天理教教会本部 2018年10月26日 大祭 神殿講話を拝して | 「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

 


 天理教という啓示宗教の創始された日が10月26日ということから、元一日の尊い日を祈念して、毎年のこの日は天理教にとって大切な祭儀式が奈良県天理市の教会本部がある神殿で施行され。世界各地からも大勢の帰参客が地場に押し寄せるのである。祭典の終わりに神殿講話がなされる。通常は教団トップの真柱(しんばしら)が神殿講話を行うが、この日は内統領の役職を担っている宮森与一郎(61歳、本年4月に就任)・本部員が講話を担当した。内統領とは天理教の祭儀・教義を統括する最高責任者を意味する。ここでは教義の最高責任者としての内統領のお話からその趣旨と現在における天理教の教理理解について検討してみよう。

 

 教祖(きょうそは、おやさまと呼称される)となった中山みきの生涯は雛型の親として、その生き様が人生のあるべきモデルとして尊ばれる。人間の常識や世間並みの思考様式が批判され、あるべき人間の生き方、神一条の信仰態度が求められれることになる。そこに信仰心というものが問われる。天理教の教えは、一言で言って、「人間が生かされていることを喜ぶ」という一字に集約できるだろう。それも艱難辛苦、病いや家庭不和の中でもそれを喜びに変えることが天理教信仰の醍醐味にある。

 さて、その雛型は教祖一人によって成り立ったわけではなく、夫や6人の子供たちとの中山家の家庭での出来事も雛型の重要な要素であることが今回の神殿講話の冒頭に強調された。神が入りこみ、神の言葉を伝える中山みきからの神意は本人一人で完結するのではない。まず一番近くにいる家族に大きな影響を及ぼし、家族がいかにその教えを受け取るかに信仰の有り方が試金石として試されたのである。

 今回、娘の「こかん」さんが特に取上げれられた。教祖の子供たちは6人いたが、教祖より長生きしたのは「おまさ」だけであり、他は皆、教祖が御在世中に亡くなられたといという悲話が今回「こかん」さんを事例として話された。

 天保9年に教祖に神が天下った時に、こかんはわずか、10ヶ月の赤ん坊であった。父の善兵衛が17歳の時に出直し(天理教では亡くなることを出直しと言う)た時、こかんは、教祖から命令されて、大阪で神名流しの匂いがけ(布教)を行ったという。こかんは教祖の元にいて、よりくる信者に神の意志を伝え、「若き神、名はこかん」(『おさしづ』31年7月14日夜)と言われたほどであった。教祖が生き神扱いをされたが、こかんも同様に一種の神格者として受け取られるような人間だったことが想定される。実際にこかんも神の言葉を伝えたとされる。

 

 こかん様については、教祖と同格の神の社(やしろ)であることを匂わす以下のような『おふできさき』』(教祖直筆の啓示録、原典Ⅱとも)

もある。

 「月日より 社となるを 二人とも 別間へだてて おいてもろたら」 第九号五

 この二人とは、教祖とこかんをさしているとされるが、教祖が「月日の社」という称号を与えられた神の言葉を伝える啓示者であるなら、こかかも同様に「やしろ」として、特別な扱いを受けるべきであるということが諭されている。そこに「別間」隔ての意義があり、神の言葉を伝えるこかんの重要な役割が期待されていたのであった。

 

 そのこかんが明治8年、39歳の時に出直してしまう。この時、教祖は監獄に入れられており、娘の死に立ち会うことができなかった。天理教に対する迫害弾圧も盛んな頃であった。多くの信徒が生まれており、明治政府からも疎まれていた時期である。亡くなった理由は、『おふでさき』第11号に詳しく記されている。こかんは、請われて、亡くなった姉はるの嫁ぎ先である櫟本の梶本家に幼い子供たちの面倒を見ることで、三島の屋敷を離れてしまっていた。当時の常識として、妹が亡くなった姉の代わりに後沿いとしてその家に入ることが期待されていた。しかし、神一条の仕事を、こかんに期待した教祖、親神がゆるすことでは無かった。

 

 あれいんでこらほどなにもすきやかに たすかる事をはやくしりたら  第十一号三十三

 それしらずどふどいなさすこのことで よふぢよさしてをことをもだで  第十一号三十四

 こんな事はやくしりたる事ならば せつなみもなししんバいもなし    第十一号三十五

 

 こかんが屋敷に帰ったなら、すみやかに救済されることを早く知ったなら

 そのように助かることも知らず、こかんを屋敷に戻さずに、櫟本で養生させようと思ってしまった

 この真実を早く知ったならば、こかんの苦しみも心配もないはずであった

 

