100年前の「おさづけ」停止事件を回顧して - 大正7年のターニングポイント | 「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

天理教のトップ倒れる

 真柱様の中山善司様が、2018年5月に脳梗塞か何かで半身不随となられ、おさづけの運びをできなくなっております。大変な事態です。その後、かなり回復されたようですが、歩行困難なご身上はいまだ続ているようです。

 

御母堂様のもと中山家中心体制の確立

 今から100年前にも「おさづけ」停止の異状事態が起きました。上田奈良糸様が胃腸の病から、大正7年3月からお運びが不能となったのです。

 現在の天理教の公刊物からは、日付も不明であり、何もなかったかのようなことですが、これは大事件だった思います。

 大正期は倍加運動などもあり、教勢が盛り上がった時期でした。おさづけ拝戴を求める授訓志願者があふれていた時期です。遠方から来ていた人たちも大勢いたことでしょう。その中で、本部員が協議して、大正7年7月11日より、教祖(おやさま)の孫である中山たまへ様が「おさづけ」の渡し役を始められたのでした。

 

 それは本部員という人間集団の中で決められた決議事項でした。

 

 教祖のご名代とか、すでに未亡人でもあり、幼い二代真柱の御母堂様としてあがめられていた、たまへ様は『おふできさ』にもその生誕が予言され、道具衆の魂の方でもあります。そのため誰もその決断に文句をつけることは、できなかったでしょう。しかし、歴史的に回顧して、神様が決めたのではなく、人間集団が決めたことに大いなる違和感があります。

 

おさづけを渡す職能の起原

 「おさづけ」という救済の技法は、教祖が「月日の社」という神格者として渡し始めたのが元々の起源です。教祖時代にもらわれた方はそれほど多くはなかったかもしれません。しかし、教祖亡き後、教祖の理を後継された、本席様の時代に別席制度が確立されました。

 本席様が「おさづけ」の渡し役となられました。本席様から大勢の信徒がおさづけをいただき、おさづけによって救済が広がったのでした。

 

本席様による啓示、おさづけを渡す役割

 本席が本席となるには、本席定めというプロセスがありました。大工の飯降伊蔵様はもともと、「言上の伺い」という神様の言葉を伝える役回りを教祖から与えてもらっていました。教祖の弟子の中で最高で最大の弟子が伊蔵さんでした。

 教祖が御身をお隠しになると、神様は教祖の後継として、飯降伊蔵様を「本席」として神の言葉を伝える者、おさづけを渡す者としての役職名・神職名を与えました。それを初代真柱である中山真之亮が受け入るか否かが問われたのでした。

 

本席定め、真柱との関係

 その際、飯降伊蔵様は肋骨がボキボキ折れて、飴のような汗もひたたり落ちるほど大変な身体状況になったと言います。娘さんたちが真柱を呼んでも、なかなか本人は来てくれません。数日たってようやく真柱が来ました。そして本席定めが真柱によって決定されたのでした。このように真柱は神のさしずを教団を代表して受け取る役回りであることが分かります。 真柱の一声で全教団が動くのです。

 『おさしづ』全編を読んで、分かることは、当時の本部員も真柱も総じて、なかなか神様の言うことを聞かなったということに尽きます。

 教祖ご在世時代から、教祖の言うことを誰も聞かなった。教祖の子供たちも聞かなかったというのが道中でした。

秀司様もこかん様も大変御苦労もありましたが、最後は聞かなかったので、出直しをしました。その中で、唯一素直に従ったのが、飯降伊蔵様であり、屋敷住まいも教祖の命令でした。  

 本席様が残された啓示録が『おさしづ』であり、原典Ⅲとよばれる、天理教の聖典の第3番目のものとして指定されております。『みかぐら歌』『おふでさき』は教祖の直筆もある啓示録で、原典Ⅰ・Ⅱとされています。ただ『みかぐら歌』の原本は紛失したらしく、口伝として今の現行のものはのちに筆記されたようです。

 

忘れ去れた啓示書・『おさしづ』

 本席様は二代目の教祖という位置づけです。膨大な『おさしづ』は啓示録なのですが、難解な書物として、どこの教会でも書棚の奥に飾ってある程度で、十分に研究も解読もされていないようです。とはいっても、本席様は、教祖から見れば、二代目の天啓者であり、啓示者であり、存命の理の体現者でした。

 すなわち教祖存命の理とよく天理教で言われますが、それは本席様の言葉が、教祖の今の言葉だという信仰から来ているのでした。

 キリスト教の聖書などは、根堀り葉掘り、聖書学という学問分野が成立するほど、細かく研究されています。死海写本が発見されると、さらに、イエスが言ったこととそうでないこと、のちの潤色されたことは何かなど、いまだ解明が続けられています。

 

