「天理教」は宗教か、真実の教えか -21ページ目

「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

 教祖が亡くなった直後の信徒の精神状況は、一言でいって人間心ばっかりだったという。これは月日の社である教祖から発する天の言葉が唯一の救済の源泉であったからである。その教祖の突然の逝去、昇天によって、信徒達の信仰心は一挙に萎えたのである。

 永尾芳枝がこのあたりを次のように証言している。

 「教祖様のご昇天になった後のお屋敷といふものは人間心ばっかりで、永の年月教祖様唯お一人を頼りとして、またお言葉を信じて連れて通らして貰ふたのに、その教祖様は此の世のお方ではなく、そんな時にこの有様やから、とても/乀苦しみは一と通りや二た通りではなかったのや。」

 この時の芳枝たちの気持ちは、それ以上話すと、「人を恨むやうになるさかいに言はんとくが・・・」と話しているが、これは明らかに、真之亮が何度も呼ばれても来なかった事情を暗に指している。

 「おさしづ」には「真柱を呼べ」という言葉がなぜか記述されていない。神意を伝える伊蔵は表向きは、年寄の伊蔵である。たまに刻限があったとしても、周りは軽く伊蔵が扱っていることがよくわかる。しかし、教祖が昇天して、この道が道として続くには、伊蔵による神の言葉が是非とも必要である。すでのその路線は教祖が昇天される前から敷かれていた。

 すなわち、伊蔵夫婦は元治元年から信仰を始めたが、何度目からのお屋敷訪問の際に、すでに2人とも扇と御幣のさづけをいただく。

明治八九年ころから、刻限話をするような身体性を帯びていたのである。そのころ、言上の伺いという神意を伝える役割としての「言上のさづけ」をいただいている(『天の定規』(1997年)22頁)。明治13年前後には、教祖は身上・事情の伺いには答えなくなり、代わりに伊蔵さんのところに行きなさいということになっていた。埃の事は仕事場へということで、「仕事場」という役前が与えられて、それは人間側の伺いに対する神意を伝える役割であった。

 さて、「扇の伺い」は教祖から23人に与えられたが、そのほとんどは取り上げられた。伊蔵だけがただ一人その仕事を継続できたのである。その無心で、謙虚な態度から周囲には元大工だろうくらいにしかみなされなかったが、神様が一番期待したのが伊蔵である。

 

 陰暦正月二十六日に突如として、教祖が昇天する。

 陰暦二月三日に、をびや許しが伊蔵から出され、教祖の代理的な仕事を帯び始めていることはすでに述べた。そしてに陰暦二月十日に「これはという事がありても、案じるではない。神が入り込み、皆なす事や」という予告が下された。これも前回述べた。それではいかなることが起きたのだろうか。

 それは伊蔵の身体的異変であるが、とくに陰暦二月十七日の午後から始まる病変は、鬼気迫るものを感じさせる。同月の末までに寝込むようになった伊蔵の肉体に何があったのか。本人の身体的苦しみは、とても激しく「熱が高うて、玉のような汗が拭く暇もないほど流れ出る。その汗を拭いて絞ると、飴の様なものが流れて糸のように引張るので、人々は此んな不思議な病気は見たことがないと言ふでゐた位やった」(「永尾芳枝祖母口述記」『復元3号』131頁)

 「真柱を呼べ、早よう真柱を此処へ連れて来い」という刻限話があった。これは普段は真柱にへりくだっている伊蔵の言葉ではなく、神の言葉である。だが、伊蔵の神の言葉は軽く受け取られる。真柱はなぜか、現れない。

 伊蔵の病変はこれだけではない。  (つづく)

 

 教祖が明治20年2月18日(陰暦正月二十六日)のお出直しから、本席定めのある3月25日までは、この道における啓示者の継承という極めて重要な時期にあたっている。もし、この期間に本席となられる飯降伊蔵が出直すようなことがあれば、その後の道の発展はなかったであろう。教祖には多くの直弟子がおられたが、中山家以外で、屋敷に定住する形でいた信徒はわずかであり、その出現から教祖が楽しみに待たれたのが、大工の伊蔵である。

  実は伊蔵が屋敷に定住するようになるのは、明治15年2月8日であったが、そこに至るまでには紆余曲折があった。櫟本の屋敷を引き払ったのである。屋敷に定住するようになった伊蔵に教祖は次のように話された。

 「これから一つの世帯、一つの家内と定めて伏せ込んだ。万劫末代動いてはいかん。動かしてはならんで。」

 これは中山家以外の人の中でも最大級の期待がかけられていることが分かる。飯降家は後に三軒三棟の理が鼎立するが、天の組織つくりの上で重要な柱の一つとなる。

 そしてその期待通りに教祖の片腕となり、仕事場にもなったのが伊蔵であった。だがそれは、ほこりの仕事場とも呼ばれて、本流の仕事ではなかった。身上や事情助けということへの神意の伺いが言語啓示として、さらに「扇のさづけ」をもいただいた方として御用されていた。だが、教祖が亡くなり、仕事場の仕事が本流へとバージョンアップしなければ、この道のエネルギー源は消えてしまう。神意が受動的にさしづとして下されるのではなく、より主体的に能動的に発動しなければ、神直接のリーダーシップは図れない。

 とは言うものの、伊蔵に神が入り込んで話す刻限話は、櫟本から屋敷に通っていた明治八九年からあったという(「永尾芳枝祖母口述記」『復元3号』136頁)。それは将来を予告するような啓示で、本人はその発言の記憶がないが、不意に「見えん先のこと、見えてないことを一と言いふて置くで」と仰った。

