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「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

 天理教では、教祖(おやさま)が直々にご教示された「おつとめ」=「かぐらづとめ、ておどり」があります。宗教人類学的には、儀礼(ritulal)の一種、通俗的に宗教儀礼とも言われてるものです。毎月、26日に天理教の教会本部の神殿で、その「おつとめ」が謹修されます。

 今は、コロナ感染対策から、一般信徒は神殿への入室が控えられているらしい。それでも、その日は、外から多くの信徒が囲んで、唱和しているそうで、それはそれは荘重で神聖な空気感が漂っていて、通常のゴミゴミした祭典の時とは異なっているらしい。

 

 「おつとめ」は「みかぐら歌」という歌と、9つの鳴り物の伴奏で構成されたなかで、「かぐらづとめ」は10人の人衆が甘露台を囲んで踊る。さらに「ておどり」は横一列に並んだ踊り手が、南側から甘露台に向けた北側を正面として踊る。その際、みかぐら歌は「よろづよ八首」と「12下り」の節がうたわれます。

 

 男性の鳴り物の太鼓・小鼓を演奏する際のガイドブック(『おつとめ鳴物譜 太鼓 小鼓』(天理教道友社、昭和11年))が国会図書館のデジタルに掲載されたので、ここに紹介します。

  小鼓(こづつみ)では、「タ、ポ、プ、チ」の4つの音が出せるが、天理教では「ポ」の音だけを利用する。その他、置き方、持ち方、打ち方なども8枚の写真で図示されています。男性の鳴り物で、写真の男性はおそらく、教祖伝の研究をして、今でも利用される『おてふり概要』の筆者の山澤為次氏かもしれません。太鼓と小鼓が同時に教示されているのが、この教本の特色で、男鳴り物で打楽器という特性が共通ということを暗示しています。 男性の鳴り物には笛もありますが、ここで掲載されていません。またみかぐら歌のすべてが掲載されおらず、一般化が難しい箇所だけのガイドとなっていて、逆に一般化できて演奏出る箇所が分かる仕組みになっています。現在の道友社の教本と比べて不親切な感じもありますが、より本質的な側面も出ているようにも思いました。

 

今では、道友社で「みかぐら歌練習譜 小鼓」は165円で入手できる。小鼓の扱い方に関しては、DVDも同じ道友社からあります。小松六三郎先生の40年以上前の動画が見られます。天理教音楽研究会の協力のもとで作成された動画で、昭和50年代頃の作成だと思われます。

小松六三郎先生は、2020年3月6日に出直されたそうです。先生の長年の御功績に感謝いたします。

 

 小鼓の置き方などについて、本部が作成したYouTube「鳴物教室 男鳴物」も参考になりました。梶本國彦(本部員、1931年生まれ)が出ています。今では本部員の中で最高齢の重鎮でしょう。音楽好きの本部員先生ですネ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 殺人は万国で倫理的に悪であるが、政府が合法的に死刑を温存している国が世界にはまだ多い。日本はその一国だ。授業で学生にグルーブ学習として死刑の合法性について議論させることを何度もしてきた。今回、200名近くいる学生をZOOMで4人の集団を作って議論させた。 だいたい、半々で、死刑が正当であると判断する学生が多い。特に殺人犯に対しては、応報的に死刑は妥当だという。

 最近のニュースで、シンガポールで薬物犯罪での死刑判決がZOOMによって決定されたことが、アムネスティによって報道された。死刑そのものが残忍であるというのが、この団体の主張である。キリスト教の思想が背後にあるかも知れないが、終身刑で働かせた方がよい、死ぬまで罪の償いをすべきであるという考えが、死刑反対の背後にある。

 日弁連によると、日本では死刑は絞首刑。3人の看守がボタンを押して、誰が執行ボタンを推したのかは分からない仕組み。医師が死亡を確認して、場を清めるらしい。おおむね、死刑の執行の時期、状況は秘密主義の中にある。神様から与えられた命、罪人、重大犯罪人といえども人の子である。死刑執行人たちのストレスは誰にも分らない。あなたはその仕事を喜んでできるだろうか。

 尊厳死、自殺は本人の自由意志であるが、死刑は自分以外の公権力からくる命令であり、いつ来るが分からない。冤罪の場合はなおさら、取りかえしがつかない。再審請求が難しい日本の司法制度の不備もあるそうだ。

