本席定めへの前夜ーをびや許しの始まりなど | 「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

 教祖が明治20年2月18日(陰暦正月二十六日)のお出直しから、本席定めのある3月25日までは、この道における啓示者の継承という極めて重要な時期にあたっている。もし、この期間に本席となられる飯降伊蔵が出直すようなことがあれば、その後の道の発展はなかったであろう。教祖には多くの直弟子がおられたが、中山家以外で、屋敷に定住する形でいた信徒はわずかであり、その出現から教祖が楽しみに待たれたのが、大工の伊蔵である。

  実は伊蔵が屋敷に定住するようになるのは、明治15年2月8日であったが、そこに至るまでには紆余曲折があった。櫟本の屋敷を引き払ったのである。屋敷に定住するようになった伊蔵に教祖は次のように話された。

 「これから一つの世帯、一つの家内と定めて伏せ込んだ。万劫末代動いてはいかん。動かしてはならんで。」

 これは中山家以外の人の中でも最大級の期待がかけられていることが分かる。飯降家は後に三軒三棟の理が鼎立するが、天の組織つくりの上で重要な柱の一つとなる。

 そしてその期待通りに教祖の片腕となり、仕事場にもなったのが伊蔵であった。だがそれは、ほこりの仕事場とも呼ばれて、本流の仕事ではなかった。身上や事情助けということへの神意の伺いが言語啓示として、さらに「扇のさづけ」をもいただいた方として御用されていた。だが、教祖が亡くなり、仕事場の仕事が本流へとバージョンアップしなければ、この道のエネルギー源は消えてしまう。神意が受動的にさしづとして下されるのではなく、より主体的に能動的に発動しなければ、神直接のリーダーシップは図れない。

 とは言うものの、伊蔵に神が入り込んで話す刻限話は、櫟本から屋敷に通っていた明治八九年からあったという(「永尾芳枝祖母口述記」『復元3号』136頁)。それは将来を予告するような啓示で、本人はその発言の記憶がないが、不意に「見えん先のこと、見えてないことを一と言いふて置くで」と仰った。

 

  1.お諭しだとか刻限話という神直々の重要な神意の発露がその第一の仕事。

  2.救済の技法としてのおさづけの授与すること。

 

 これはどちらも教祖が天保9年以来50年もの長き啓示者としての歩みの中から出てきたお仕事である。この中で、実際の救済が始まるのは、ずっと後になってからであり、珍し助けのない貧のどん底への道が前半生においてあった。中山家の屋敷も財産も施すことが、刻限話によって進められた。そして夫の善兵衛さんは苦悩したし、秀司さんも、こかんさんも先に出直された。

 救済の始まりは、をびや助けであり、「をびや許し」はこの世の元始まりの証拠としての安産の御守護であった。教祖自らが体験し、さらに周辺に伝播して、人気ある神様と評判になる救済の実現であった。

 伊蔵がその「をびや許し」を出すことが、早くも2月25日午後7時の「御諭」である。引用してみよう。

 「第一をびやたすけ、さあ三日目三粒を三つ、三三九つを百層倍。これをかんろう台へ供え、本づとめをして、元のぢばなる事を傳へ、をびや許しを出す」

 教祖が亡くなってから1週間もたたない間に、伊蔵から「をびや許し」が出されたことは注目すべきことである。ここで伊蔵の仕事場が教祖の代理者である側面がより濃厚になったきた証だと思われる出来事だった。

 本席定めに向かう一か月の間には、多くの刻限話があったが、伊蔵の身体も実は大変な過程を経ていた。教祖と同様に伊蔵自身も出直すほどの身体的危機を乗り越えているのである。普通だったら、彼も亡くなってもおかしくないほどの身体的異変である。

 刻限は続く。3月1日。3月4日、3月10日、3月11日とおさしづが収録されているが、特に前兆的なお知らせらが4日にあった。

 

明治20年3月4日 刻限御話

  ・・・・・

 (暫く刻限過ぎて大声にて、ワツと二声上げ)

 「さあ/乀身の内にどんな障りが付いても、これはという事がありても、案じるのではない。神が入り込み、皆為す事や」

 

これは何事が起きても、心配するなよという神の予告であった。

そして、実際に、大変厳しい身体的異変が起きるのであった。  (つづく)