「天理教」は宗教か、真実の教えか -22ページ目

「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

 100年前(1919-1920年)に起きた感染症であるスペイン風邪(Spanish Influenza)では、相当の感染者、そして死者が出ました。世界では、6億人の患者数で、2000万から4000万人が亡くなったと言われます。最近の研究(「日本におけるスペイン風邪の精密分析」)によれば、日本での患者数は2300万人、死者は38万人とされています。第一波だけでなく、第二、第三の波もありました。今のコロナ禍でも大変ですが、当時とくらべれば、衛生行政の世界的な進歩で、当時よりは抑えられて来たのだと思われます。

 では、100年前における神様の思惑は何だったのでしょうか。それが本ブログの特殊な神学的思案として探りたいと思います。

 別稿でも書きましたが、

 

  大正7年7月11日 中山たまへ、おさづけの運び初め 

 

 100年前に天理教が変節したシンボリックな出来事です。日本におけるスペイン風邪はこの大正7年(1918年)8月から広がりはじめました。お地場で、スペイン風邪を治める「お願いづとめ」がなされたかもしれませんが、今は調べることができません。むしろ地場の事情と世界の事情が立てあっていると思案しなければなりません。

 世界を治める地場の人衆が育って、磨かれて、世界を治めていくのがこの道の根源的な天の組織づくりです。教祖の周囲の側近たちが、台となって、一番仕込まれるのです。教祖(おやさま)の長男の秀司さんも、三女のこかんさんももっとも仕込まれました。これは人衆を作る模様という神様の独自の方法から来るのです。

 本席様が明治40年、百日さしづを残されて出直され、天の声、さしづ役が不在となっていました。ただおさづけを渡す上田奈良糸様のお仕事は継承されていました。実は天啓がおりていた茨木基敬氏が本部を免職となり、その直後に上田奈良糸様のおさづけが止まり、神直々の仕事をされる方が地場にいなくなりました。そして、ご母堂様が、おさづけの運び初めとなったのです。教祖の孫であり、おそれながら教祖の精神的レベルにもっとも近いご母堂様かもしれません。しかし神様が決めたことではなく、本部員会議で決められた出来事でした。地場の世俗化が進行する決定的な決定でした。

 ご母堂様がおさづけをはじめ、それと同時に、日本でもスペイン風邪の大流行となりました。地場の事情が世界の事情として鏡のごとく相関しているのです。地場の大切な人衆の心が磨かれる手段がなくなり、感染拡大が広がってしまったという理の道すじがあると思われます。あれから102年。本日(令和2年4月26日の本部月次祭)、コロナ禍から地場では人衆だけの4月の月次祭。異例な事態ですが、その理は100年前の大きな節を想起させます。

 

 100年前に人衆だった人たちも生まれ変わって、今こそ懺悔のおつとめをしなければいけません。 

 

 

 合掌

 世界全体を覆うコロナ禍で日本は大難は小難で守護されているとはいえ、これは一体どのような神様の思惑から起きた事態なのでしょうか。今起きていることは、人間の生命そのものが危機に瀕しているということに尽きます。だれがいつ感染するのか、感染しても潜伏期間が長く、症状がすぐには出ない。感染しても症状が出ないひとがいる一方で、症状が現れて急死してしまうケースが多いという怖い病いだと言われています。

 道を知り、神様の存在を信じる立場からは、今まさに人間にとって「借り物の肉体」であること、すなわち神様が「貸している肉体」であることを真に自覚しないといけないと思います。自分の肉体である、自分の都合で生きてきた人間に、今さえよくば、我さえよければという埃の心が人類として集積してきた中で、その建て替えが真に求められているのだと思われます。

 貸しもの借り物の理こそ、人間と神様との根源的なつながりを銘々に教えている根本的な教えです。教祖(おやさま)がわが身にかけて教えた最も大切な教えでしょう。安産の守護という珍しい救済から、この道は広がり始めました。それは肉体を借りているということを人間に実感させるための手段だったはずです。神様を信じるか信じないか、信じたものには、利益が見えて、見える中から、借り物が実感され、体験され、信仰する契機となったのです。生かされている喜びの心、感謝の心を持って生きることが人間らしい生き方だと思います。

 そして50年に及ぶひながたの親である教祖の最後は、つとめの急き込みでした。教祖が命をかけて残された、おつとめ。毎月26日は、地場のかんろ台を中心に、かぐら・手踊りが勤められます。創造原理としてのつとめ、救済原理としてのつとめ。

 今はつとめに心を集中して、己の喜べなかった心を反省し、コロナ終息を祈願するおつとめに心をこめたいと思います。 

 

 「あしきをはらうてたすけたまへ 天理王のみこと」(二十一回)