  極悪人は死刑が必要か、改心させる宗教の力を信じるか。人の心を変えることは大変である。それでも宗教者の力量が問われる。教誨師の先生方はご苦労様です。

 

 

 

 父が出直してから、はや三十余年になる。私が小学校五年で、弟が三年だった。

 父亡きあと、母は父の後をうけてさらに十年間、苦難の中で六人の子供を育てつつ布教に専心した。その母も父におくれること十年、五十二才でこの世を去った。

 父と母も現在の結構をみることなく、ひたすら神一条に徹してスタスタと歩み去った。事改めて父母から何を仕込まれたという記憶はない。父母の生きざまがそのまま私たちの魂に刻み込まれている。私たちは親の後ろ姿をみて育ったのである。

 現在、弟妹たちも夫婦そろってようぼく(*3)となってくれている。

 中でも、すぐ下の弟は00の地で単独布教のまっさい中である。つねに父と母の面影が心を占めているに違いない。私たち兄妹はお道を信じ、教祖(おやさま)のひながたの道を身をもって示してくれた父母を心より誇りに思っている。

 中でも私たちの銘記すべきは、名誉にも地位にも財にも心を動かされず、あくまで人様のために尽くしたすさまじいまでのたすけ心である。

 教祖百年祭(*1)を迎えるこの旬に、わが家の信仰の元一日を思い、「白紙に戻り、一より始める」(*2)と仰せられる通り、信仰の真の復元を心に期して、がんばらせていただきたいと思っている。

 

クマッピーによる注記

*1:教祖百年祭とは1986年(昭和61年)

*2:「白紙に戻り、一より始める」とは当時の真柱である中山善衛から教祖百年祭に向けて打ち出された「諭達」に書かれてモットーである。当時この言葉が天理教でよく利用されていた、このフレーズからはいまだ何も実現できていないのが、今の天理教の悲劇です。真の復元を目指して、このブログに魂込めます。

*3:「ようぼく」とは天理教で、9度の別席を運び、神様から「おさづけ」をいただいて、人をたすける道具、「用木」(ようぼく)となっている人を指します。

 

追記:ここに書かれている短命だった布教師の父や母は、その後、この教会の後継者(今は会長)、また後継者の長女(数年前に天理大学を出て、航空会社に勤務中)に生まれ変わってご存命です。平成時代には立派な神殿も立っています。人間はいつか亡くなりますが、天理教では亡くなることを「出直し」と呼称しています。なお上記の文章の筆者やその弟さんは今では、出直しています(令和3年1月20日現在)。

 永平寺の修行は800年以上続いているだろうし、日本に定着した禅の気風は時代を超えて、深い霊性の伝統を形成している。たまたま国内の仏舎利塔の現状について調べる中で、光地英学先生の『日本の仏舎利塔』(1986年)を学会で教えてもらった。光地英学先生は、駒澤大学仏教学部名誉教授で、学者兼僧侶だと分かる。そのお弟子さん(角田徳明住職)は、もともと在家ながら仏教学部で学び、光地英学先生のもとで修業もして、出家へと至る。生前戒名を授かっており、仏教者としてもご立派である。

 

 

 

NHK歴史秘話ヒストリアで、令和3年1月13日は、「1000年愛され続けた天神様 菅原道真」でした。道真に関連する場所を徹底的に調べた内容で、力作の内容でした。いつもNHKさんの報道を楽しませてもらっています。ただ一面的な視点で分かりやすく報道しているので、関連情報を補って考察したい思いました。今年は丑年、牛(うし)の年なので、菅原道真も愛した牛に関連して、天神信仰そのものを簡単に考察してみたい。

 菅原道真[845-903]が亡くなった後、京都で不吉なことがあり、道真の霊を弔うために、北野の天神社が947年に創建された。立てたのは神職や僧侶であっったことが北野天満宮のHPから分かった。祟りを恐れた藤原氏によって社殿が立派に造営され、一条天皇から「北野天満天神」の信号を与えた。

 北野の地はもともと「三辰信仰」の聖地で京都御所を守る乾の方向の地にあった。ここに「天神信仰」の発生の由来があり、「三辰信仰」(星や太陽、月を信仰する習俗)と、学問の神の信仰が折衷したシンクレティズムが生まれたらしい。