 

  1.お諭しだとか刻限話という神直々の重要な神意の発露がその第一の仕事。

  2.救済の技法としてのおさづけの授与すること。

 

 これはどちらも教祖が天保9年以来50年もの長き啓示者としての歩みの中から出てきたお仕事である。この中で、実際の救済が始まるのは、ずっと後になってからであり、珍し助けのない貧のどん底への道が前半生においてあった。中山家の屋敷も財産も施すことが、刻限話によって進められた。そして夫の善兵衛さんは苦悩したし、秀司さんも、こかんさんも先に出直された。

 救済の始まりは、をびや助けであり、「をびや許し」はこの世の元始まりの証拠としての安産の御守護であった。教祖自らが体験し、さらに周辺に伝播して、人気ある神様と評判になる救済の実現であった。

 伊蔵がその「をびや許し」を出すことが、早くも2月25日午後7時の「御諭」である。引用してみよう。

 「第一をびやたすけ、さあ三日目三粒を三つ、三三九つを百層倍。これをかんろう台へ供え、本づとめをして、元のぢばなる事を傳へ、をびや許しを出す」

 教祖が亡くなってから1週間もたたない間に、伊蔵から「をびや許し」が出されたことは注目すべきことである。ここで伊蔵の仕事場が教祖の代理者である側面がより濃厚になったきた証だと思われる出来事だった。

 本席定めに向かう一か月の間には、多くの刻限話があったが、伊蔵の身体も実は大変な過程を経ていた。教祖と同様に伊蔵自身も出直すほどの身体的危機を乗り越えているのである。普通だったら、彼も亡くなってもおかしくないほどの身体的異変である。

 刻限は続く。3月1日。3月4日、3月10日、3月11日とおさしづが収録されているが、特に前兆的なお知らせらが4日にあった。

 

明治20年3月4日 刻限御話

  ・・・・・

 (暫く刻限過ぎて大声にて、ワツと二声上げ)

 「さあ/乀身の内にどんな障りが付いても、これはという事がありても、案じるのではない。神が入り込み、皆為す事や」

 

これは何事が起きても、心配するなよという神の予告であった。

そして、実際に、大変厳しい身体的異変が起きるのであった。  (つづく)

 飯降尹之助先生が『復元』第3号(昭和21年9月)に「永尾芳枝祖母口述記」という貴重な記録を残されている。本席出直し後、40年祭に際に書かれたものであるが、これを参考に政甚に掛けられ神意の起源をたどってみよう。

 

 明治5年(1872年)に飯降伊蔵の長男の政治郎が頭を打って、わずか5歳で出直した。そのころ、櫟本から毎日日参されていた伊蔵夫婦が落ち込んだことは言うまでもない。元治元年(1864年)以来、熱心に信仰をして夫婦にこのような試練が与えられる。

 教祖は「何も案じることは要らんで、今度は木の芽の吹く様に返やすで、先に名前をつけとくで、木ではじんほど固いものはないやろ、”政甚”とつけて置くで」と仰った。その際、以下のお歌が教祖から渡された。

 

  風よけはできてあれどもしまりなし 早くしまりのもよふするなり

  いつまでも暮す場所を思案せよ 心定めて早くおちつけ

  おちつけば着物食ひもの不自由なし 早く小人を返すことなり

  この小人こんど返したことならば これ日の本の棟梁となる

 

 これは『おふでさき』にもその外冊にも収録されていない。すでに明治二年から『おふでき』の執筆は教祖によって開始されていて、断続的に明治15年まで書かれた。おおよそ、平仮名で書かれた書体が大半なので、復元を編纂していた山澤為次氏によれば、原文は平仮名ではないかと推測されている。

 こうして教祖の預言どおりに明治8年12月26日に男の子が生まれた。教祖は生まれたばかりの子供を見て、

 「それ見や、男の子やろがな、先に名前つけたるで」

 さらにひざの上に抱き上げて

 「この子はな、前生は便所の中に落ちたる御飯粒までも拾ふて、破れ衣で諸国を巡り歩かはつた上人さんの生れがはりや、今生は一生楽遊びをするのやで」

 

  弘法大師の生まれ変わりとも伝えられ、またこのお言葉によって「おさづけの理」はさづけられなかったと尹之助氏は下記の残している。 また弘法大師だけでなく、法然の魂でもあったという伝承もある。

 

  飯降家は櫟本から通っていたが、飯降家が屋敷の人となるように教祖から催促されていた。それを促したお言葉である。屋敷に「締まり」という比喩は単に建物のことではなく、大きな役割が期待されていることが分かる。そして生まれるべき男の子の預言もあり、教祖がこの男の子に大きな期待をかけていることが分かる。

 

 明治15年旧2月8日に(太陽暦3月26日)に、櫟本の家を引き払って、教祖のもとに帰ることになった。

 

 教組からは、「これからは、1つの世帯、1つの家内と定めて伏せ込んだ、万劫末代動いてはいかん、動かしてはならんで」との仰せがあった(復元3号、p.124)。

 

  大所帯の飯降家が貧乏な中山家の屋敷にはいったことを不足する人たちがいたが、皆教祖の在世中に出直したという(同、p.129)。

 

  

 明治20年に教祖が出直す際のつとめの人でもあった政甚さんであるが、その時はわずか12歳である。

 

 「子供は神の引き受けと言うて引き寄せたるところ、どうでもこうでも治めてくれ。頼み置くと言うてあろ」

  (『おさしづ』明治26年5月17日)

