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「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

NHK歴史秘話ヒストリアで、令和3年1月13日は、「1000年愛され続けた天神様 菅原道真」でした。道真に関連する場所を徹底的に調べた内容で、力作の内容でした。いつもNHKさんの報道を楽しませてもらっています。ただ一面的な視点で分かりやすく報道しているので、関連情報を補って考察したい思いました。今年は丑年、牛(うし)の年なので、菅原道真も愛した牛に関連して、天神信仰そのものを簡単に考察してみたい。

 菅原道真[845-903]が亡くなった後、京都で不吉なことがあり、道真の霊を弔うために、北野の天神社が947年に創建された。立てたのは神職や僧侶であっったことが北野天満宮のHPから分かった。祟りを恐れた藤原氏によって社殿が立派に造営され、一条天皇から「北野天満天神」の信号を与えた。

 北野の地はもともと「三辰信仰」の聖地で京都御所を守る乾の方向の地にあった。ここに「天神信仰」の発生の由来があり、「三辰信仰」(星や太陽、月を信仰する習俗)と、学問の神の信仰が折衷したシンクレティズムが生まれたらしい。

 だが、天神の神号は、北野が先ではなく、むしろ道真のお墓に建てられた、大宰府天満宮(福岡県太宰府市)が先である。すなわち919 年に勅命によって立派な社殿が作られ、その後「天満大自在天神」の神号が朝廷から送られたという。おそらく、天神という名称が福岡のほうが先に、送られたかも知れない。

 現在、両宮とも天神・天満宮の総本社・総本宮は、自宮だと主張されているが、どちらもそれなりに由緒も歴史も古く、甲乙つけがたい総本社だろう。正式には以下のようにお互いに自称している(2021年、1月18日のURLによれば)。

 「北野天満宮は、菅原道真公を御祭神としておまつりする全国約1万2000社の天満宮、天神社の総本社です。」(京都)

  

 

 

 「大宰府天満宮とは 天神さま(菅原道真公)をお祀りする全国約12,000社の総本宮と称えられ、」(福岡)

 

 

 ここでいう総本社・総本宮とは、本家・本元、元祖を意味して、そこから全国への勧請されて、各地の天神社の元になった神社という意味である。 例えば、宇佐神宮(八幡社の総本宮)、鹿島神宮、香取神宮、住吉大社、伏見稲荷大社、厳島神社などが総本社として有名である。

 おそらく、勧請された本宮としては北野が地理的に圧倒的に多いのだろう。九州方面では大宰府天満宮が多いかもしれない。これはだれか神道学者の研究に期待したい。すでにその比較研究が神道学会などであるかもしれない。

 ただWIKIによれば、2つの総本社として確立されているようだ。

 ついでに私の考える日本3大天神として、「湯島天神」を加えたい。3つ目は、歴史的にも「三大天神」として各地にあるようだが(WIKIの「日本三大天神」)、関東方面で暮らす私には、「湯島天神」がもっとも著名である。これは江戸が日本の中心となり、幕府からも厚く尊崇されたのが湯島天神であり、近くの湯島聖堂が学問所としての地位を確立したことにも関係する。神田明神や東京大学からも至近の神社である。

 正月には地下鉄の千代田線湯島駅から、神社まで大行列のできる神社です。参詣するのに、3時間、4時間待ちの大行列です。今年は、湯島天神の鉛筆を持参できた受験生は圧倒的に減りましたが・・・。おそらくコロナの影響で。

 

 こちらの湯島天神が天神の由来について客観的に書かれている。以下参照。

 

 

牛と天神との関係について、以下のアメーバブログで人気No.1の白川葵さんは以下のように述べています。

 

 

 

