良糸様のお運びが出来なくなるという節目があった。その際、「おさづけ」の運びは、教祖のお孫にあたる中山たまへ様が大正七年七月十一日からされることとなった。

  その後、二代真柱、三代真柱、そして四代目の善司様へのさづけ役が後継された。その後、諭達というものが生まれ、それが地場から発せられる神の言葉的なものとして、真柱様の責務に神意の発露を重ねてしまって今に至ります。

 今から100年前に、「おさづけ」の運びが止まったという史実があった。あれから100年、同じことが今まさに繰り返されている。このことは何か大きなお知らせであると、神意を求める人なら誰しも感じる事態であります。平成30年という平成が終わる節目の年にあたり、重大な節目を天理教は迎えることになりました。    

 

 こかん様は出直してしまったが、今の真柱は命まで取り上げられていない。地場一条もつとめ一条もすべて、言葉一条ないし詞(ことば)一条に淵源がある。神の詞を真柱様はじめ本部の方々が求めること、その素直さが人間思案を超える唯一の道であると思われます。  

 

 本席様の遺言としての「百日さしづ」は10年先のことを100日以内におさめて説いたというもので、神様の言葉を聞けなくとも、10年間は、この言葉を生かして進んでほしいという内容であった。そこには道の後継の問題も説かれていました。 教祖存命の理とは、本席様の言葉が教祖の言葉として生きていました。 月日=教祖=本席として、理は一つであった。

 

 合掌