 

 上記は、政甚さんの身上治まり願いにたいする重要な諭しであった。 神様が特定の魂の持ち主を地場に引き寄せているのである。それを周囲の者たちが軽くしていることが、こうしたお言葉から読み取れるのである。  

 

 また、同じように名前が生前からつけられていたのが、教祖の孫である中山たまへさんである。たまへさんは初代真柱婦人となられるお方である。梶本真之亮が梶本家から婿養子として迎えられて結婚し、初代真柱となる。 

  この3人は、みな道具の魂の持ち主である。

 

 さて、日の本の棟梁となると預言されていたが政甚さんであるが、のちに「二代大工」(明治32年2月21日)という「おさしづ」もある。 

  大工とは本席様の元の職業を意味するのではなく、以下の啓示にあるように本席様の啓示者としての職能を意味している。

  当時の人びとはその辺の認識が浅かったのである。政甚さんは、25歳の時の大工修行を決意したが、その背後には、二代目の本席という仕事も暗示されていたはずであり、相当な思惑が掛かっていたのである。  

 

 「最初裏は鍛冶屋表大工という」(おさしづ 明治26年2月6日 刻限)

 

 「裏は鍛冶屋表は大工、聞き分けば、神の守護、十二下りの止めは大工、これさえ聞き分けたら、苦労したいと言うても出けんんが神の守護、働き分かりたか。」(おさしづ、明治31年7月14日夜 刻限)

 

 「掛かり親子諸共親子諸共伏せ込んだ理、親子諸共の理、棟三軒の理、実際分からん。大工というは何と思てる。表大工に裏鍛冶屋、この理聞き分け。三軒建ち並んだ。」 (おさしづ、明治31年10月1日 飯降政甚建物御許し願)

 

 「今日の日待ち兼ねた。今日の日が無くては道の理は何処にあるぞ、・・・・さあさあ二代大工と言うて置く。・・・しんばしらにも注意してくれ。二代の理とも、三代の理とも分からん。・・」(おさしづ、明治32年2月21日 飯降政甚事業に付願)

 

 

 これは簡単なようで、大変重い、大工(啓示者)の意義が説かれている。また「みかぐら歌」の十二下り目も啓示者の永遠性を伝えていることは、今の天理教教団の教えにはない。 

 

 存命の理は永遠であること、それは、大工の理として継承されたことを意味する。大工の理がわかることが、神の守護が大きくもたらされる源泉なのである。 

 

 大工は伊蔵であり、鍛冶屋は梶本家からきた、初代真柱の真之亮を意味する。 この二本柱が道の根幹的な組織である。 

 

 三軒三棟の理も、十分に理解されていないが、これは明らかに天啓者を出す3つの家柄が想定されている。それが絶対動かしてならない家柄を意味する。三軒とは後に、飯降本家、飯降分家、永尾家の三家としてのちに明かされた。

 

 中山家から啓示者がでないなら、三軒から出るというように、交互に啓示を輩出する組織作りが意図されていた。

 

 さて、政甚さんが、明らかに神の機械(啓示者)となることが預言されていたのである。

 

 教祖や本席様は、このように生まれ変わりに関して、よくその教示があった。誰が誰の生まれ変わりという教説は、神様からでないと分からない教えであろう。

 

 お地場に生まれた幼いお子様たちの魂にも何か大きな意味があるはずでしょう。  お誕生日おめでとうざいます。

 昨日の続きを書きます。「扉を開く」の意味が実は、教祖の死を意味していたことは、教祖の死亡直後の本席の言葉から以下に引用する中で初めて分かったのである。教祖の死は、神様の計画に最初からあったのか、それとも人間側の理由からであったのか。教祖は生前から人間の寿命は115歳であり、多くの信徒は教祖がまさか90歳でお亡くなりになるとは思わなかった。

 しかし、結果からみると、教祖は115歳まで生きるべきところ、寿命をあえて縮められたことが分かる。ご自分が生きていれば、警察に遠慮していつまでも「おつとめ」をしない。このつとめを急きこむために、教祖は自らの命をささげたように思われる。これは神様が決めたことか、肉体ある生身の教祖がお決めになったのか。月日の社である教祖の立場からすれば、これは一体的に考えるべきだろう。

 イエスの死はパウロによって人類の罪を贖うためだという贖罪死がのちに教義的に成立し、その死は救済と直接かかわる含意が神学的に深められている。どこのキリスト教会でも、毎週の日曜日のミサで常に、イエスの肉体や血が象徴的に救済の証として儀礼的に繰り返される。

 では、教祖の死は救済史的にいかなる意味があるのか。教祖の始めた道の継続は、教祖抜きには考えにくい。教祖の死は、道の途絶を意味するほど深刻な事態である。それも唐突に起きた教祖の死である。教祖が亡くなった直後に信徒たちを集めた写真が残されているが、みな茫然としてることが分かる。ただ飯田岩次郎が大きく横柄に腕を両脇に抱えているのが印象的で、本席様は指金をもっているのが不思議な光景である。子供たちも小さく写っている。

 だた分かっていることは、教祖はつとめの急きこみに期待をかけて、自らの命を捧げたということである。おつとめをすることが、教祖の命をかけても必要だったという意味である。それほど、「おつとめ」には何か大きな意味が内蔵されいることが分かる。おつとめは教祖の遺言状のようなものである。救済を進めるために、寿命をあえて短くされたのが、教祖の御決意だと思われる。