 息子たちと同世代の子供たちが育って、今年大学入試の一環で共通テストを受験しました。土日と試験監督した私は感慨深いものがあり、一文を草します。息子が生まれたころ、勤務校の大学がセンター試験の会場となり、私はセンター試験本部員として関わり始めた。リスニング試験の導入が始まったので、その試行テストが夏ころにあった。同僚の教員がICレコーダーをフロアに落とすハプニングもあり、ひやひやした。そして、本番の試験では、ICレコーダーの機器の故障などトラブルに対する対応のマニュアルが年々増大していった。実際に現場で試験監督する中で、初日の英語のリスニングの対応が最も神経過敏となる時間であった。今年も同様だったが、1台も故障がなかった。よかった!。本番前に必ず説明の開催が各実施会場の大学で義務化されているが、途中からDVDの映像も始まった。本部員や即興で教員が前に出て模擬練習もする。機器のトラブルの際、時間はいつか、止まった問題の番号は妥当かなど、細かい用紙がある。

 内情をばらすとことは法令に禁じられているので、概要しか言えないが、これでも注意があったらすみません。

 いつか子供もセンター試験を受ける日が来るだろうと、想像をめぐらしていたが、17、8年たってその日が来ました。今期は共通テストも名称も変わりましたが、同じタイプの試験で、マークシート方式で試験マニュアルは従来通りだった。英語の試験は発音や単語の試験はまったくなくなり、実用文の読解が中心に。スマートフォンの画像でメッセージのやりとりなど。国語は昭和の随筆とその評論という文章で、かなりの読解力を問う設問でした。

 目の前の受験生を見ながら、この子たちも赤ちゃんから生まれて、よくここまで育ってきたなーと思いました。どうしようもない子供でも、何とか育ってここまで神様にお連れ通りいただき、この試験の日を迎えられました。そんな些細なことですが、いたく心に感じられて、一人感動して、妻とも語りました。

 数学の試験では、開始前に補足説明用紙を裏返した受験生がいて、私は怒鳴って「裏返していけません」と声を張り上げてしまいました。場が一瞬でシーンとなり、200名はいる教室の雰囲気は氷りました。あまり叱られたことない世代で、本当にすません。昭和生まれのお父さんはすぐに激高してしまいます。 

 何はともあれ、受験生の健闘を祈ります。

 

 アメリカのトランプ大統領が自分の支持者たちを煽って、過激派保守主義の人たちが、議会開催中の議事堂(Capitol Hill)を襲撃した事件が2021年1月6日にありました。その罪を厳しく問われたトランプ氏は弾劾訴追(impeachment)を受けることが決定した。それも史上初2度目(『朝日新聞』1月15日1面「トランプ大統領 弾劾訴追」)。議会が襲撃中に、共和党の議員が大統領に電話して、襲撃を止めるように電話したにも関わらず、本人はテレビの生放送にくぎ付けになって楽しんでいたという(同「トランプ氏 重ねたあおり」)。煽った挙句に、止めることもせずに、確信犯的に議事堂襲撃を容認したのがトランプ氏である。副大統領のベンス氏が議会で議長として次期大統領の指名を決定しいたわけだが、その行為を批判したのもトランプ氏であった。

 何か悪い結果をもたらすことを唆(そそのか)してさせることを「煽る(あおる、agitate)」と定義する。この用語を使って、天理教の歴史での一大エポックである、元治元年(1864年)の「大和神社事件」(おおやまとじんじゃ・じけん)を再考してみたい。

 大和神社について:「やまと」はこのあたりの地名から大和国へと広がり、日本国の旧称にもなった。 「大和は豊年や」(みかぐら歌一下り目八つ)

 

 

 結果として、この事件はある程度の規模の信徒集団が築かれつつあった天理教という組織にとっては危機的な事態を生んだ。すなわち、この事件を契機として、信徒集団が雲散霧消してしまった。その後、9年間にわたり、飯降伊蔵お一人のみがお屋敷に通ったという史実が「話の台」としてストーリー化したのである(明治31年8月26日の『おさしづ』にもこの史実をとり上げている)。

 始め掛けた勤め場所の普請に関わる金銭が最大の負債として残され、戸主である中山秀司さんは気をもまれた。それは一人飯降伊蔵が背負って、瓦屋や材木屋などと交渉したことで治まったという(教祖伝ではなく、本席のお話、伝記記事などから調査必要)。

