、 本席様は75歳で明治40年6月9日に昇天される。その出直す直前の「百日さしづ」の主眼は、本席様からの最後の神のメッセージであり、重要な「纏め」を繰り返し啓示されたものであった。「百日さしづ」とは「十年掛かる事を百日足らずして纏める」(明治30年6月5日)のご啓示から命名されたものである。「言葉、これが第一道の宝や」というご発言もあり、神の言葉(=詞)の大切さが同日に説かれていた。百日足らずで述べる中でも存命の教祖の道の後継問題をいかにお屋敷の重役たち(教長はじめ本部員たち)に治めさせるかという神意が働いた時期である。だが奥谷文智(1962)や飯降俊彦・平井一彦(1996)などによれば、以下の3つの主題がテーマとされている。
(1)奈良糸様のおさづけ役の後継
(2)本部神殿(北礼拝場)の普請
(3)三軒三棟の理
上記の3テーマが本席不在の10年間の間に目標事項として与えれた。(1)の奈良糸様へのおさづけ役の後継は本席が亡くなる3日前の6月6日に「不細工なものやで」ということで、その仕事が始まる。そして奈良糸様の新しい御用場の普請も決まった。その建物はかつて東筋にあった和楽館であったが、今はどこに移転されたのだろうか。(2)の北礼拝場は大正2年2月25日に完成した。(3)の三軒三棟とは本席の子供たちから永尾家・飯降本家・飯降分家を立てることであった。三家族を親しくという程度のことしが理解されていない。だが三家に掛けられた期待とは、そのような軽いものではない。その三家の屋敷は神殿近くにかつてあったが、今は更地となってしまった。
では10年間とはいかなる意味か。10年間に間に、次の道の存命の教祖の言葉を下す方が待望されていたのであった。
さて「百日さしづ」冒頭の神の刻限話が、有名な以下の一節である。
明治40年3月13日(陰暦正月29日)午前八時三十分 平野楢蔵とお話しありし時、俄かに刻限の話
「一萬二千足らんと聞いた。そんな事でこの道どうなるぞ。これでは働けるか働けんか。さあしっかりせい。
教祖にこの道譲りて貰ろたのに、難儀さそうと言うて譲りて貰うたのやない。言うて居た日あるのに、何と呆けて居る。
さあ\/今日はどういう話仕掛けるかも分からん。さあ皆用いらねば世界へどうして詫びするか\/
これ知りて居るか。年限数えてみよ\/。 いつまでこんな事で通るか。
道は、皆継目あるで\/。 継目知りて居るか\/。知らずに何と呆けて居る\/。
教祖という道内から潰して居る。 世界の道で立ってあるか\/。 学問で立つと思うか。
さあ\/世界の機械は何時なりとある。何時なりと買えるで。
神の機械あるか。あらしょうまい。神の機械は、年限の理続くが神の機械である。
これ一時に聞き分けて今日に返事して来い。 さあ手の空いたもの席運べ\/。 今の席四席連れて来い。」
これは前日の晩に、本部会計の主任であった増野正兵衛が本席宅に酔っぱらったまま訪問して、「一萬二千足らん」と愚痴をこぼしたことを契機として出された刻限話であった。このあたりの事情は、当時青年であった清水由松(明治5年生まれ、山澤為造の従弟)の記憶を書きとった橋本正治著『本席の人間像』(養徳社、昭和26年)に詳しく書かれている。さらに「真柱も呼んで来い」との厳しい言葉もあり、この日の晩に重要な刻限話が始まる。それは教祖30年祭への普請を急き立てるものと受け取られてきた。北礼拝殿の普請は重要なメッセージに違いないが、それ以上に、教祖から譲ってもらった天啓の道、理の後継がここではより重要な眼目となっている。
「神の機械は、年限の理続くが神の機械である。」との啓示は、「神の機械とは、刻限話の理を続かせる天啓者が神の機械である」という意味に取りたい。他方、飯降・平木(1996)では、神の機械とは「神一条、助け一条で働く人、道具衆」を意味し、年限の理とは「生涯かけて奉仕する」と解釈しているが、この解釈では物足りないし、無理がある。理をどのように解釈するのか。理は神の思惑であり、神の思惑がこめられた現実も理であり、理の解釈は大変に困難を極めることは確かである。理の発露は神そのものであり、神様から下された言葉が理そのものである。また「年限の理」という表現はおさしづ全体で頻出しているが、例えば、下記のようなおさしづもある。