 ただ、教祖が亡くなっても神意の泉は切れていなかった。すでに本席となる高弟の飯降伊蔵が「おさしづ」の御用を下されていた。それまでの身上・事情などの些末的な伺いに便利に教祖の代わりを務めていた。しかし、神との回路はもう、飯降伊蔵一人しかいない。教祖の娘のこかんさんも若き神として啓示的な仕事をされていたが、その別間の御用は、長く続かなかった。教祖より先にこかんさんは亡くなられた。教祖の期待は、こうして、高弟の飯降伊蔵に最も掛けられていたのである。みかぐら歌の十二下りに「大工」の人が言われているが、これは本席の御用を暗示しているとしか思えない。

 教祖は無責任に自らの死を早めたのではない、自らの代理となる神の機械としてすでに飯降伊蔵を用意していたのである。飯降伊蔵はパウロどころではない。二代目の啓示者として教祖の死を補う重責をピンチヒッターとして負うことになったのである。

 そうなると、本席の御用は本来、25年間が期待されていたが、このことは別に考えたい。

 さて、教祖の死亡直後の「おさしづ」を引用しよう。

 

 明治20年2月18日(陰暦正月二十六日)午後

 明治二十年一月九日(陰暦十二月十六日)より教祖身上一寸御障りつき、御やすみに
なり、同一月十八日(陰暦十二月二十五日)の夜よりおかぐらづとめ並びに十二下り始
まり、二月十七日(陰暦正月二十五日)夜まで、毎夜おつとめあり、又二月十八日(陰
暦正月二十六日)正午十二時より教祖の御身上迫りしに付、それよりかんろだいにてお
かぐらつとめ、あと十二下りのてをどりあり。その時眞之亮より詰合いの人々へ、だん
/\御談示の上『おつとめの時、もし警察より如何なる干渉ありても、命捨てゝもとい
う心の者のみおつとめせよ』と仰せあり。それより皆々心を十分定め、その用意して、
おつとめに掛かりたる者、地方泉田藤吉、平野楢藏、神楽真之亮、前川菊太郎、飯
降政甚、山本利三郎、高井猶吉、桝井伊三郎、辻忠作、鴻田忠三郎、上田いそ、岡田與
之助(宮森與三郎、お手振) り 清水與之助、山本利三郎、高井猶吉、桝井伊三郎、辻
忠作、岡田與之 助、鳴物 中山たまへ(琴)、飯降よしゑ(永尾)(三味線)、橋本清(つ
ゞみ) の人々なり。家事取締の任に當りたる者、梅谷四郎兵衛、増野正兵衛、梶本松治
郎にて、以上總人數十九人なり。おつとめは午後一時より始まり、二時に終る。右お
つとめの終ると共に、教祖息を遊ばされずなる。それより内藏の二階の中にて、飯降伊
藏により御伺あり。

 「さあ/\ろっくの地にする。皆々揃うたか/\。よう聞き分け。これまでに言うた事、實の箱へ入れて置いたが、神が扉を開いて出たから、子供可愛い故、をやの命を二十五年の先の命を縮めて、今からたすけするのやで。

 しっかり見て居よ。今までとこれから先としっかり見て居よ。

 扉開いてろっくの地にしようか、扉閉めてろっくの地にしてくれ、と、言うたやないか。思うようにしてやった。 

 さあ、これまで子供にやりたいものもあった。なれども、ようやらなんだ。又々、これから先だん/\に理が渡そう。よう聞いて置け」

 

 教祖は亡くなっても、神意の泉はここにあるのである。まだ本席と定まっていないが、「理を渡す」という教祖と同じ職能がここに暗示されているのである。「おさづけ」はこれまで、教祖御一人からだけ、渡されていた。伊蔵からはおそらく、「おさづけ」は渡されていなかっただろう。ただ「言上の伺い」という言語啓示の仕事はされていた。また「扇の伺い」というさづけも渡されていた。なお「おさづけ」の種類にはいくつかあったが、多くの人たちは貰い損ないをしているように思われる。

 いづれにしても、神の啓示者としての本席定めが、この後に実現する。そして、教祖の代理人としての本席の御用とともに、明治期の天理教の爆発的な広がりが預言通りに実現するのである。「今までとこれから先としっかり見て居よ。」

 現在、コロナ禍で、今までとこれから先と大きく世界は変容する。「みな見ていよそばなもの神のすることなすことを」

 お地場も変容していかねばならぬ時旬である。大激変する前夜を迎える今である。地場では新しいお子様が生まれたという、楽しみにな魂がまた戻って来られた。

 『おさしづ』の冒頭を読むと、興味深い史実が多く書かれていることが分かる。教祖がお亡くなりになる(*教会本部では、教祖の死は常に「御身を隠される」という形容語で統一されているが、ここでは自由な表記をとる)一か月半前から、飯降伊蔵の「おさしづ」が掲載されている。

 明治20年1月4日の「おさしづ」が最初のものである。公刊本では、教祖の出直し直前から「おさしづ」が掲載ということだが、言上の伺いで下された神意も、「おさしづ」と広く理解するなら、これ以前から大量にあったのだが、書き取り体制もなかったであろう。桝井伊三郎(?)などがいただいた「おさしづ」などは書きとられている。どこかで見た覚えがある。

 それはそうと、この最初のおさしづの注意書きに、「この時教祖の御身上は冷たくなる。」ということが書かれている。すなわち、この時点で、教祖は亡くなったということである。それで、みな急いで、ひっそり「おつとめ」をしたという。こうして息を吹き返した教祖だが、何も召し上がらなかったという。

