天理教の啓示書である『おふでき』は和歌体で筆記されたもので、啓示書が和歌体で書かれた意味についてどのように考えればよいのだろうか。『和歌文学大辞典』の編集委員の一人である、東京大学文学部の渡部泰明教授は、和歌が800年続いた理由として、「演技」「連想」「祈り」「境界」の4つの言葉をキーワードとされている(参照:
)。
この中で、特に「祈り」の面に注目したい。そこでの祈りとはおそらく、人が神仏への祈願をするという意味での「祈り」が含意されていると思われる。和歌という文学の表現形式に宗教性があることが少なくとも分かり、中世の貴族たちの宗教性を理解する際に、和歌の研究が必要かと思われる。渡部先生の恩師で、この度、2020年11月に文化勲章を受勲された久保淳元東大教授のご研究も参照されねばならないだろう。
さて、文学研究は中世の歌人の心を探求するものだが、啓示書である『おふでさき』はその大半が和歌体であり、執筆者である教祖(おやさま)が何を意図されたかが探究されねばならない。啓示言語の意味は、目に見えぬ神・月日(つきひ)が教祖の肉体を借りて、その意図・神意を自ら開示したということである。和歌体で筆記されているが、そこには通常の人間にはできない表現形式であること、それも800年前から続く和歌形式が利用されたことに大きな神意が感じられる。
『おふでさき』1711首を人間の作と考えるか、神意の発露ととらえるかで、見えてくる景色・世界観は全く異なったものになる。我々はあくまで、信仰者として和歌体に込められた神意が何であるかを探求したい。
本席様においては、和歌体の啓示があったのかは不明である。少なくとも口頭で発話されたご啓示が『おさしづ』本として編纂されている。その後、裏の道として、歴代の啓示者たち(機械)が残されている啓示言語でも、和歌体での啓示形式も含まれている。そこには人間技ではないことが含意されているのだろうと推定される。
機械の概念については、繰り返しになるが、改めて定義する。
「機械」とは、存命の教祖の理を体現し、無形のおやの思惑を伝達する啓示者として定義する。天理教から分かれた分派・異端の啓示は多々あるが、どれも地場の理を伝えるものではなく、本ブログの射程外であることを再度強調する。 飯田岩次郎の子孫が継承する大道教とか、大西愛次郎の「ほんみち」など、地場の理を否定する啓示は異端・破綻である。
教祖(おやさま、中山みき)がもちろん初代の機械であり、夫善兵衛によって神の機械として認定され、「月日の社(やしろ)」の称号を受けた。
飯降伊蔵は、初代真柱の真之亮(中山新治郎)によって、神の機械として認定され、「本席」の称号を受けた。
さて、機械の同時代的複数性の可能性について付言したい。教祖の娘の中山こかんさんが、「若き神」と呼称され、筆写されたものは残っていないようだが、機械でもあったことが想定される。
「別間へだて」とは教祖とは別人格の人間が教祖と同列の仕事をしたことを意味している。
さて、和歌体『おふでさき』の冒頭の3首をここで注釈したい。明治2年(1869)年正月、72歳の時の御執筆である。
よろつよのせかい一れつみはらせど むねのハかりたものハないから (1-1)
そのはづやといてきかした事ハない なにもしらんがむりでないそや (1-2)
このたびハ神がをもていあらハれて なにかいさいをといてきかする (1-3)
1.空間的・時間的にすべてを俯瞰している実在からの発言がここにある。有形をこえた無形の実在者が全宇宙を見ているのである。全知全能の実在者がいる、その実在者の心を分かっている者は一人もこの地球上にはいないということである。人間世界を創造し、根源者であり、守護をしている実在がいて、実際に働いている。人間は無自覚で生きてきたが、いかなる宗教・信条があっても、それらを超越して実在する親なる神がいる、その神の心を知っている人類は一人もいないという第一の宣言である。これは1869年の教祖ご在世の時だけではない、今でも妥当する真理である。デジタル化が進んで、多くの情報があふれていても、真実の神の心を知っている人類は誰もいないという神の言明である。 人間は根本的に神を知ることはできない。神が自らを開示しなければ、知りようもないのである。おそらく、教祖の在世中、教祖の神意を本当に分かったのは、飯降伊蔵だけであったと思われる。 道元から孤雲懐奘(こうんえじょう)禅師との関係と似ている。
2.神が説いて聞かせるとは、神意を伝える人物が想定され、その人物を信じなけれは、神意は決して分からないということである。天保9年の神がかり以来、教祖は神の機械となり、月日の社となった。だがそれは貧に落ちきる道であり、夫善兵衛さんには全く理解できない道中であった。世間の因習や常識を超えたが教祖の仰せ、行動には親族も離れざるを得なかった。貧に落ちきる道、有形世界に頼らぬ道、現代的にはコロナ感染禍の中での不自由の中で、目に見えぬ理を頼りに生きてきたのが教祖の姿である。神意に関して人間は絶対的に無知であり、無信仰である。これは神の現状認識であるが、その現状に甘んじている神ではない。世界人類にその思惑、理の所在、理の道、人間が生きるべき道を伝えたいのである。
3.神が表に現れるとは何を意味するのか。貧に落ちきる道を教祖が進まれるのを見て、だれが神がこの世の現れていると思っただろうか。中山家が貧のどん底に至る道こそは、神の現れの一行程であった。神が現れるなら、人が救わて、疫病がなくなって、人類がもっと幸せになればよいのにと神義論的に人間は考察する。しかし、それは人間が考える神であって、神の思惑は誰にも分っていない。中山家は悪因縁によって、このままだと一家断絶、根絶やしなる宿命があった。未来が分かっている神には、人間一条から神一条への精神の建て替えが人間の側に求められ、教祖は素直に従ったのである。
さて、神の現れは教祖の肉体を通じて50年にも及ぶ雛型が残された。神の現れは、貧に落ちきる道、大和神社事件での信者の離散、官憲による迫害弾圧という「いばら苦労の道」であり、決して生易しいものではなかった。神の現れは、教祖の肉体を通じて神意の発現・行動として見える化した。 さらに『おふでさき』の和歌に、「みかぐら歌」の宗教儀礼にも神の現れが見える化した。
神の現れは、教祖亡きあとには、本席の御生涯と啓示にも表出された。神の現れは、さらにその後の歴代の機械たちによっても100年以上続ている。神の現れとは永遠に持続する神の思惑を表出するシステムの持続性をも暗示している。そのように本ブログは主張する。
目下のコロナ感染の拡大する世界も巨大な神様の思惑がかかっての目に見えぬ病原体の拡散である。 目に見えないコロナはPCR検査である程度判明するかもしれないが、目に見えぬ神の大きな思惑こそに私たちは敏感でなければならない。