 この神の言葉がこかんが亡くなったことの意味を明快に明かしている。教祖は冷たくなったこかんの体をさすって、「可哀想に、早く帰っておいで」とねぎらいの言葉をかけたという。大切な期待も大きかった娘の死に対して、教祖の態度は毅然としたものであった。普通の人間なら、娘の死に対してこれほど感情をコントロールすることは出来ないだろうが、ここに最愛の娘の死を止揚する教祖の強い心、親神の意志に忠実な教祖の心の有り方が示されている。教祖は肉体のこかんはたとえ早死にしたとしても、その魂は出直しても直に生まれ変わってくることが見えていたのである(玉千代様として27年後、明治35年9月30日に再生された。ただ山澤本・和歌体14年本の第30号では、30年後にたまひめとして元の屋敷へととも予言されているので、神様の当初の計画より早まったと思われます。)。

 なお「こかん」様の魂は教祖の次女「おやす」、四女「おつね」の生まれ変わりという話は教祖伝、梶本宗太郎氏の講話に詳しい。

(参照 http://blog.livedoor.jp/rokkouoroshini/archives/1045258705.html )

 

 宮森本部員は教会長などの肩書に意味があるのではなく、その実質的な行いにこそ意味があることに警鐘を鳴らした。

 そして、真柱が身上(病のことを見上という、脳こうそくで両手麻痺とされる)であり、段々回復に向かっているなかで、このような神の仕込みがあること。そして、真柱の意義について『おさしづ』明治39年5月26日のお言葉引用され、指導者として真柱の声を立てることが説かれた。

 

 「さあさあ皆の一声千声よりも、しんばしらの一声。しんばしらの一声は用いらん者はあろうまい」(『おさしづ』第6巻, 4598-4599頁)

 

 現在の天理教の教団のトップである真柱は中山善司様は、実は2018年の6月7日に東京で倒れ、入院。「おさづけ」の運びも止まってしまった。代行者の善亮氏がお運びをされていることは、一部の信徒には知られていた。「おさづけ」とは救済の技法を神様からいただくというのが元々の趣旨であり、それは現行の慣習では真柱が与えることになっていた。それがストップしてしまった。これは天理教にとって一大大事件である。

 今回初めて、本部の神殿講話を通じて、真柱の身上が全信徒に伝達されたという意義は大きい。教団のトップリーダーが倒れた意味は、実は大変深刻な事態であるが、あたかも何事もなかったように隠されてきたことに今の教団組織のあり方が疑問視されてしかるべきであろう。

 おふでさきの神意に沿えば、真柱自身が、神一条に沿っていないことへの大きな仕込みであることが、別の論理展開によってすり替えらえている。神一条、つとめ一条、地場一条と内統領は強調された。そこから真柱の大切さが強調されているが、これは本末転倒であります。

 真柱には教団トップリーダーの役割があることは、その始まりから決められたことであるが、それを決めたのは神意の発露である教祖であった。おさしづの中でも、真柱の意義とはなにかが繰り返し説かれた。すなわち「裏は鍛冶屋に、表は大工」という重要なお言葉があり、今では忘れ去られている。初代真柱は、櫟本にある鍛冶屋の梶本家から養子としてむかられた、中山真之亮である。これが屋敷の中では位置的に裏手に住んでいた。それに対して神意の発露であった、本席の飯降伊蔵は元々大工であった。膨大の神意は『おさしず』として残されている。天理教は啓示宗教が元来の姿であったが、本席さまが明治40年6月9日にお出直しになられてから、その神意の発露が無くなり、今に至る。

 幸い、本席様から上田奈良糸様への「おさづけ」役の後継は、本席様が出直す前のご遺言となる「百日さしず」の間に正式にぎりぎりになされました。しかし、大正七年(1918年)に、ある大きな天啓者弾圧事件と同時に、奈良糸様のお運びが出来なくなるという節目があった。その際、「おさづけ」の運びは、教祖のお孫にあたる中山たまへ様が大正七年七月十一日からされることとなった。

  その後、二代真柱、三代真柱、そして四代目の善司様へのさづけ役が後継された。その後、諭達というものが生まれ、それが地場から発せられる神の言葉的なものとして、真柱様の責務に神意の発露を重ねてしまって今に至ります。

 今から100年前に、「おさづけ」の運びが止まったという史実があった。あれから100年、同じことが今まさに繰り返されている。このことは何か大きなお知らせであると、神意を求める人なら誰しも感じる事態であります。平成30年という平成が終わる節目の年にあたり、重大な節目を天理教は迎えることになりました。    

 

 こかん様は出直してしまったが、今の真柱は命まで取り上げられていない。地場一条もつとめ一条もすべて、言葉一条ないし詞(ことば)一条に淵源がある。神の詞を真柱様はじめ本部の方々が求めること、その素直さが人間思案を超える唯一の道であると思われます。  

 

 本席様の遺言としての「百日さしづ」は10年先のことを100日以内におさめて説いたというもので、神様の言葉を聞けなくとも、10年間は、この言葉を生かして進んでほしいという内容であった。そこには道の後継の問題も説かれていました。 教祖存命の理とは、本席様の言葉が教祖の言葉として生きていました。 月日=教祖=本席として、理は一つであった。

 

 合掌