 教祖は明治20年2月18日(陽暦)にお亡くなりになるが、その予告的なことはすでにこのようにあったのである。教祖は亡くなる前に、信徒たちに一番急きこんだことは、「つとめ」をすることであった。しかし、つとめをすれば、警察が来る。明治政府の法律のもと、国家権力による統制があり、自由な宗教活動が制限されている状況があった。

 明治20年1月13日は、本席ではなく、教祖の肉声としての神の言葉と真之亮とのやり取りがあり、これは神と人間の応答として傑出した場面を浮かび上がらせている。これについては別の機会に述べるとして、「扉を開く」という言辞がいつ出されたのかを調べてみたい。

 それは、明治20年2月17日の夜であった。教祖の身体に障りがあり、再度の伺いとなった中でのおさしづである。以下引用してみよう。

 

 「さあ/\すっきりろくぢに踏み均らすで。さあ/\扉を開いて/\、一列ろくぢ。さあろくぢに踏み出す。さあ/\扉を開いて地を均らそうか、扉を閉まりて地を均らそうか/\。」

 

 一同より『扉を開いてろくぢに均らして下されたい』と答う。(伺いの扇この時開く。)

 

 「成る立てやい、どういう立てやい。いずれ/\/\引き寄せ、どういう事も引き寄せ、何でも彼でも引き寄せる中、一列に扉を開く/\/\/\。ころりと変わるで。」

 

 また『世界の事情運ばして貰いとう御座ります。』と

 

 「ならん/\/\」

 

 これは翌日、実際に命がけのおつとめをすることになる直前の「おさしづ」であり、ここで初めて「扉を開く」か「扉を閉める」かが問われていたが、すでに神様の側から、「扉を開いて、一列ろくぢ」と語られているのである。その上で、人間に同じことが問われて、この文脈では、扉を開くしか選択肢はなかったと思わざるを得ない。ただし、その含意が教祖の死であることは、だれにもわかっていない。これは何も神様が人間をだましているわけでもなく、神の救済計画の一部として仕組まれていたと思われるのである。

 教祖が生きていれば、いつまでも警察に遠慮してつとめをしない。そこで、教祖の肉体的死がここではつとめの急きこみのための唯一の手段となったのである。あらあらの教えはすべて説かれた。疑いながらも信徒たちは何とかついてきてくれた。そして最後に実践してほしかった「つとめ」ができていなかった。「おつとめ」はまさに、教祖が自らの命をささげても残したかった何かなのである。

 本日も8月26日、お地場の本部の月次祭の日です。地場の大切なおつとめは今も続ています。コロナ禍での世界救済のおつとめが勤められねばなりません。 (つづく)

 前項の続きを書きます。明治28年5月22日には、「前川菊太郎副会長選定の願」があった。その前の19日には「前川菊太郎居宅新築願」もあり、本部を構成する重要メンバーの前川氏が屋敷に引き寄せられており、天の組織づくりが進んでいることが分かる。前川氏は「担い柱」「控え柱」という神職名(明治22年5月22日)でも期待されていた。しかし、その後、[前橋事件」を起こして、本部を去る。そのことについてはここでは触れない。この日の第3のお願いに「第三、本席の宅を政甚の名前に切り換える願」というものがあり、そこでの「おさしづ」を以下に引用する。

 「・・・席という万事のところ聞かせ置いて、事情一寸暫くのところ、扉を開いての働き、一代ではあろうまい。後々続いて又代という。後々代、それ無くばなろうまい。一時一つどうという、堅き理を諭するにはこうならこう。今日の日は子供に一つの事情、一寸一日二日三日が早い。治まったら早くするがよい。」

 前半の省略部分には人間のもつ所有感が否定されながらも、「一名一人の理のあるもの」として、どちらでもよいというが、上記のお話が続いた。これは本席の御用の意義を根本的に説いたものである。「扉を開く」ということは、天理教の人ならだれでも知っている教祖が御身を隠されて以降のことを意味する。

 明治二十年正月二十六日、教祖の出直し(死去)は預言通りに成就された。その際、本席から啓示である「扉を開くか、開かないか」どちらが良いのかと神からの問答があった。その暗喩は誰も教祖の出直しと関係があるとは思わなかった。それて「開く」ことがいいだろうと返答した。それは実は、教祖が扉を開いて、お亡くなりになることが含意されていた。世界に助けに出るという肉体的教祖の死である。そして霊性的・魂的実在の教祖への変身が意味されていた。

 その扉を開いて、教祖存命の理を体現されているのが、本席の一代という意味である。本席の言葉は、人間の言葉ではなくて、教祖の言葉である。これは外見からは分かりにくい。理として同じ趣旨が説かれていることが分からねば、本席は普通の人間、平凡な年寄にしか見えない。しかし本席は神の言葉を代弁している唯一のお方である。しかし、高齢でもあり、本席は永遠に生きていくことはできない。「後々続いて又代という。」という神意は重要である。単に用木が続くというのではない。本席という役職が続くといわれているのである。

 世間的・法律的には飯降伊蔵で登記されている本宅を、飯降政甚に変えるという。税制上の有利か、早めに相続させることが大和の習慣なのか分からない。ただ飯降伊蔵名義の財産を長男に早めに継がせようということである。それほどまでに本席が弱っていて、亡くなりそうだということかもしれないが。あるいは、ふらふらして心配をかけさせている20歳の政甚に名義を与えることで、責任感を持たせようという周囲の配慮かもしれない。政甚は前世は法然上人だとされ、さらに8人しかいない道具主の魂である。一筋心の強さは善にも悪にも強い魂の方に違いない。