 だが、天神の神号は、北野が先ではなく、むしろ道真のお墓に建てられた、大宰府天満宮(福岡県太宰府市)が先である。すなわち919 年に勅命によって立派な社殿が作られ、その後「天満大自在天神」の神号が朝廷から送られたという。おそらく、天神という名称が福岡のほうが先に、送られたかも知れない。

 現在、両宮とも天神・天満宮の総本社・総本宮は、自宮だと主張されているが、どちらもそれなりに由緒も歴史も古く、甲乙つけがたい総本社だろう。正式には以下のようにお互いに自称している(2021年、1月18日のURLによれば)。

 「北野天満宮は、菅原道真公を御祭神としておまつりする全国約1万2000社の天満宮、天神社の総本社です。」(京都)

  

 

 

 「大宰府天満宮とは 天神さま(菅原道真公)をお祀りする全国約12,000社の総本宮と称えられ、」(福岡)

 

 

 ここでいう総本社・総本宮とは、本家・本元、元祖を意味して、そこから全国への勧請されて、各地の天神社の元になった神社という意味である。 例えば、宇佐神宮(八幡社の総本宮)、鹿島神宮、香取神宮、住吉大社、伏見稲荷大社、厳島神社などが総本社として有名である。

 おそらく、勧請された本宮としては北野が地理的に圧倒的に多いのだろう。九州方面では大宰府天満宮が多いかもしれない。これはだれか神道学者の研究に期待したい。すでにその比較研究が神道学会などであるかもしれない。

 ただWIKIによれば、2つの総本社として確立されているようだ。

 ついでに私の考える日本3大天神として、「湯島天神」を加えたい。3つ目は、歴史的にも「三大天神」として各地にあるようだが(WIKIの「日本三大天神」)、関東方面で暮らす私には、「湯島天神」がもっとも著名である。これは江戸が日本の中心となり、幕府からも厚く尊崇されたのが湯島天神であり、近くの湯島聖堂が学問所としての地位を確立したことにも関係する。神田明神や東京大学からも至近の神社である。

 正月には地下鉄の千代田線湯島駅から、神社まで大行列のできる神社です。参詣するのに、3時間、4時間待ちの大行列です。今年は、湯島天神の鉛筆を持参できた受験生は圧倒的に減りましたが・・・。おそらくコロナの影響で。

 

 こちらの湯島天神が天神の由来について客観的に書かれている。以下参照。

 

 

牛と天神との関係について、以下のアメーバブログで人気No.1の白川葵さんは以下のように述べています。

 

 

 

 息子たちと同世代の子供たちが育って、今年大学入試の一環で共通テストを受験しました。土日と試験監督した私は感慨深いものがあり、一文を草します。息子が生まれたころ、勤務校の大学がセンター試験の会場となり、私はセンター試験本部員として関わり始めた。リスニング試験の導入が始まったので、その試行テストが夏ころにあった。同僚の教員がICレコーダーをフロアに落とすハプニングもあり、ひやひやした。そして、本番の試験では、ICレコーダーの機器の故障などトラブルに対する対応のマニュアルが年々増大していった。実際に現場で試験監督する中で、初日の英語のリスニングの対応が最も神経過敏となる時間であった。今年も同様だったが、1台も故障がなかった。よかった!。本番前に必ず説明の開催が各実施会場の大学で義務化されているが、途中からDVDの映像も始まった。本部員や即興で教員が前に出て模擬練習もする。機器のトラブルの際、時間はいつか、止まった問題の番号は妥当かなど、細かい用紙がある。

 内情をばらすとことは法令に禁じられているので、概要しか言えないが、これでも注意があったらすみません。

 いつか子供もセンター試験を受ける日が来るだろうと、想像をめぐらしていたが、17、8年たってその日が来ました。今期は共通テストも名称も変わりましたが、同じタイプの試験で、マークシート方式で試験マニュアルは従来通りだった。英語の試験は発音や単語の試験はまったくなくなり、実用文の読解が中心に。スマートフォンの画像でメッセージのやりとりなど。国語は昭和の随筆とその評論という文章で、かなりの読解力を問う設問でした。