 「ちょと話 神のいふこと聞いてくれ あしきのことはいはんでな

  この世の地いと天とをかたどりて 夫婦をこしらへきたるでな

  これハこの世のはじめだし なむ天理王のみこと」

 「あしきをはらうたすけ急き込む 一列すまして甘露台」(三回を三度)

 

 夫婦の治まりこそ神様の望みで、家族でステイホームの中でドメスティックバイオレンスが話題となっています。私自身ももっとも苦手な家族の治まり。夫婦の和合。日々磨かれることをよろこべるか、不足するか。わが身おさめて世界治まる。世界救済のつとめがつとめの実を上げるよう、しっかり我が心を清めたいと思います。

 

 

  明治20年正月26日。教祖が御身を隠された直後に撮影された信徒たちの写真が残っている。本席様も写っていて、差し金を手に持っているお姿は何を意味しているのか。さて、この写真の中で、ひときわ目立って大きく写っている男性が、飯田岩次郎である。

  

 

 

 積善講の講元であり、子供の頃からお屋敷に寄せられていた有力な信徒であった。明治期には平安支教会の会長も務め、彼の水の授けは効能が高かったと評判であった。人足社(にんそくやしろ)の理というタイトルも教祖から与えられ、教祖から期待のかけられていた人物には違いなかった。

   明治27年には飯田に梅谷四郎兵衛さんの前に最初の啓示が起きたという(『御水屋敷並人足社略伝』)。教祖が夢で現れたとか、さらに「神言神剣」と呼ばれる独自な啓示に基づく教えを唱えるようになる。
 飯田はお屋敷に来なくなり、水の授けの理は人ではなく、安堵村の自らの屋敷にその理があると解釈して、「水屋敷こそが本元である」という教説(この教えは本部側からレッテルを張ったともいわれ、飯田側にはないそうだ)を生み出してゆく。
 「おさしづ」の割書きによれば、彼の神の言葉は、月読命(つきよみのみこと)から下されているとのこと。平安の信徒だけでなく、麹町の信徒たちもゴッソリと飯田の教えに付き従う。飯田の側近たちが、本席に、その理の正しさを求めてお伺いも立てに来る。明治30年の夏頃、この問題は本部の大きな事情となる。本部員たちが派遣されたが、治め切れず。
   ここで本席様を通じて神様は、飯田岩次郎の事情をどのように諭したのか。神が神でない啓示をいかにさしづしたのか。一連の、本席様のおさしづをしっかりと味読しなければならない。そこからは、飯田岩次郎の事情よりもまず、本部員たちのだらしなさが当初から諭されている。他人を鏡として、本席のさしづを素直に受け取っていないことのほうが、むしろ神様は問題視する。さらに、理の所在、教祖以来なにを説かれたかが、根本的に本部員たちがわかっていないことが露呈する。
 異説に動揺すること自体が、そもそも信仰信念が確立していないのである。反対するのも同じ人間であり、神の子供である。その子供が親に歯向い、異説を唱える。教祖以来のご恩を忘れ、地場の理を否定することに、これまでの効能が消えてしまいますよとの警告が、神様から同じ文句で繰り返し諭された。「一もとらず、二もとらず」というフレーズが、この事情のキータームである。合計4回ほど別々の日に使われる。
  飯田岩次郎の自称天啓事件は、多くの信徒を巻き込んだ事件であるが、この事情を通じて、本部員たちの信仰態度や姿勢そのものが磨きの節として与えられたことに注目すべきであろう。 
   12月になり、本席様から取り払えとの言質をもらい、飯田の教導職は剥奪、平安支教会の移転が実施される。この件で、松村吉太郎が東京の神道本局に出張。飯田も上京して、別な神道の教派として独立する。
  飯田岩次郎の心理構造は推測するしかないが、その独自の啓示言語には魅力的な何かがあり、水のさづけを通じて救済もあったことなので、信徒として飯田側に付き従う人たちも大勢いたようだ。 その救済の守護も神様が許したものであったが、自分の力だと思ったのかもしれない。また当時、政府の方針に従いがちな教会本部の姿勢に批判的になったことも感じられる。
   ただモラルな面で飯田がいかなる人格者であったのか、どのような人たちが従ったのかが問われる。雛型になる人格者なのか。飯田の側近となった上田善兵衞は、麹町分教会の幹部(理事長)であり、茨木基敬さんの部下であった。もともと反抗的な方で、その精神から飯田に従い、麹町は幹部不在となり、茨木さんはそのおさめ方に苦労されて、麹町の担任を併任された。この一点からみても、高慢な人たちの自己顕示欲を満たす集まりだとみなすならば、その啓示言語の意味は急低下せざるを得ない。神がかりないし啓示現象そのものが、理の発露を確証するものではない。これが、この事件が残した大きな教訓であろう。
  実は、天理教系で、自称の天啓者は沢山いるのである。 ある気鋭の宗教社会学者がそれで博士号を取得するほど、大きな宗教現象となっているほどである。
   飯田は教祖のおかげと言いながら、自らの木像を製作して50歳で出直す。
  啓示言語が救済につながり、地場の理に根差し、さらにモラル面で人格の向上に裨益するように仕向けられない限り、その啓示言語は、正当な理の顕現とは言えない。雛型なき神の言葉は空虚だとみなしたい。天理教の多くの分派における啓示言語のロジック、その救済力、モラル面の志向性が判断の試金石となる。地場の否定は、理論的に即アウトである。この道の真実の天啓は地場の理の発露である。
    本席様の残したおさしづという啓示言語の研究が望まれる。
  補足までに、飯田岩次郎の貴重な伝記(『御水屋敷並人足社略伝』)があるので、以下に紹介する。飯田岩次郎はその後、大道教という宗教の教祖となったらしい。今でも奈良県にある教団のようです。

