アメリカのトランプ大統領が自分の支持者たちを煽って、過激派保守主義の人たちが、議会開催中の議事堂(Capitol Hill)を襲撃した事件が2021年1月6日にありました。その罪を厳しく問われたトランプ氏は弾劾訴追(impeachment)を受けることが決定した。それも史上初2度目(『朝日新聞』1月15日1面「トランプ大統領 弾劾訴追」)。議会が襲撃中に、共和党の議員が大統領に電話して、襲撃を止めるように電話したにも関わらず、本人はテレビの生放送にくぎ付けになって楽しんでいたという(同「トランプ氏 重ねたあおり」)。煽った挙句に、止めることもせずに、確信犯的に議事堂襲撃を容認したのがトランプ氏である。副大統領のベンス氏が議会で議長として次期大統領の指名を決定しいたわけだが、その行為を批判したのもトランプ氏であった。
何か悪い結果をもたらすことを唆(そそのか)してさせることを「煽る(あおる、agitate)」と定義する。この用語を使って、天理教の歴史での一大エポックである、元治元年(1864年)の「大和神社事件」(おおやまとじんじゃ・じけん)を再考してみたい。
大和神社について:「やまと」はこのあたりの地名から大和国へと広がり、日本国の旧称にもなった。 「大和は豊年や」(みかぐら歌一下り目八つ)
結果として、この事件はある程度の規模の信徒集団が築かれつつあった天理教という組織にとっては危機的な事態を生んだ。すなわち、この事件を契機として、信徒集団が雲散霧消してしまった。その後、9年間にわたり、飯降伊蔵お一人のみがお屋敷に通ったという史実が「話の台」としてストーリー化したのである(明治31年8月26日の『おさしづ』にもこの史実をとり上げている)。
始め掛けた勤め場所の普請に関わる金銭が最大の負債として残され、戸主である中山秀司さんは気をもまれた。それは一人飯降伊蔵が背負って、瓦屋や材木屋などと交渉したことで治まったという(教祖伝ではなく、本席のお話、伝記記事などから調査必要)。
事件の理解として教科書的には、永尾教昭氏(現在の天理大学学長)が2004年秋の神殿講話(ヨーロッパ出張所長時代)で語ったことが残されていて、参考になるだろう[
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また深谷忠一先生の論説も参考になる。
https://www.tenri-u.ac.jp/topics/oyaken/q3tncs00000tnsrc-att/GT184-Fukaya.pdf
悪く言えば、教祖が信徒を煽って、わざと大和神社の前で「つとめ」をさせて、鳴り物を鳴らしたことを容認したのである。神道界の大物である守屋筑前守がたまたま祈祷中であり、事件は起きるべきしておきたのであった。教祖は見抜き見通しで、守屋が激怒することは想定内にあったはずだ。教祖はあえて、大和神社の前で「拝をせよ」と語った。これは何も伝統宗教である既存の神道に敬意を示せというよりも、挑発をすることに含意があった。天理王命という一神教を奉じる教祖にとって、既存の伝統宗教は前には聳える大きな山々である。
貧のどん底を歩むなかで、信徒らしい信徒も皆無な日々が長く続くなか、ようやくにして思惑の大工であった飯降伊蔵が元治元年に現れた。伊蔵は妻が助けられたことが本当にうれしかった。そして大きな恩義を感じていた。そして、そのお礼として、同じ年に勤め場所のふしんが始まった。そのお祝いとして、中山家だけでなく(このお祝いはお里さんが帯を質屋に行って賄ったともいう)、山中忠七宅にも呼ばれて行った。そのお祝いをしようという中で、大和神社の前をとおったのであった。
ここでは信仰における精神の在り方が根本的に問われたのであった。無形の神を信じれるか、目先の形である金銭や地位を尊ぶか。自分に不都合があったとしても、神様の絶大な守護を感じることができるか。コロナ感染が世界が真っ暗な中で、神様の絶大な守護を感じて日々を喜べるか。
事件が信徒に与えた精神的な危機は絶大だった。伝統的宗教の権威者の逆鱗にふれ、近くの宿に拘留された。新しい信仰を否定され、辞めるように請状も書かされた。さらに罰金も支払った人たちは、教祖に助けられたことも忘れて、ほとんど信仰を辞めた。これは普通の人間の姿である。しかし、飯降伊蔵だけは違った。信仰を辞めますと表向きは請状を書いても、彼一人はその後9年間誰も来ない中で、お屋敷に通い続けたのである。おそらく資産家で地位もある山中忠七でさえも来なくなった口であろう。
目に見えぬ神の絶大な守護を感じたからこそ、飯降伊蔵は信仰を持続させることができた。それは後の本席へとなる真実の精神の発露である。「かしもの・かりもの」を守護する神がいて、その神が教祖を通じて顕現されていることを、彼一人だけが信じていたのである。
このような細い道、一人の真実の道が道として続いて、その後の大きな道に続くことを忘れてはならない。数だとか、形が大切なことはではない。目に見えぬ神を神として信じることができる心の誠が問われている。その誠の心の在り方の試験問題として、大和神社事件の節を神様は教祖を通じて与えたのである。
教祖の「ひながた」は教祖一人で完結するものではない。教祖と関係者という組織の中で、ひながたは形成されるのである。教祖の娘のこかんさんも不足したこの事件は、信徒を振り分ける恐るべき神の手段と言わざるを得ない。