 目の前の受験生を見ながら、この子たちも赤ちゃんから生まれて、よくここまで育ってきたなーと思いました。どうしようもない子供でも、何とか育ってここまで神様にお連れ通りいただき、この試験の日を迎えられました。そんな些細なことですが、いたく心に感じられて、一人感動して、妻とも語りました。

 数学の試験では、開始前に補足説明用紙を裏返した受験生がいて、私は怒鳴って「裏返していけません」と声を張り上げてしまいました。場が一瞬でシーンとなり、200名はいる教室の雰囲気は氷りました。あまり叱られたことない世代で、本当にすません。昭和生まれのお父さんはすぐに激高してしまいます。 

 何はともあれ、受験生の健闘を祈ります。

 

 アメリカのトランプ大統領が自分の支持者たちを煽って、過激派保守主義の人たちが、議会開催中の議事堂(Capitol Hill)を襲撃した事件が2021年1月6日にありました。その罪を厳しく問われたトランプ氏は弾劾訴追(impeachment)を受けることが決定した。それも史上初2度目(『朝日新聞』1月15日1面「トランプ大統領 弾劾訴追」)。議会が襲撃中に、共和党の議員が大統領に電話して、襲撃を止めるように電話したにも関わらず、本人はテレビの生放送にくぎ付けになって楽しんでいたという(同「トランプ氏 重ねたあおり」)。煽った挙句に、止めることもせずに、確信犯的に議事堂襲撃を容認したのがトランプ氏である。副大統領のベンス氏が議会で議長として次期大統領の指名を決定しいたわけだが、その行為を批判したのもトランプ氏であった。

 何か悪い結果をもたらすことを唆(そそのか)してさせることを「煽る(あおる、agitate)」と定義する。この用語を使って、天理教の歴史での一大エポックである、元治元年(1864年)の「大和神社事件」(おおやまとじんじゃ・じけん)を再考してみたい。

 大和神社について:「やまと」はこのあたりの地名から大和国へと広がり、日本国の旧称にもなった。 「大和は豊年や」(みかぐら歌一下り目八つ)

 

 

 結果として、この事件はある程度の規模の信徒集団が築かれつつあった天理教という組織にとっては危機的な事態を生んだ。すなわち、この事件を契機として、信徒集団が雲散霧消してしまった。その後、9年間にわたり、飯降伊蔵お一人のみがお屋敷に通ったという史実が「話の台」としてストーリー化したのである(明治31年8月26日の『おさしづ』にもこの史実をとり上げている)。

 始め掛けた勤め場所の普請に関わる金銭が最大の負債として残され、戸主である中山秀司さんは気をもまれた。それは一人飯降伊蔵が背負って、瓦屋や材木屋などと交渉したことで治まったという(教祖伝ではなく、本席のお話、伝記記事などから調査必要)。

 事件の理解として教科書的には、永尾教昭氏(現在の天理大学学長)が2004年秋の神殿講話(ヨーロッパ出張所長時代)で語ったことが残されていて、参考になるだろう[

 

 

]。

 また深谷忠一先生の論説も参考になる。

 

https://www.tenri-u.ac.jp/topics/oyaken/q3tncs00000tnsrc-att/GT184-Fukaya.pdf

 

 悪く言えば、教祖が信徒を煽って、わざと大和神社の前で「つとめ」をさせて、鳴り物を鳴らしたことを容認したのである。神道界の大物である守屋筑前守がたまたま祈祷中であり、事件は起きるべきしておきたのであった。教祖は見抜き見通しで、守屋が激怒することは想定内にあったはずだ。教祖はあえて、大和神社の前で「拝をせよ」と語った。これは何も伝統宗教である既存の神道に敬意を示せというよりも、挑発をすることに含意があった。天理王命という一神教を奉じる教祖にとって、既存の伝統宗教は前には聳える大きな山々である。

  貧のどん底を歩むなかで、信徒らしい信徒も皆無な日々が長く続くなか、ようやくにして思惑の大工であった飯降伊蔵が元治元年に現れた。伊蔵は妻が助けられたことが本当にうれしかった。そして大きな恩義を感じていた。そして、そのお礼として、同じ年に勤め場所のふしんが始まった。そのお祝いとして、中山家だけでなく(このお祝いはお里さんが帯を質屋に行って賄ったともいう)、山中忠七宅にも呼ばれて行った。そのお祝いをしようという中で、大和神社の前をとおったのであった。