 

 天理教の歴史において、正統と異端という問題には根深いものがあり、教祖時代の助造事件(慶応元年)、そして本席時代の水屋敷事件(明治30年)が代表的なものものとして歴史的な教訓となっている。

  助造事件の時は、最高幹部を引き連れて、教祖(おやさま)自ら針ヶ別所村に滞在されて、飯降伊蔵と山中忠七らに命じて助造宅の御幣を除去させただけでなく、怒った助造にしっかりと諭しを与えて懇切丁寧に理の所在を明らかにさせ、七日間ほどの滞在中に本人を改心させたことが特色である。

 助造は教祖から眼病を助けられたのにも関わらず、針ヶ別所村が本地で、庄屋敷村が垂迹だなどと、仏教の教義を逆手にとって、自らの正当性を主張したものであった。元の地場をすでに明らかにした教祖のお立場(元の神様)からは、許せないものであり、そのお態度は厳しいものであった。この時、助造側は金剛院の配下となって一枚上手であり、無認可で宗教活動をしていた教祖側の側近は、理解者である大和神社宮司の守屋筑前守に依頼して、山澤良治郎さんが守屋の代理で来てもらった。そうした既存の宗教界の権威は、教祖の理非明確な論理と、教祖自身の高潔な人格のもとに、何の効能もなかったのである。

 客観的背景として、当時かなりの信徒がお屋敷に参詣していたことが想像できる。人とカネが集まる宗教活動のうまみを利用する頭のいい人たちも現れるのである。助造の心理構造はよく分からないが、異説を唱えるほど頭が優秀であり、指導者にありがちな高慢なところもあったかもしれない。こうした性質はすぐに変容するものではなく、明治時代には別個の宗教活動をして、当局からも取締にあっていて、その面ではお屋敷と同様に迫害を受けた。しかし、その後は何も残っていない。仲の悪かった兄も同様に別個の宗教活動をしたようだ(『改訂天理教事典』参照)。続かなかったことから、そこには教説のいかんにかかわらず、人から慕われるようなモラル面での徳積みがもちろんなかったことが教訓になるかもしれない。

 教祖が滞在された宿屋は今はないそうだ。教祖傳の一コマを彩る大きな事件であり、のちに本席となる飯降伊蔵様も中心的に関わった事件であった。

 

 

 昭和から平成へと元号が変った時の重苦しい雰囲気とは異なり、平成から令和への元号の交代は1か月前から予告され、国民こぞって奉祝ムードただよい、日本人の内向きな自尊心をくすぐっているとされる。

 グローバル時代で西暦になじみがある日本人ではあるが、我国に固有の元号制度は時代と世相を映す鏡として心の中に日々の営みを重ねる中で、大切な契機となっている。

 

[ある本部員に啓示現象の始まり]

 本部から追放された自称天啓者の茨木基敬さんのご啓示の現象は、明治44年の暮れころから始まり、最初は筆取りの体制も何もない中であったが、次第に書き取られた。

 そして、その啓示の指導により、北大教会部会での救済が燃え上がった時期が来て、累積していた借金も返却されるほどの大金も御供えされたという。

 茨木氏の啓示は部内の会長を通じて、直属の教会長たちには筆写されたものが、傳えられた。

 

[本部側への伝達]

その中で、ある信徒がその筆写物3点ほどを本部に郵送して伝えることで、本部内において重大視することとなった。

 ただ『梶本宗太郎自叙伝稿』の「ある事件」という箇所では、ある信徒が密かに音声の啓示を外から聞きとって、それを本部に届けたと書かれている。

 

[本部側の対応]

