教祖が亡くなった直後の信徒の精神状況は、一言でいって人間心ばっかりだったという。これは月日の社である教祖から発する天の言葉が唯一の救済の源泉であったからである。その教祖の突然の逝去、昇天によって、信徒達の信仰心は一挙に萎えたのである。
永尾芳枝がこのあたりを次のように証言している。
「教祖様のご昇天になった後のお屋敷といふものは人間心ばっかりで、永の年月教祖様唯お一人を頼りとして、またお言葉を信じて連れて通らして貰ふたのに、その教祖様は此の世のお方ではなく、そんな時にこの有様やから、とても/乀苦しみは一と通りや二た通りではなかったのや。」
この時の芳枝たちの気持ちは、それ以上話すと、「人を恨むやうになるさかいに言はんとくが・・・」と話しているが、これは明らかに、真之亮が何度も呼ばれても来なかった事情を暗に指している。
「おさしづ」には「真柱を呼べ」という言葉がなぜか記述されていない。神意を伝える伊蔵は表向きは、年寄の伊蔵である。たまに刻限があったとしても、周りは軽く伊蔵が扱っていることがよくわかる。しかし、教祖が昇天して、この道が道として続くには、伊蔵による神の言葉が是非とも必要である。すでのその路線は教祖が昇天される前から敷かれていた。
すなわち、伊蔵夫婦は元治元年から信仰を始めたが、何度目からのお屋敷訪問の際に、すでに2人とも扇と御幣のさづけをいただく。
明治八九年ころから、刻限話をするような身体性を帯びていたのである。そのころ、言上の伺いという神意を伝える役割としての「言上のさづけ」をいただいている(『天の定規』(1997年)22頁)。明治13年前後には、教祖は身上・事情の伺いには答えなくなり、代わりに伊蔵さんのところに行きなさいということになっていた。埃の事は仕事場へということで、「仕事場」という役前が与えられて、それは人間側の伺いに対する神意を伝える役割であった。
さて、「扇の伺い」は教祖から23人に与えられたが、そのほとんどは取り上げられた。伊蔵だけがただ一人その仕事を継続できたのである。その無心で、謙虚な態度から周囲には元大工だろうくらいにしかみなされなかったが、神様が一番期待したのが伊蔵である。
陰暦正月二十六日に突如として、教祖が昇天する。
陰暦二月三日に、をびや許しが伊蔵から出され、教祖の代理的な仕事を帯び始めていることはすでに述べた。そしてに陰暦二月十日に「これはという事がありても、案じるではない。神が入り込み、皆なす事や」という予告が下された。これも前回述べた。それではいかなることが起きたのだろうか。
それは伊蔵の身体的異変であるが、とくに陰暦二月十七日の午後から始まる病変は、鬼気迫るものを感じさせる。同月の末までに寝込むようになった伊蔵の肉体に何があったのか。本人の身体的苦しみは、とても激しく「熱が高うて、玉のような汗が拭く暇もないほど流れ出る。その汗を拭いて絞ると、飴の様なものが流れて糸のように引張るので、人々は此んな不思議な病気は見たことがないと言ふでゐた位やった」(「永尾芳枝祖母口述記」『復元3号』131頁)
「真柱を呼べ、早よう真柱を此処へ連れて来い」という刻限話があった。これは普段は真柱にへりくだっている伊蔵の言葉ではなく、神の言葉である。だが、伊蔵の神の言葉は軽く受け取られる。真柱はなぜか、現れない。
伊蔵の病変はこれだけではない。 (つづく)