明治37年10月22日 富田傳次郎妻たき六十歳身上願
「・・・さあ道という、年来に重なり\/、年限の理より出来た道である。さあ何よの事も世界に映しある。・・・」
これは刻限の理によって、神直々の言葉で、この道が次第に広がって来たということを一般的に伝えた内容だと悟れる。神のさしづがあり、それを素直に受け取って、その心に乗って、神が大きな働きを示す。神のお言葉なくして、人間の心は清まらないのである。つとめで世界が成り立つ。そのつとめをする人衆を神が仕込み、それで世界が成り立つ。人衆の心は神の言葉がなければ清まらないのである。
教祖から始まった道は、天直々の教え(神の言葉)が人類に初めて顕現されたという一神教の啓示宗教に天理教の天理教たる独自な特色がある。すなわち、教祖存命の詞(ことば)は、人がたとえ代わっても、永遠に続くべきものである。天啓継承の道は、今のご本部の体制においてはタブーに違いないが、地場の今の哀れな姿を神様がいつまでも許す訳はないだろう。地場の掃除は神様のお仕事である。
目に見えない神が、機械を使って、神のメッセージを伝える。教祖(おやさま)とご本席様はまさに神の機械であられた。本席様は二代目の天啓者として20年間、その御用を続けられた。その寿命が近づいているこの時に、理の後継は重大問題であった。
理の後継者は、この時点で十分に育っていなかった。それ故に、百日さしづは10年先に次の機械の出現を期待した本席の遺言なのである。おさづけ渡し役の奈良糸様への後継は、本席が出直す3日前にぎりぎりつながったが、それ以上に大切なのは「一本の木」とたとえられていた次の機械を真柱に買って欲しいことがこの日の夜に告げられていた。すなわち「一本こうてくれと言うた日ある」という言葉が真柱(当時は教長との呼称)に告げられていたのであった。北礼拝殿のために、我も我もと献木しますよという形のことではない。
真柱の重要な仕事は、何も独立請願を初志貫徹することや神殿普請の決意をするという困難だけではない。存命の教祖の理を後継する「つなぎ」を受諾できるかにかかっていたのであった。20年前、本席定めについては出来た。そのときも実は真柱はなかなか来ず、夫が亡くなりそうなので、おさとさんは、夫が亡くなったら櫟本に帰れず、大阪にでも行こうかと寂しい思いになった。そして、2度目の今回、そのつなぎ問題をクリアー出来れば、初代真柱の真之亮は寿命をつなぐことが出来ただろう。ここに「一本の木」とみなすべき茨木基敬さんの天啓を受け入れるか否の試金石が本部事情として繰り返されて、ついには大正7年の奈良糸様のおさづけ役停止事件にまで発展する。
この間の本部事情については、いずれ明かさねばならないが、少しだけ匂いを伝えたい。
教祖存命の理である本席様から一番、おさしづをいただかれたのは、増野正兵衛さんであったと思われる。神意に通暁されていたはずの増野さん、さらには初代真柱の出直しが立て続けに大正三年にあった。それぞれ、茨木氏の御用がすでに続き、北大教会がますます盛大になる中で、その御用された文書が本部に届けられる。しかし、本部で受けたその責任者たちは、受諾しなかった。その都度、その責任者たちの命が途絶える。その人物の一部とその時期だけ記録したい。これは教会本部の裏面史であり、裏の事情ともいえる。
酷ないいようで申し訳ない分けないが、理のつなぎをつなげず、自らの命をつなげなかった雛型として、書きとどめたい。 特に初代真柱の出直された日は、元旦の前日というあまりにもシンボリックな日であった。これは魂を汚さないための神様から慈悲がかかった出直しであり、来世での魂の働きに期待が掛かっての出直しである。人間肉体は神の貸しものであることは永遠の真理であり、出直しはその厳粛な真理を徹底させる大きな仕込みである。
増野正兵衛 大正3年11月21日 出直し 64歳
中山真之亮 大正3年12月31日 出直し 49歳