 神様の真似事はするな。わび状を書けと。茨木氏は本部員の末端であった。先輩の本部員たちに何等の予兆もないのに、一番下っ端な茨木氏から啓示があることに、先輩方のメンツにかかったことがあった。中には本人と会って、その不思議な啓示に納得した本部員もいたが、後から、他の本部員によって、それは違うと否定されて、本人もそうだと心を翻してしまった。

 

[啓示現象の始まりと預言]

 茨木氏は本部員に引上げられと同時病が重くなり、啓示現象が起きてしまったのであった。そして本部勤務もまったくできないほどの重症であった。

 最初のころのご啓示すなわち明治44年11月8日のご啓示で、「来年は七十五年目男の子を授ける程に。又、えらい事が見えるで見えるで」とのお話があった。

 これは翌年に明治天皇の崩御(明治45年7月30日)と大正時代に元号が変わること(大正元年7月31日)を予告したが、その直前に生まれた男の子は、茨木基忠の長男の基則さんの誕生(明治45年7月12日)を予告したものであり、この方は、00様の再生であった。 

 

[教祖の115才、道の75年、明治45年]

 道の七十五年とは、教祖の百十五歳の歳であり、この道があらあら日本全国に広がる時代というのが神様の予告としてあった。

 

 平成もあとわずか。令和への元号の代わりに目にあたり、

 今また偉大な魂が再生して、最先端のご啓示のもとに仕込み直される時代を迎えている。

 

令和時代とは、神様のお詞が広く世界に伝わり、

 

人類の恒久平和の時代への基礎づけがなされる珍しい時代という思惑が込められていると思われます。

 

 楽しみの時代が日本から始まります。

 平成の時代も終りが刻々と近づくなか、4月1日に菅官房長官から政令に基づく閣議決定を経て新元号「令和」が告知された。令(れい)という漢字が意外性をもって迎えられた。大方は万葉集を出典として国書をはじめて元号に使われたこと、万葉集が広く庶民も含めて日本民族の精神を体現した詩集であることは高く評価された。そして令和時代への1ヶ月のカウトダウンの中、読売新聞の世論調査によると新元号は8割の好感をもって受け取られ、5月4日の一般参賀には14万1130人が訪れた。5月1日の新天皇の即位、その後の儀礼はメディアで公開され、国民こぞっての祝祭ムードが漂う。

 さて、令は律令、命令、法令などが身近な使用例であるように、上位者から下位者への決まりごと・規則の通達、命令という意味合いが分かりやすい。ただ、今回は令月(よい月、二月の異称)の令として「よい・素晴らしい」とされる。元号の策定者とされる中西進 先生も、令のは、麗しいの意味であることを強調されている。外国語ではbeautifulとして外務省は海外に伝達している。敬称として令嬢・令弟のように、令は使われている。それでは、象形文字としての、「令」の語源は何だろうか。

 『字統』(白川静,平凡社,平成四年)によれば、「令」は象形文字で、「礼冠を着けて、跪(ひざまず)いて神意を聞く神職のものの形。上部は三角形に似た深い冠の形である。古く令の意と、またその字形のままで命の字にも用いた。」(同,896頁)以下、説文の解説もあるが、「ト文・金文の形は、礼帽を着けて、謹み躓いて神意を聴く人の形に作る。」(同)とされる。

 現代的に捉えると、神意を受け取る神の機械が、神様からのメッセージを受け取り、人々に伝達する。その素晴らしいメッセージを人々が受け取り、平和な時代と訪れることが「令」の意味に込められている。また「和」も戦争終了後の和議が元々の意味で、平和を意味するので、いずれにしても平和の意味が込められている。

 続いてこそ道であり、この道は天直接の啓示から始まった由緒正しい道である。教祖の雛型五十年、そして本席様の二十年まではまがりなりにも地場で天啓の道が続いた。本席様は『百日さしず』を遺言として残された。これは十年間という本席様の不在の時代に次の機械(天啓者)の出現を待望されたものである。北礼拝殿の普請がメインとなる主旨ではなかった。上田奈良糸様のおさづけ後継問題があり、さらに三軒三棟の理もつづく機械を創出する家柄の確立が目指されていた。上田奈良糸様のお授け役


が止まったのは、茨木氏の免職直後であった。奈良糸様の御用は、神意の発動であるさづけを渡す事であり、神の詞を伝える役回りとは異なる。茨木氏の天啓問題をいかに受け取るかに、道の後継の中心問題が隠されている。