 事件の理解として教科書的には、永尾教昭氏(現在の天理大学学長)が2004年秋の神殿講話(ヨーロッパ出張所長時代)で語ったことが残されていて、参考になるだろう[

 

 

]。

 また深谷忠一先生の論説も参考になる。

 

https://www.tenri-u.ac.jp/topics/oyaken/q3tncs00000tnsrc-att/GT184-Fukaya.pdf

 

 悪く言えば、教祖が信徒を煽って、わざと大和神社の前で「つとめ」をさせて、鳴り物を鳴らしたことを容認したのである。神道界の大物である守屋筑前守がたまたま祈祷中であり、事件は起きるべきしておきたのであった。教祖は見抜き見通しで、守屋が激怒することは想定内にあったはずだ。教祖はあえて、大和神社の前で「拝をせよ」と語った。これは何も伝統宗教である既存の神道に敬意を示せというよりも、挑発をすることに含意があった。天理王命という一神教を奉じる教祖にとって、既存の伝統宗教は前には聳える大きな山々である。

  貧のどん底を歩むなかで、信徒らしい信徒も皆無な日々が長く続くなか、ようやくにして思惑の大工であった飯降伊蔵が元治元年に現れた。伊蔵は妻が助けられたことが本当にうれしかった。そして大きな恩義を感じていた。そして、そのお礼として、同じ年に勤め場所のふしんが始まった。そのお祝いとして、中山家だけでなく(このお祝いはお里さんが帯を質屋に行って賄ったともいう)、山中忠七宅にも呼ばれて行った。そのお祝いをしようという中で、大和神社の前をとおったのであった。

 ここでは信仰における精神の在り方が根本的に問われたのであった。無形の神を信じれるか、目先の形である金銭や地位を尊ぶか。自分に不都合があったとしても、神様の絶大な守護を感じることができるか。コロナ感染が世界が真っ暗な中で、神様の絶大な守護を感じて日々を喜べるか。

 事件が信徒に与えた精神的な危機は絶大だった。伝統的宗教の権威者の逆鱗にふれ、近くの宿に拘留された。新しい信仰を否定され、辞めるように請状も書かされた。さらに罰金も支払った人たちは、教祖に助けられたことも忘れて、ほとんど信仰を辞めた。これは普通の人間の姿である。しかし、飯降伊蔵だけは違った。信仰を辞めますと表向きは請状を書いても、彼一人はその後9年間誰も来ない中で、お屋敷に通い続けたのである。おそらく資産家で地位もある山中忠七でさえも来なくなった口であろう。 

 目に見えぬ神の絶大な守護を感じたからこそ、飯降伊蔵は信仰を持続させることができた。それは後の本席へとなる真実の精神の発露である。「かしもの・かりもの」を守護する神がいて、その神が教祖を通じて顕現されていることを、彼一人だけが信じていたのである。

 このような細い道、一人の真実の道が道として続いて、その後の大きな道に続くことを忘れてはならない。数だとか、形が大切なことはではない。目に見えぬ神を神として信じることができる心の誠が問われている。その誠の心の在り方の試験問題として、大和神社事件の節を神様は教祖を通じて与えたのである。  

 教祖の「ひながた」は教祖一人で完結するものではない。教祖と関係者という組織の中で、ひながたは形成されるのである。教祖の娘のこかんさんも不足したこの事件は、信徒を振り分ける恐るべき神の手段と言わざるを得ない。

 

 隣村に村中(むらじゅう)天理教に猛反対という村があった。そこに関節リュウマチの男の人がいた。家族も看病疲れで世話を焼きかねていた。父はそこへおたすけに通った。

 体を洗ってやったり、髪を刈ってやったりしながら、親神様のお話を取り次ぐ。家人は村人に気兼ねして、お茶も出さなかったという。

 そのうちに、病人はみかぐら歌を覚え、親神様の理を聞き分けるようになった。いつも寝ながら、みかぐら歌を口ずさみ、家内中に身上(もみじょう)、事情があると聞いたような話をするのであった。それが不思議と図星となって、家内中もたすかり、はては、親戚の人たちまでが、お話を聞くようになった。のちに、村中の一族四十数名のようぼくを授かる原動力となった。