 扉が開かれての働きとは、不思議な守護があるという狭い意味で解釈されがちである。存命の理という教えそのもの、本席による言語啓示という働きそのものが「扉が開かれての働き」だと解釈したい。

 教祖死後、本席の言語啓示に権威が集中してくるようになるが、中山家ではなく飯降家における啓示であるので、中山家の人々にとっては、権威が奪われた喪失感もあったであろう。そして、おそらく、政甚が二代目の本席の仕事を始めたら、それは中山家にとっては耐えがたいことだったかもしれない。

 中山家と飯降家という相いれない二家の対立という地場の裏事情については、憶測もあり、これ以上踏み込めない。中山家からは多くの姻戚関係が広がっているが、今でも飯降家とは縁戚関係が生まれていないそうである。中山家がダメになったとき、次の天啓者を出す家柄として反中山的な家柄を神様が用意されたと思ったほうが良いだろう。

 それはそうとして、いずれにしても飯降家は神の機械(天啓者)を輩出すべき家柄として、のちに「三軒三棟の理」として用意されることになることをここでは述べたい。

  中山家中心主義の教義の形成がされるなかで、「おさしづ」が十分に研究されていなことは、天理教の一大盲点である。おふできさ、みかぐら歌よりも分量的に豊富であり、歴史的史実が割書きからかなり想定できるところに「おさしづ」研究のだいご味があるだろう。

二代目の啓示者である本席様のお子様は3名おられて、その子供たちも屋敷の者として教祖の時代から引き寄せられた。そこには引き寄せる大きな理由があり、神様の期待がかかっていたことは確かである。やがて三軒三棟の理として、3人の子供たちは独立した家をもつことになるが、そのいきさつは「おさしづ」に明確にされている。

 本席様の長男である政甚さんが、大阪宮川小梅さんと縁談が進み、その許しがあり、新たに独立した家を持つことが神意から求められたのが、明治28年5月ころであった。

 明治28年5月19日の割書きに「政甚東の方本席御宅にて住居の事情願」がある。これは単体としての伺いではなく、教長(初代真柱)の身上の伺いが繰り返される中での、本部員への心得のために出された神意の一部である。単に本席の長男の問題というよりも、天の組織つくりとしての刻限話的に状況が設定されているように思われる。

 この日の「おさしづ」から、重要な神言を引用すると以下のようになる。

 「・・・旬に治まれば末代、と諭しおこう。神一条に濁り曇り更にない/乀。なれど、取りよう伝えようによりて曇りが始まる。曇りては神の道とは言わん。よう聞き分けてくれ。道というは、どれから教えに来たのやあろまいし、元々始め掛け事情より聞き分けてくれ。神一条の理は真っ直ぐなもの。真っ直ぐなればこそ、今日の道と言う。一つ治まれば、末代の事情、これ聞き分け。分からんから分からんようになるもの。もう一つ分からなんだら、すっきり分からんようになる。取り返やしのならんようになる。これ聞き分けてくれるよう。」

 当時の教会本部は資金難のなか、新しい建物を建てることさえ苦労していたことが伺える。本席の子供のために家を建てるなど、公私混同のような不満もある中で、人間としての本席様からも息子の家を建設してくれとは遠慮して言えなかったようだ。しかし、神が入り込んだ本席の口からはこのような発言が出された。冒頭部は省いたが、これまでもなかなかこの事案が進まなかったこと、本部員の心が遅れていることが暗に諭されて、さらにこのような道の根本的なことが諭されているのである。こころを作ることが遅れていること、濁っていることが厳しく諭されている。資金難や外部からの環境要因のことなど心配がある中で、本部員たちの心が澄んでいないことがいつものように諭される。どんなに神様が話しても、人間側の主体的な受け取り方に澄んでないもがあったり、疑いや不安や濁りがあれば、神も守護のしようがないのである。この道の教えは、どこから学んだものではない。教祖以来、天直接の啓示によって、教えが独立してもたらされたものである。仏教から学んだものではない。神社の神職から学んだものではない。隠れキリシタンから教わった一神教の教えでもない。草深い大和の田舎の中で、だれかから学んだものではなくて、目に見えぬ神が教祖や本席の肉体を通じて、神の思惑を啓示して、この道は発展したきたのである。政甚の縁談からその一家の独立にあたり、このことは末代の意味がある事情であることが諭されている。

 今がまさに心を治める旬だと説かれている。その治まった心を土台として、次の守護をしていくことが神様の計画にある。いつが旬なのかは、神意がもたらされる中で、立てあう事情の中から人間が自発的におさめていくのが神一条の神髄である。

 結論を先取りすれば、政甚家には本席の次の後継者としての神意を取り次ぐような期待が込められていたと思わざるを得ない。それが末代の意味であり、道の根幹がここに諭されているのである。これは天の組織つくりの上の大切な一里塚なのである。教長もこの中で、身上となり、この政甚の独立した家を作ることの方針が定まるのである。 (続く)

 真実の教えとその教えを守る組織との懸隔に悩んだのが内村鑑三である。キリスト教の教えはアメリカ由来で素晴らしいが、なぜ多くの教派に分かれて、分裂しているのか。これが若き日の内村の悩みだった。コネティカットの神学校に幻滅した内村は日本に帰国するしかなかった。愛する祖国日本に。内村は教派に決して属さず、独立を貫く。自らのミサもするし、洗礼も与えた。既存の教会の権威を超えて、自らの教会を立てたところに東洋人内村の偉大さがあった。