 天啓者がいなくなり、真柱ワントップ体制のもと、地場には存命の教祖の声を聞く仕組みが無くなって百年。令和時代とは続く機械の道を復興させる、道の中の道づくりが本格的に始動する時代となる。この道は人間思案で成り立った道ではなく、すべて神様の指図で成り立つ道である。明治44年頃、450万人の信徒いたと集計されたが、日本人の1割が信徒となった計算である。明治政府にも驚異であり、形の上からは大教団の出現であった。その本部員に引き上げられたばかりの茨木基敬様に啓示が明治44年から下り始めたのであった。本部員筆頭の増野正兵衛、初代真柱も、この天啓受け入れ問題の中で、出直された。本部員の喜多次郎吉、梅谷四郎兵衛、井筒五三郎たちも出直された。そして上田奈良糸様のおさづけも大正七年に止まる。それは茨木基敬本部員の免職事件の直後であった。

 そしておさづけ役の理は御母堂様(中山たまへ様)が継承されることが本部員会議で決まった。ここからの天理教教団の変節が生まれたことは、明白な史実として素直に公表したい。おさづけ役は、中山正善二代真柱、中山善衛三代真柱、中山善司四代真柱と今に続く。善司様が昨年倒れられ、おさづけが100年ぶりに停止した。神様の大きな思惑を感じざるを得ない。甘露台が倒される不祥事もその前にあった。今のお地場、本来のあるべき地場の姿、地場の組織体制の有り方を考え、このブログをつづけます。

 

 

、 本席様は75歳で明治40年6月9日に昇天される。その出直す直前の「百日さしづ」の主眼は、本席様からの最後の神のメッセージであり、重要な「纏め」を繰り返し啓示されたものであった。「百日さしづ」とは「十年掛かる事を百日足らずして纏める」(明治30年6月5日)のご啓示から命名されたものである。「言葉、これが第一道の宝や」というご発言もあり、神の言葉(=詞)の大切さが同日に説かれていた。百日足らずで述べる中でも存命の教祖の道の後継問題をいかにお屋敷の重役たち(教長はじめ本部員たち)に治めさせるかという神意が働いた時期である。だが奥谷文智(1962)や飯降俊彦・平井一彦(1996)などによれば、以下の3つの主題がテーマとされている。

 

 (1)奈良糸様のおさづけ役の後継

 (2)本部神殿(北礼拝場)の普請

 (3)三軒三棟の理

 

 上記の3テーマが本席不在の10年間の間に目標事項として与えれた。(1)の奈良糸様へのおさづけ役の後継は本席が亡くなる3日前の6月6日に「不細工なものやで」ということで、その仕事が始まる。そして奈良糸様の新しい御用場の普請も決まった。その建物はかつて東筋にあった和楽館であったが、今はどこに移転されたのだろうか。(2)の北礼拝場は大正2年2月25日に完成した。(3)の三軒三棟とは本席の子供たちから永尾家・飯降本家・飯降分家を立てることであった。三家族を親しくという程度のことしが理解されていない。だが三家に掛けられた期待とは、そのような軽いものではない。その三家の屋敷は神殿近くにかつてあったが、今は更地となってしまった。

 では10年間とはいかなる意味か。10年間に間に、次の道の存命の教祖の言葉を下す方が待望されていたのであった。

 

 さて「百日さしづ」冒頭の神の刻限話が、有名な以下の一節である。

 

明治40年3月13日(陰暦正月29日)午前八時三十分 平野楢蔵とお話しありし時、俄かに刻限の話

 「一萬二千足らんと聞いた。そんな事でこの道どうなるぞ。これでは働けるか働けんか。さあしっかりせい。

  教祖にこの道譲りて貰ろたのに、難儀さそうと言うて譲りて貰うたのやない。言うて居た日あるのに、何と呆けて居る。

  さあ\/今日はどういう話仕掛けるかも分からん。さあ皆用いらねば世界へどうして詫びするか\/

  これ知りて居るか。年限数えてみよ\/。 いつまでこんな事で通るか。

  道は、皆継目あるで\/。 継目知りて居るか\/。知らずに何と呆けて居る\/。

  教祖という道内から潰して居る。 世界の道で立ってあるか\/。 学問で立つと思うか。

  さあ\/世界の機械は何時なりとある。何時なりと買えるで。

  神の機械あるか。あらしょうまい。神の機械は、年限の理続くが神の機械である。

  これ一時に聞き分けて今日に返事して来い。 さあ手の空いたもの席運べ\/。 今の席四席連れて来い。」

 

 これは前日の晩に、本部会計の主任であった増野正兵衛が本席宅に酔っぱらったまま訪問して、「一萬二千足らん」と愚痴をこぼしたことを契機として出された刻限話であった。このあたりの事情は、当時青年であった清水由松(明治5年生まれ、山澤為造の従弟)の記憶を書きとった橋本正治著『本席の人間像』(養徳社、昭和26年)に詳しく書かれている。さらに「真柱も呼んで来い」との厳しい言葉もあり、この日の晩に重要な刻限話が始まる。それは教祖30年祭への普請を急き立てるものと受け取られてきた。北礼拝殿の普請は重要なメッセージに違いないが、それ以上に、教祖から譲ってもらった天啓の道、理の後継がここではより重要な眼目となっている。