 昭和二十七年二月のある晩、若い母親がみどり子を抱えて駆け込んできた。肺炎のために子供は虫の息だった。医者から絶望を宣告されたので、わらにもすがる思いで駆けつけてきたというのである。

 この時の父のおたすけもすさまじかった。二月の00県の最北端は、太平洋から吹き上げるヤマセで、身を切るような寒さである。何回も何回も水をかぶり、夜遅くまで十ニ下りのお願いづとめをした。子供心にも合掌したくなるような後ろ姿だった。

 まもなく、みどり子は地名をとりとめた。祈る者も祈ってもらう者も感動の涙にかきくれていた。

 三十年以上たった今、そのときのみどり子も立派な母親となり、二人の子供まで授けていただき、お道のご用の上につとめてくださっている。

 その年の三月五日、父は出直した(注:亡くなった)。肺炎だった。医者の診察をかたくなに断りつづけていた父だったが、危篤状態になったので、母は医者を呼んだ。父は大きな目を見開いて、なじるように母を見た。でも、医者の口から肺炎と聞いて、なぜかほっとしたようにうなずき、そのまま眠るようにして出直していった。父は肺炎と肺結核を別の病だと解釈していた節があるので、違った身上で出直しできれば、いんねんが替えられたと思っていたようである。享年四十二才。

 

<つづく>

 

 ある日、父は病院から重病人を背負って帰ってきた。肺結核で毎日寝汗を拭いてあげていた人だという。聞くと、いつもおたすけに行く人のところと部屋をまちがえたのだという。相手はびっくりして、

 「なにしに来た?」と問うた。

 「私は人をたすけて歩く人です。」と答える、その人は、

 「私もたすかるか?」と聞いたという。それから少々のやりとりがあったのち、そのまま病院から背負ってきたというのである。

 その人は、さっそく修養科へ入学したが、三か月後には元気な姿で帰ってきた。彼は元気になった身体(からだ)を見せに、真っ先に入院先の病院長を訪ねて、お道の匂いがけを始めたという。

 父はその後もときどき重病人を家に連れてくることがあった。かつての日、先輩が自分に示してくれた誠真実の愛情を決して忘れてはいなかったのである。

 またある時、三里あまり離れた山の村に、掘立小屋に一人住んで生芋や泥だらけの野菜をむさぼり食べる人がいた。

 父はその人のところへも、熱心に通いつめた。父は一度おたすけにかかると、どうでもたすかっていただくまでは手を緩めぬ人であった。

 その方は、御守護をいただき、村人たちを集めて、毎月お祭りをした。通りがかかる人びとを誰彼なしに呼びとめては、自分の助かった話をした。

  そういう彼のもとに村長や校長先生までも訪ねてきたという。

 

<つづく>

 ある天理教の教会長が書かれた手記を紹介いたします。教祖100年祭(1986(昭和61)年)の頃に書かれたものだと思われます。天理教における、ある末端の教会がどのようにして一布教師から生まれたのか、その様子がよくわかるものです。 個人情報もあるので、教会の名称、地域名は控えさせてもらいます。

 

 「私たちの小学生のころ、父は毎朝食卓につくたびに、「ああ、きょうももうけた、ありがたい」と、口ぐせのように、言っていた。一日また一日と寿命を伸ばしていただていることへの父なりの感謝の表現だった。

 父は二十代で肺結核をわずらい、あちらの病院こちらの医者とめぐり歩いたが、いっこうにはかばかしくなく、ついには医者の手放(てばな)れとなった。絶望のドン底に突き落とされて死を待つばかりの時、現在の上級00分教会の布教者にひろわれた。00分教会は捨て者同然の父の身をもらい受けてくれたのである。