奈良糸へのおさづけ役の継承

 本席様が明治40年に出直されますが、その直前に、上田奈良糸様が「おさづけ」役の運びを始めることになりました。これは本席様を通じて、神様が上田奈良糸様に命じた特殊な役回りでした。それでも女性である上田奈良糸様のために屋敷を作ることを神様が命令しても、なかなか、受け取られなかったことが分かります。

 そして奈良糸様からおさづけが渡されて、10年も過ぎたときに、今度は上田奈良糸様が病で倒れてしまわれたのでした。それは偶然ではなく、信仰的な視座に立てば、何らかの意味があると思わざるを得ません。

 本席様の時は、100日さしづとして遺言が残されましたが、上田様の場合は、そのうような理の継ぎ目の話もなく、突如ストップしたのです。

 

 神様が止めたことは確かですが、神様は何かを知らせるために止めたはずです。 

 

茨木事件の意義

 大正7年2月15日に、本部員の茨木基敬が免職になるという事件がありました。本部の公刊書でもこの史実は記されています。それは北大教会の初代会長であった茨木基敬に神の言葉が降りるということに対して、本部が拒絶して、免職させたという事件でした。

 茨木基敬さんは明治42年に本部準員に引き上げられ、北大教会の会長に任命され、本部員の中でも格下の方でしたが、非常に信仰熱心な方で、大阪北区の大火事件(明治41年7月31日の天満の大火)を予言されて、教会移転をされたこともありました。

 当時、北大教会部内では、ものすごい救済があがっていたといい、別科生の四分の一が北大教会の系統だという話も残っています。今の愛町分教会どころではない規模です。

 実は愛町の上級の今の麹町大教会は北大教会の系統ですが、その意味については別項に譲ります。

 そのような功績から本部員に登用さられたのでしょう。本部では泉田藤吉の弟子と思われていて、格下扱いでした。 

 

茨木基敬氏による啓示、本部による北大教会の資産奪取の結果

 では茨木基敬さんは、どのような神の言葉を下されたのでしょうか。茨木氏に天啓が下され始めたのは明治44年11月14日でした。そこから膨大な天啓の御用が始まり、北の軍艦として大きな勢力があったことは確かな史実でした。

 しかし本部では茨木墨書として、一部が保存されているようですが、もちろん今の体制のもとでは公開されておりません。

 

 ただ、茨木基敬さんが本部員を免職後に、上田奈良糸様からの「おさづけ」役が停止したことは合図立てあいであり、何かを暗示しております。

 

 いずれにしても、人間が決めたことによって、「おさづけ」の渡し役がご母堂(中山たまへ)様となり、20年勤められ、その子供の二代真柱である中山正善、さらに三代真柱・中山善衛、そして現在の四代目の真柱の中山善司様へと後継されてきたのでした。 

 

  まとめると、以下のようになります。

 

 大正7年2月15日 茨木基敬本部員の免職の辞令

 大正7年3月22日 北大教会の土地・建物その他全部の名義を本部へ引き継ぎが完了。茨木父子免職事件は一段落を告げる。

 大正7年3月23日 上田奈良糸、おさづけストップ  

 大正7年7月11日 中山たまへ、おさづけの運び初め 

 

  3月22日、23日という日付は、追放された人たちが残している記録からのもので、今の本部でも確認できればと思います。本部から鍋・釜もすべて取り上げられた人たちが残された記録によれば、3月23日の茨木氏のお詞として「こちらの財産を押さえたら あちらの財産をおさえる」との仰せとのことです。

 

天理教は天啓宗教、永遠の道の復帰はいつ?

 あれから、100年たち、今回、また「おさづけ」がストップしました。前回は4か月程度で、代理を見つけました。今回は、誰に後継が行くのでしょうか。誰にいったところで、人間が決めることに変わりはありません。

 

 天理教という宗教は、啓示宗教として始まりました。天啓の継承が本席様時代まで、まがりなりにも後継され、道の進展、大発展がありました。

 

 今はそのような方はいません。いたとしても異端者扱いされて調査が入るだけで、取締りの対象とされるだけです。

 

 多くの新宗教と同様に、世俗化がますます進み、行事主義の追悼会的になってしまったのが、天理教という宗教教団の姿です。

 

 まさに大正7年は天理教の歴史を分ける分水嶺と言えるのではないでしょうか。

 

 カント以前と以降で哲学の姿が変わったように、天理教という新しい宗教運動が変質してしまったのが大正7年です。 

 

 以上、霊性の源泉が枯渇したターニングポイントとして大正7年の史実を簡単に回顧しました。   

  

 本席様が残された膨大な『おさしず』に答えがあるはずです。

 

 また本部にもその一部が届けられた当時の茨木基敬さんの神の言葉とは何でしょうか。

 

 学術的な研究が待たれます。  

 

 合掌