 「神の機械は、年限の理続くが神の機械である。」との啓示は、「神の機械とは、刻限話の理を続かせる天啓者が神の機械である」という意味に取りたい。他方、飯降・平木(1996)では、神の機械とは「神一条、助け一条で働く人、道具衆」を意味し、年限の理とは「生涯かけて奉仕する」と解釈しているが、この解釈では物足りないし、無理がある。理をどのように解釈するのか。理は神の思惑であり、神の思惑がこめられた現実も理であり、理の解釈は大変に困難を極めることは確かである。理の発露は神そのものであり、神様から下された言葉が理そのものである。また「年限の理」という表現はおさしづ全体で頻出しているが、例えば、下記のようなおさしづもある。

 

明治37年10月22日 富田傳次郎妻たき六十歳身上願

「・・・さあ道という、年来に重なり\/、年限の理より出来た道である。さあ何よの事も世界に映しある。・・・」

 

 これは刻限の理によって、神直々の言葉で、この道が次第に広がって来たということを一般的に伝えた内容だと悟れる。神のさしづがあり、それを素直に受け取って、その心に乗って、神が大きな働きを示す。神のお言葉なくして、人間の心は清まらないのである。つとめで世界が成り立つ。そのつとめをする人衆を神が仕込み、それで世界が成り立つ。人衆の心は神の言葉がなければ清まらないのである。

 

 教祖から始まった道は、天直々の教え(神の言葉)が人類に初めて顕現されたという一神教の啓示宗教に天理教の天理教たる独自な特色がある。すなわち、教祖存命の詞(ことば)は、人がたとえ代わっても、永遠に続くべきものである。天啓継承の道は、今のご本部の体制においてはタブーに違いないが、地場の今の哀れな姿を神様がいつまでも許す訳はないだろう。地場の掃除は神様のお仕事である。

 目に見えない神が、機械を使って、神のメッセージを伝える。教祖(おやさま)とご本席様はまさに神の機械であられた。本席様は二代目の天啓者として20年間、その御用を続けられた。その寿命が近づいているこの時に、理の後継は重大問題であった。

 

 理の後継者は、この時点で十分に育っていなかった。それ故に、百日さしづは10年先に次の機械の出現を期待した本席の遺言なのである。おさづけ渡し役の奈良糸様への後継は、本席が出直す3日前にぎりぎりつながったが、それ以上に大切なのは「一本の木」とたとえられていた次の機械を真柱に買って欲しいことがこの日の夜に告げられていた。すなわち「一本こうてくれと言うた日ある」という言葉が真柱(当時は教長との呼称)に告げられていたのであった。北礼拝殿のために、我も我もと献木しますよという形のことではない。

 

  真柱の重要な仕事は、何も独立請願を初志貫徹することや神殿普請の決意をするという困難だけではない。存命の教祖の理を後継する「つなぎ」を受諾できるかにかかっていたのであった。20年前、本席定めについては出来た。そのときも実は真柱はなかなか来ず、夫が亡くなりそうなので、おさとさんは、夫が亡くなったら櫟本に帰れず、大阪にでも行こうかと寂しい思いになった。そして、2度目の今回、そのつなぎ問題をクリアー出来れば、初代真柱の真之亮は寿命をつなぐことが出来ただろう。ここに「一本の木」とみなすべき茨木基敬さんの天啓を受け入れるか否の試金石が本部事情として繰り返されて、ついには大正7年の奈良糸様のおさづけ役停止事件にまで発展する。  

 

 この間の本部事情については、いずれ明かさねばならないが、少しだけ匂いを伝えたい。

 教祖存命の理である本席様から一番、おさしづをいただかれたのは、増野正兵衛さんであったと思われる。神意に通暁されていたはずの増野さん、さらには初代真柱の出直しが立て続けに大正三年にあった。それぞれ、茨木氏の御用がすでに続き、北大教会がますます盛大になる中で、その御用された文書が本部に届けられる。しかし、本部で受けたその責任者たちは、受諾しなかった。その都度、その責任者たちの命が途絶える。その人物の一部とその時期だけ記録したい。これは教会本部の裏面史であり、裏の事情ともいえる。

 酷ないいようで申し訳ない分けないが、理のつなぎをつなげず、自らの命をつなげなかった雛型として、書きとどめたい。 特に初代真柱の出直された日は、元旦の前日というあまりにもシンボリックな日であった。これは魂を汚さないための神様から慈悲がかかった出直しであり、来世での魂の働きに期待が掛かっての出直しである。人間肉体は神の貸しものであることは永遠の真理であり、出直しはその厳粛な真理を徹底させる大きな仕込みである。