 昭和12年、父は天理教校別科へ入学したが、以後、再発することもなく助けていただいた。

 同じころ、教会に父親のセキツイカリエスを助けてもらいたさに、父親の身代わりとなって別科へ入学し、別科修了後も教会で熱心に信仰に励んでいる娘がいた。それが私たちの母である。

 父母は00県の町の00町へ単独布教の旅に出た。まだ、天理教の教えの伝わっていない町だった。私たち兄妹はその地で生まれたが、あすをも知れぬ身上(*肉体のこと)だった父から、三男三女が生まれたのである。

 「もうけた・・・・・」という父のことばの中には、一日また一日と生かせてもらっているという心の底からの感謝があり、生命感の躍動が感じられる。

 父の思い出といっても子供のころのことしかない私だが、それでも毎朝食卓に向かってお礼を述べていた姿だけは、いまも瞼(まぶた)に焼きついて離れない。

 

  <つづく>

 

 

 研究者には知られているが、天理教は教祖時代だけでなく、その後、明治期においても新興の宗旨、「淫祠邪教」として既存の伝統宗教(浄土宗、真宗)の論客から論難・批判されたことは確かである。先行研究として、高野友治、金子圭介氏らが分析しているが、最近でも幡鎌一弘(2016)がかなり詳細な分析をされている。『おさしづ』でも明治26年9月1日に羽根田文明による批判書(『天理王弁妄』、明治26年出版)に対する対処を、神様に伺っている。 そこで本席様からいかなる言葉があったのか、これは興味の惹かれる議題である。 

  幡鎌氏の論考は実証的に当時の時代状況の中で、批判書が「貸しもの・借り物」(A Things lent, things borrowed)という天理教の根幹的な実践教理がいかに、当時の批判されたのかを分析し、逆に天理教の独自性・普遍性を浮かびあがらせたという意欲的な教理史の研究である。 むしろ「かしもの・かりもの」の思想は普遍性があるゆえに、批判の対象とはあまりならなかったという事実が発見されているのだ。

 「かしもの・かりもの」の思想とは天理教の専売特許のようなキーワードだが、すでに既存の宗教でもそれに匹敵するような思想は十分にあるということであり、普遍性が高い思想だとされる。 一言で、生かされていることへの感謝の念を意味する。禅宗でも神道でもキリスト教でも、イスラームでもこの思想が根底にあるだろう。今のコロナ禍でもキーワードである。  

 では、明治期において、いかなる教えが説かれていたのか、今と違う面があるのか、興味が尽きない。批判の中には天理教の教会組織の貧弱さ、教義の未整備、または品行の悪い信徒たちも大勢いたことが逆に分かってくる。過激な信仰態度で、既存の仏教者たちが驚き、信徒が奪われていることに危機感を抱いたことは無理ではない。またそれほど、天理教の信徒が爆発的に拡大して、社会に大きな脅威を与えたことが伺える。

 『天理教退治』(越南子、明治27年)は京都の浄土真宗の論者が書いたもので、200万人の信徒が騙されていると啓蒙している。この本では最後に、「深い道理も知らずして 嘘言といつわりでかためたる 世にも馬鹿げた天理教」などの囃子歌まで作っている。

 幡鎌(2016)では、明治29年に信徒313万人とも書かれている。信徒が膨れ上がり、その精神修養、丹精させることが肥大化する天理教の大問題どなったことだろう。 

 『天理教退治』 では、十柱の神々が教祖の口を通して顕現したことも書かれている。現在の経典では「われは元の神、実の神」というように表記されているが、正しくは、十柱の神々が天保9年の神がかりに際して、話されたことは、『復元』でも紹介されている。