 さて天理教の教えは素晴らしいが、今の教団は好きになれないという意見がよく聞かれる。歴史の浅い天理教は、2000年の歴史をもつキリスト教の展開の歴史から学ぶことは多くあるだろう。しかし、教祖の説かれた独自な教説の中には、組織形成に関することもあった。これはイエスにはない独自の組織観である。

 ペテロの墓の上にカトリック教会が普遍的な教会制度として構築された。教会は神の体として、精神的なつながりが含意されているが、これは精神的な共同体である。これはイエスの教えというより、初代の信徒達が信仰を受け継ぐ中で自発的に構成したものである。あらゆる文化を超えて、信仰を広げるカトリック教会の普遍性に惹かれた土居健郎さんは無教会の矢内原先生を超えて、カトリックの信仰に落ちついた。日本のプロテスタント教会が戦争協力的な姿勢に、若き日の土居さんは耐えられなかった。

 教祖は、お地場を定めになった。すなわち、奈良県天理市の教会本部の神殿の中心に甘露台が立つ。これは永遠に変えられず、そこを中心に「かぐらづとめ」という最高の救済儀礼が行われる。この地点を守る、本部組織こそが今の天理教である。正統性を受け継ぐ教会本部の組織、教会本部を中心にピラミッドの組織形態が生み出された。本部の直属の大教会、その下部組織の分教会、布教所など。信仰の縦の伝道線として組織が形成された。本席時代には、地域ごとの教区制度が許された。これは地域的な活動という横の組織もあるが、基本は縦の伝道組織が中心となっている。

 教会の設置についても、教祖の時代から「講を結べ」ということで、講元を中心とした組織形成、そして親から子への信仰の継承が教祖ご自身から伝えられた。教会設置、名称、地所について、本席時代に多くの「おさしづ」が残されているが、神意の許しのもとで、教会組織が組み立てられてきたことが分かる。教会長も教会の名称の理も神の許しで生まれたものである。

 だが、神意が途切れれば、いかな組織でも腐っていく。組織は頭から腐る。真柱になりたくなかった後継者が真柱となって、やがて脳溢血に倒れられた。天理教団は組織のトップが病んでいる。真柱様が神意を受けない限り、正しい答えはいただけないに違いない。そして若い代理者は頭を柔らかくして、幼い娘のためにも、真柱の意義を尋ねなければならない。「裏は鍛冶屋に、表は大工」。地場はいずれ神意に素直に従う時節が必ず到来する。コロナ禍とともに、地場の掃除がますます進む時節となってきた。 地場がおかしくなったら、地場を支える別な組織形態が必要となる。これが天の組織つくりである。

 天理教教会本部にニュースに以下の記事(https://www.tenrikyo.or.jp/yoboku/information/2020/08/21/33415/)が掲載されました。いずれ、削除されるので、保存用にコピーしました。

 

天理大学から教内の皆様へ 

                                                          2020年08月21日 (金)

 

日ごろ本学ならびに本学ラグビー部に対して多大なるご支援を賜り、誠にありがとうございます。

 すでに報道されておりますが、ラグビー寮における新型コロナウイルスの集団感染につきまして、教内の皆様にご心配をおかけしておりますことをお詫び申し上げます。

 保健所等の関係行政機関との連携のもと、感染が判明した部員は医療機関に入院するなどしており、陰性が確認された部員についてもすべて寮以外の大学施設等に隔離し、二週間の経過観察を行う等、感染収束へ向け取り組んでおります。

 

 また、既に報道等でご存じかと思いますが、8月20日、並河 健 天理市長と共同会見を行い、天理大学生に対する不当な取り扱いが生じ始めている件について、報道各社を通して、地域・社会の皆様にご理解とご協力をお願いいたしました。加えて学生相談窓口を設け、ラグビー部員はもとより本学の学生の動揺や不安に対するケアにも取り組んでまいります。

 

 本学においては、従前より感染拡大の予防のため、学内各施設をはじめ、課外活動や寮における感染防止に努めてまいりましたが、そのなかで発生したこのたびの厳しい節と、その中にこめられし親神様の思召を真摯に受け止め、今後とも一手一つに取り組んでまいります。

 

                                             立教183年8月21日
                                         天理大学学長 永尾教昭

 

 コロナ禍が6か月も続いています。各教団でもこの難局を精神的な糧として未来につなげようとの呼びかけが、世界中の各所でなされている。ステイホームを強いられがちで、遠くの旅行は遠慮されている。この中で合宿施設関連での集団感染が問題となる中で、こともあろうにお地場のおひざ元の天理大学のラグビー部寮(天理市杣之内町)において集団感染が発生したことが全国的に報道された。天理大学のラグビー部が勝利というニュースではないところに、このニュースの悲劇性がある。54名という数的な大きさから、天理大学全体が汚染されていて、学生の教育実習やアルバイ学生が不利益を被っているとも報道された。20日の記者会見では、学長だけでなく、心配された並河健天理市長さんまで同席されていたことも話題となった。

 ただ杣之内町は教会本部からかなり南の離れたところにあるにも関わらず、同じ天理市内という風に外から見られてしまいます。

 以上は、常識的な状況理解だが、永尾学長が天理教の信徒向けに流した「このたびの厳しい節と、その中にこめられし親神様の思召を真摯に受け止め、今後とも一手一つに取り組んでまいります。」の意味を味わいたい。