 

  増野正兵衛  大正3年11月21日 出直し 64歳

  中山真之亮  大正3年12月31日 出直し 49歳  

 教祖が突如、現身を隠されるや、信徒集団は壊滅的なダメージを受け、そのままなら崩壊してもおかしくはなかった。教祖一人の神格のもとに信徒が集散していたわけであり、神とは教祖であり、その生き神の喪失は教団存亡の危機であった。中山みきという一人のご婦人から始まった、全く新しい神の道が広がったわけである。警察に何度も勾引され、つとめをすれば、警察が来る。教祖は世界救済に必要なつとめを急きこまれた。しかし弾圧が来て、教祖にご迷惑をおかけする。若き真柱の真之亮の苦汁も大変なものであった。

 そこに教祖に代わって、神の言葉を伝えることができていたのが飯降伊蔵であった。「言上の伺い」という神のメッセージを伝える啓示者的な役割を唯一任されていた。埃の仕事場とも呼ばれて、病い事情の救済などの相談窓口として重宝がられていたのであった。桝井伊三郎さんも、教祖にお尋ねできないことを櫟本の伊蔵に伺いをたてに行ったとも証言している。

 すでに明治15年からお屋敷に住み込みを命じられていた飯降伊蔵であったが、教祖が亡くなる直前においては教祖に代わって、「おさしず」や刻限話が下されていた。それは埃の仕事場を超える重要な啓示者としての仕事であった。そして飯降伊蔵は正式に、神の言葉を伝える啓示者として任命されることになるが、それは「本席」という天職の命名であり、若き真柱の真之亮がそれを受諾することで、定まった。

 教祖が明治20年2月18日(陰暦正月二十六日)に突如昇天される中で、本席定めは、明治20年3月25日の午前5時30分に「仕事場」を消して「本席」と改めなおしたのである。本席定めそのものは、教祖の理を継承される二代目の啓示者が正式に定まるという1か月のドラマであり、詳しく論じないといけないが、ここでは、「機械」という名称が初めて、その間に出てことに注目したい。すなわち、明治20年3月16日(陰暦2月22日)の刻限御話に以下のようなご啓示が下された。

 

 「さあ/\この世に機械が悩んで居る。米も沢山、水車も沢山ある。ありながら、どうも機械が揃いない。それで、どうも白米にする事が出来ん。機械が揃いなけねば、一人の機械も使うこと出けん。それ/\へ身の内障りつけてある。水も沢山。どうで白米にせん事には食べさす事が出来ん。こゝをよう聞き分けて、たんのうしてくれねばならん」

 

 お屋敷では教祖が亡くなり。肉体を隠されたということで、大変な動揺が走っていたはずである。教祖のご葬祭が神道式で行われ、とりあえず、勾田村の頭光寺に葬られた。会葬者1万人ともいう。だが熱い信仰心がねじ曲がり不安と疑心暗鬼に襲われていたことであろう。

 数々のお話が伊蔵から下され続ける中で、上記のお話もあった。本席定めの直前は、本席の肉体的な異変があり、死にかける場面もあった。飴のような汗をかき、左右の肋骨がボキボキ折れるような音もしたと、本席の長女の永尾(飯降)良枝も書き残している。

 当時のお屋敷の方々にはこの本席定め直前の上記の刻限話はどのように受け取られたのだろうか。おそらく機械=神の言葉を伝える啓示者とは理解ができなかっただろうと推測される。大工の棟梁でありながら教祖からもっとも頼りにされた高弟の伊蔵は仕事場として重宝がられていた。しかし神が入り込まないときが普段にはあり、その腰の低さから周囲からは同じ同僚の信徒ぐらいにしか思われていなかった。その中で、「機械が揃っていない」ことが、暗喩として表現されていたのであった。

 みかぐら歌の十二下りにも大工が出てくるが、まさにこの大工は単に大工の伊蔵を指しているのではない。それ以上に教祖の理を継承する機械となられた本席として大工の伊蔵の役割にこそ、大きな意味があると思われる。

 

 

  天理教の教祖が晩年に側近たちに、こうきを作れと命令された。明治14-15年頃であり、またすでに『おふでさき』においても、こうきという言葉が10点ほど出されていた。

   こうきとは何か、口記とも古記とも漢字が当てられ、所謂、泥海古記といわれる文献群も、こうきだとみなされて提出されたが、教祖はどれにも諾とは言わなかったと伝えられる。
   これは信仰があり、理論的な構成力が出来る人達に、伝道すべきコンテンツを書かせたものだと思われる。その構成物として、おおよそ三点あり、端的に言って、山澤為次氏の研究によれば、おおよそ、
①教祖伝、②元の理を中心にした創造説話、神話、③教義を中心に未来の甘露台世界の展望、という三点に集約できるだろう。
 