 さらに『真理之裁判』(兼子道仙、明治23年)では、天理教の幹部に対するインタビューも掲載されており、これは一級の教理史を照らすエビデンスとなる。 

 同書で幹部として最初に出てくるのが、何と天理教会権少講義・茨木基敬である。明治15年の入信で、教祖から親しく教えをうけたことが分かる。また彼は教祖から大きな期待もかけられていたことが想定される。のちに啓示者・異端者として本部を追われる身となったが、当時、いかなることを話したのか、研究したい。 無我居士こと太田唯吉が信徒希望を理由に、茨木氏から天理教の教理を詳しく聞き、その内容を詳しき書き取り、これは荒唐無稽だと断罪する体裁をとっている。むしろ当時、説教師としてナンバーワンの茨木氏がいかに詳しく教理を説いたかが分かる内容である。本部において説教の予定だったこと、その説教を聞くために、他に7,8名も中山重吉の旅舎に来て話した。

 

引用文献

幡鎌一弘(2016)

https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/4022/OYS002204.pdf

『天理教退治』 

 

 

『真理の裁判』

 

 

 

 

 

 

 

 天理教では、教祖の雛型を辿ることが信仰の眼目にあり、信仰者は等しく、『稿本天理教教祖伝』を拝読する。その中で、中山家が貧のどん底に陥る道程が最初に描かれている。これは確かな史実である。貧者にひたすら恵み、庄屋だった中山家の没落として描かれる。母屋取りこぼしというハイライトの場面では、さすがの善兵衛さんも面目丸つぶれだ。いくら神の言うことでも、妻に入り込んだ厄病神には相当参ったのであった。

 東大の元教授の島薗進氏などは、教祖の宗教活動で人生の後半から救済活動として始まることを重視して、次第に宗教者としての人間的な自覚ができたのであったという人間中心的な理解をされている。天保9年の神がかり以降、目立った宗教活動はなく、教祖は内倉で誰かと話していたことが伝わっているだけである。長い月日がたち、表立った救済活動が外部に広がる中で、迫害弾圧も幕末維新期、明治政府からなされる。国家権力との対立があり、それは教祖も狙っていたことであった。

  神ならすぐに救済活動ができるし、すべきというのが島薗教授の神観念である。これは信仰者ではない、外部からの視角である。

信仰者、教祖の心の内がいかなるものであったのか、考察しないといけない。

 「貧に落ちきる道」は「コロナ感染下の不自由暮らし」と関係している。「貧に落ちきる道」は、財産とか土地だとか人間が頼って来たものを超える精神の世界を体験させる道である。財産や社会的名誉だとか、世間的なまなざしだとか、それら一切を超えた世界に教祖(おやさま)の心はむしろ自由であった。形を超えた楽々の道を楽しまれたに違いない。喜んで、お米を布施し、屋敷や田畑も売り払っていったのであろう。その後、救済の不思議な助けが顕現するまで、20年ほどの間が「貧のどん底」への長い「いばら苦労」と言われる。その時の教祖のお気持ちは想像するしかない。しかし、信心する信仰者の目から見ると、教祖は日々に喜ばれていた、神様の広大な守護を余すことなく感じた日々を送られていたに違いないと思われる。

 土地も財産も借り物である。自己の先祖伝来の私有物だと思っていたら、全く喜べない事態である。私有物の観念こそは、資本主義の原点でもあるし、資本主義の起源であるが、教祖の考えは、原始共産制の構想に近い。人も物も自然も宇宙もすべて借り物であり、神の貸しモノという思想である。これは人類がこれまで考えもしなかった究極の真理である。

 カーボン・ニュートラルが求められ、地球温暖化は喫緊の課題であり、SDGsの課題事項でもある。地球の環境、ガイアが病んでいる。神の貸しモノの天然自然の世界が再生可能性を脅かされいる。

 コロナ感染は巨大な神様からの仕込みであり、今は「貧に落ちきる道」を人類一同に仕込まれている。ステイホームでも、人ひとりの肉体の守護に変わりはない。心通りに守護される神様が地場を通じて現れた。心はどこまでの主体性をもって自由である。その自由こそは神様の理があることを信じることから生まれる。喜んで通っていきたいと存じます。キレイに今年の心の掃除をして、新年を迎えたい。