 コロナ禍は「厳しい節」という、そして親神様の思召しがあるということも明言されている。では、その親神様の思召しが何であるのだろうか。これを改めて問いたい。

 まず信仰の本家本元である地場で、かかる事態が起きた意味は深刻であると思わざるを得ない。

 2017年7月27日 信仰の礼拝対象である甘露台が倒された。

 2018年6月 中山善司・真柱様が脳溢血で倒れる。 命をつないでいる状況だ。

 地場においては信仰の中心的なものの不祥事が発生している。その流れで、さらに地場の汚れた事情を神様が、ラクビー部員たちを使ってさらに、仕込まれたのではないでしょうか。 

 本席様のような言語啓示が今の地場ではないので、自然啓示として諸事情を見せるしかないでしょう。お地場の何かが汚れている。その精神が世間並みになっているのではないか。地場は世界の鏡として責任ある地場です。  

 明らかに天理教団が一つの宗教団体の地位に成り下がっている現況を悲しく思い、不甲斐なく思います。世界救済を呼びかけるべき地場の理の声の泉が枯れて100年たちました。今の地場は暗闇で、自己救済さえできなくなってしまいました。 

 ヨーロッパ布教に長年尽くされ、フランスで公益法人を奇跡的に取得できたことを教祖存命の理だと解釈されている永尾教昭学長様(本部員)は、今回の報道陣の対応で知名度があげられました。世界宗教の対比で、天理教の良さを認識されている知性で、理の泉とは何か、手探りで探されることを期待します。  

 

 

教会本部 5月月次祭の参拝について

                                                               2020年05月07日 (木)

 

新型コロナウイルスの感染拡大の深刻な状況に鑑み、教会本部の5月月次祭は、つとめ人衆のみで勤めさせていただきます。
 教会長、ようぼく・信者の皆さまには、参拝を控えていただき、各教会・布教所、自宅などから遥拝をお願いいたします。

 

立教183年5月7日
天理教教会本部

 

 上記は、天理教教会本部から出された通知です。どこの宗教教団とも変わらない、一宗教教団の世間常識的、良識的な対応だと

思われます。日本国内のカトリック教会でも3,4月ころから日曜日のミサを取りやめている。海外ではイスラム教のモスクが集団感染の現場となって、マレーシアなどで大問題となったし、韓国でもある新興宗教の教団で大きなクラスターを出し、大変な非難を浴び、代表者が土下座したこともあった。

 祈りの場が、三蜜となり、集団感染の舞台となれば、その祈りの目的そのものが遂げられない。そうしたジレンマを各教団はかかえ、オンラインミサをプロテスタン教団では各地で始めるなど、工夫もみられる。

 

 では、5月の祭典、つとめ人衆だけによるかぐら・手踊りというおつとめでを神様はどのように受け取られたのだろうか。神様の地場に対する思いはいかなるものか。教祖存命という教えはあっても建前だけで、存命の教祖の声はない。存命の理とは本席の神の言葉が体現されていたことが忘却されている。すなわち神の声はもちろん、今の本部の中にはない。そしてその人間の集団支配による今のお地場の体制からは、正しい答えはでない。

 

 本席様の啓示録である『おさしづ』を引用して、地場とは何かを改めて考察してみたい。

 「・・・ぢばに一つの理あればこそ、世界はおさまる。

 ぢばがありて、世界おさまる。さあさあ心定めよ。・・・」 

  【明治21年7月2日(陰暦5月23日)午前6時】

 

 これは教会本部を東京ではなく、地場に戻せという神様からの刻限さしづであった。世間に合わせて、東京に本部をおいた。それは違うということで、だんだんと本席様の身上を通じて、神様の真の思惑が出たものである。

 ここには人間思案と神の思案の断絶が明らかにされている。人間がいいと思った最高のことでも、神様の思惑はそれを超えて下される。人間思案で通そうとしても、教祖や本席の身体に異変がかかり、人間思案の愚かさが仕込まれるのである。

 いかなる宗教・信条がこれまでもあったとしても、本真実の元の神、実の神が現れたというのが、この道の独自性、唯一性であった。その中で、地場の唯一性、独立性、独自性が明らかにされているのである。

 地場というと、土地・所(奈良県天理市三島町の甘露台が立つ地点)という3次元の空間性が第一に意味されている。しかし、それ以上に、地場の理というは親神という無形の実在そのものの思惑が神意として内蔵していると考えなければならない。教祖や本席という神の詞を伝える特殊な機械を使う無形の神そのものが実在する。その眼には見えない神が、地場の特殊性を強調するのである。

 「地場が世界をおさめる」という強烈な真理を当時はだれも信じなかっただろう。国の政治やグローバルなガバナンスがあったとしても、地場が世界の精神的なトップとして尊崇され、畏敬され、そこに従うという遠大な構想である。

 そして、コロナ禍の現在、今の地場の人衆は、「地場が世界をおさめる」との強い決意のもとかぐらづとめをされているのだろうか。 教会長も布教師、ようぼくたちも避けて、三蜜を気にして、世間に遠慮気兼ねして、自分たちだけおつとめをしますと公言した今の地場の体制である。 

 世界の事情をおさめる真実のつとめ。それは単なる宗教儀礼というより、永遠に続く神の詞の理で仕込まれ、磨かれた人衆が集まって、つとめてこそ、世界なるほどの世界救済の儀礼となるのである。

 私は地場とは縁もゆかりもない末端の一信者に過ぎない。それでも、いずれ地場の理が世界に伝播するような情報のヒエラルキーの頂点にたつことを夢想する。そこに向けて、因縁報じの道に喜んで通る所存である。

 コロナ禍は素晴らしい神様からのメッセージである。ここから人類は一つになってウィルスと共生していかねばらない。