 これは、現代的視点に立てば、みかぐらうたの三節と同じ構成を意味している。第一節として大現在としての今は悪しき払いの道中であり、存命の教祖の言葉を頼りに自分磨き、救済の道がある。第二節はこの世の始まりの物語を意味する。地と天をかたどって神々の人間世界創造の神話がある。創造の原点、人間世界創造の元々の思わくが常に振り返られる。そして、第三節は、甘露台一条という未来の人間世界のユートピアが志向される。そのための教理の大体系が構築され、普遍的な原理が開示される。
   真実のこうきが構築されたなら、神が世界に広めるという。教祖の思惑は、今も十分に生きている。そのために裨益するブログの構築が目指されている。
 グローバル社会の情報革命が進展する中で、あらゆる情報がフラットに共有化される可能性が広がり、このツールはまさに世界なるほどの真理が容易にいち早く浸透する力を秘めている。
  ご存命の教祖の思いは、世界助けであり、陽気暮らしの実現である。陽気暮らしは、自分のことばかり考える利己主義や目先の損得ばかりを考える短慮な人間心には生まれない。自分はすでに十分に守護されている、むしろ自分以外の他人、身近な人から見知らぬ人までが幸せになってほしいという大きな心にこそ陽気暮らしの理念があると思われる。
    陽気暮らしこそ、親神様が人間創造の思惑を持って始めた目的であり、この理念は、教祖を通じて始めて人類に明かされた。創造神は、ユダヤ•キリスト教やイスラム教でも説かれていて、科学的にも人間存在は、偶然よりも何らかの大いなる意図があって生成されたこと、必然性がある事が真理に近い。
   では、創造された人間は本当に陽気暮らしをしているだろうか。不足や不満、不安や絶望感など、喜びばかりではない、晴れない淀んだ人間心が世界に満ち満ちている。人間の幸せは、衣食住の与えがあり、人間社会において認められ、尊重され、そして己の願望が自己実現できる中に生きている喜びが生み出される。
   マズローの健康な心の心理学では欲求や願望とその自己実現、さらには自己超越する宗教心に幸福があるとされる。しかし形の世界における現実化には、出来ることもあれば、できないこともある。その形の有形世界そのものが、神のかしものであり、借り物であることが、教祖から繰り返し説き続けられている。
   有形の形の世界は、神のかしものであり、神様が守護する世界である真実が理解されないと陽気暮らしの精神は完成しないのである。
    有形の形の世界が自分の思いどおりにならないことに人間の不満があり、果ては絶望感が生まれる。形の世界は実は神様の守護によって成り立っているという真実がなかなか人間には理解できない。ここに信仰心や信仰による理性が働かないと合点が行かないのである。今この刹那に刻々と生かされている真実、その有り難さは信心から生まれる人間の主体的な精神である。信仰は抑圧ではなく、人間精神の解放であるという逆説的な真理がここにある。これは、信じて体験して、物事の成り立ちの中に神と人が対話する中で確認して生き続ける中で了解される真実なのである。
    というのも、神が勝手に守護するのではなく、人間の心を受け取って形として守護するという法則があり、それは心通りの守護の理といわれる。今見る現実化した目前の姿形は、自分が蒔いた心の種を神が受け取って見せているのである。何気ない今現在の形は、すべて人間を喜ばすために神が見せている形なのである。
   人間には色々な夢がある。YOUTUBERになりたい、イラストレーターになりたい。お金持ちになりたい。金メダルを取りたい。人間は自分の夢が叶うことに喜びを見出す。天保9年以前も以降も、神様は常に人間の喜びばかりを想って人間世界を創造されて来た。
   そして天保9年以降は、神様の理を知って幸せになる道が開かれ始めた。人間は創造された被造物であるから、創造者から創造の摂理を学ばねばならない。誰でも神を知った今が目覚める時なのであり、陽気暮らしての契機は、人ごとに時期が異なる。神様との縁が早い人もいれば、後からの人もいる。しかしいづれ世界中の人が知らねばならない。
    世界70億人すみから隅まで天理王のつとめをする時が遠い未来には必ず来る。そのために、核となる喜び溢れた信仰集団が形成され、雛型の実を示さなければならない。神様の思惑に素直になって、陽気暮らしを実現している人たちがいなければ、世界には伝播しない。
   教祖存命の理のもと、病まず弱らず、さらに甘露が降りるほど心が済んだ魂が地場に集まらねばならない。神の館の地場定め。地場の甘露台を囲んでのかぐらづとめ。つとめは創造原理、救済原理を舞う。神人一体のつとめの精神が求められる。人間が生かされていることを真から喜んで、真に陽気暮らしを実現することが、理を仕込まれた面々に求められている。