お地場2020年10月ころ

 

 

 

 

 

 

 

秋篠宮家の長女、眞子内親王の結婚願望に関して、国民感情的にSNSではかなりの反論がなされている。

これは皇室制度そのもの土台を揺るがしかねないと感じた宮内庁長官の異例の発言にもなった。

以下参照。

「宮内庁長官 小室圭さんに「異例の苦言」も破談の可能性はゼロ」

 

 

 

「秋篠宮さま消えぬ佳代さんへの不信 挙式費用話し合いも難航か」

 

 

 娘との疎遠の要因が結婚問題であり、家庭内で治めきれなくなった秋篠宮様は「立皇嗣の礼」を終えると、足元の問題とした娘の結婚を容認する発言をされた。しかし婚約式にあたる納采の儀は別問題だという。おそらく国費が投入される納采の儀の支出に、金銭トラブルの説明をしてこない小室家が説明責任がないことがネックとなっている。小室圭さんの母親の元婚約者Aさんは、400万円の借金で圭君の結婚問題がこじれるのは申し訳ないと、借金問題は問わないと言明した。これで金銭問題を要求してきたトラブルは事実上なくなったのだ。

 しかし、金銭トラブルを抱えていたことを隠していたこと、借りれるものに頼って無自覚な小室家側に対する国民感情の火はますます燃えさかっている。そのような背景の家の人との結婚に、国費がこれから投じられる。借金問題で長年苦しんでいた小室家は濡れ手に粟ということに、週刊誌からの追求の目は鋭い。

 『人のモノ借りたるならば利がいるで 早く返済礼を言うなり』

 これは教祖(おやさま)のお詞であり、普遍的な真理である。借金は返すものであり、売掛金が回収できれなければ商人は生計が立たない。奨学金は返済すべきものである。住宅ローンは返さないといけない。400万円の借金はふみたおしのかたちになった。これから国費が投じられて、それで返済されるかもしれないが、それはもともと税金から来たものである。国会議員の収支報告書でも虚偽の記載が多く見つかり、岩井奉信先生(日本大学)も由々しき事態だとNHKで発言されていた。

 金銭は形の中でのもっとも明確な形式をとっているモノである。形の世界、有形の世界は一人でに成り立ったものではなく、その背後に目に見えぬ親神の無限の御守護、働きがあっての世界と人間である。人から善意の資金を当たり前のようにもらう、その賤しい根性に、国民感情の怒りがある。さらには神仏への感謝報恩の念が求められるが、小室家側にはそういった皇室ゆかりの精神性にそぐわないものがあり、これが感情の火に油を注げ根源なのではないかと考えられる。

 日本の皇室は世界最古のロイヤルファミリーであり、政治的権力でも財界的権威でもない。むしろ日本文化の精神的な統合原理をになうものとして、その精神的な永続性がその核にある。

  眞子内親王のこの愚かな問題の元は、秋篠宮家の問題であった。天皇家の次男坊としての本人の資質の問題にも起因している。紀子様との自由恋愛で結婚され、好き勝手ななまずの研究でタイ王室をひいきにするなどあった。無責任な次男は大嘗祭の国費を批判するなど、つまらぬ金銭問題で国威に関する観念に欠けている。悠仁様の帝王学にも財政支出を遠慮されるなど、将来・未来への視座に欠けている。家庭の治め方、家の問題は、両親の問題である。日本における家庭内の治め方が鏡として映し出されている。

 皇統の男子相続の歴史からは、悠仁様が未来の天皇候補だろうが、その育ち方が大問題となっている。天皇家の聡明な愛子様の女帝待望論も国民感情として高い。これはさらに根の深い皇室の継続に関する大問題である。  

 

 さて、地場の中山家の中でも、親がしっかり子供を育てていかないといけないことは明白である。

 

 三笠宮様二代真柱は大変に深い関係性にあった。皇室と地場の理との親縁な関係性は神様が守護する理の組織として、考察したいい。