 ここでは信仰における精神の在り方が根本的に問われたのであった。無形の神を信じれるか、目先の形である金銭や地位を尊ぶか。自分に不都合があったとしても、神様の絶大な守護を感じることができるか。コロナ感染が世界が真っ暗な中で、神様の絶大な守護を感じて日々を喜べるか。

 事件が信徒に与えた精神的な危機は絶大だった。伝統的宗教の権威者の逆鱗にふれ、近くの宿に拘留された。新しい信仰を否定され、辞めるように請状も書かされた。さらに罰金も支払った人たちは、教祖に助けられたことも忘れて、ほとんど信仰を辞めた。これは普通の人間の姿である。しかし、飯降伊蔵だけは違った。信仰を辞めますと表向きは請状を書いても、彼一人はその後9年間誰も来ない中で、お屋敷に通い続けたのである。おそらく資産家で地位もある山中忠七でさえも来なくなった口であろう。 

 目に見えぬ神の絶大な守護を感じたからこそ、飯降伊蔵は信仰を持続させることができた。それは後の本席へとなる真実の精神の発露である。「かしもの・かりもの」を守護する神がいて、その神が教祖を通じて顕現されていることを、彼一人だけが信じていたのである。

 このような細い道、一人の真実の道が道として続いて、その後の大きな道に続くことを忘れてはならない。数だとか、形が大切なことはではない。目に見えぬ神を神として信じることができる心の誠が問われている。その誠の心の在り方の試験問題として、大和神社事件の節を神様は教祖を通じて与えたのである。  

 教祖の「ひながた」は教祖一人で完結するものではない。教祖と関係者という組織の中で、ひながたは形成されるのである。教祖の娘のこかんさんも不足したこの事件は、信徒を振り分ける恐るべき神の手段と言わざるを得ない。

 

 隣村に村中(むらじゅう)天理教に猛反対という村があった。そこに関節リュウマチの男の人がいた。家族も看病疲れで世話を焼きかねていた。父はそこへおたすけに通った。

 体を洗ってやったり、髪を刈ってやったりしながら、親神様のお話を取り次ぐ。家人は村人に気兼ねして、お茶も出さなかったという。

 そのうちに、病人はみかぐら歌を覚え、親神様の理を聞き分けるようになった。いつも寝ながら、みかぐら歌を口ずさみ、家内中に身上(もみじょう)、事情があると聞いたような話をするのであった。それが不思議と図星となって、家内中もたすかり、はては、親戚の人たちまでが、お話を聞くようになった。のちに、村中の一族四十数名のようぼくを授かる原動力となった。

 昭和二十七年二月のある晩、若い母親がみどり子を抱えて駆け込んできた。肺炎のために子供は虫の息だった。医者から絶望を宣告されたので、わらにもすがる思いで駆けつけてきたというのである。

 この時の父のおたすけもすさまじかった。二月の00県の最北端は、太平洋から吹き上げるヤマセで、身を切るような寒さである。何回も何回も水をかぶり、夜遅くまで十ニ下りのお願いづとめをした。子供心にも合掌したくなるような後ろ姿だった。

 まもなく、みどり子は地名をとりとめた。祈る者も祈ってもらう者も感動の涙にかきくれていた。

 三十年以上たった今、そのときのみどり子も立派な母親となり、二人の子供まで授けていただき、お道のご用の上につとめてくださっている。

 その年の三月五日、父は出直した(注:亡くなった)。肺炎だった。医者の診察をかたくなに断りつづけていた父だったが、危篤状態になったので、母は医者を呼んだ。父は大きな目を見開いて、なじるように母を見た。でも、医者の口から肺炎と聞いて、なぜかほっとしたようにうなずき、そのまま眠るようにして出直していった。父は肺炎と肺結核を別の病だと解釈していた節があるので、違った身上で出直しできれば、いんねんが替えられたと思っていたようである。享年四十二才。

 

<つづく>

 

 ある日、父は病院から重病人を背負って帰ってきた。肺結核で毎日寝汗を拭いてあげていた人だという。聞くと、いつもおたすけに行く人のところと部屋をまちがえたのだという。相手はびっくりして、

 「なにしに来た?」と問うた。

 「私は人をたすけて歩く人です。」と答える、その人は、

 「私もたすかるか?」と聞いたという。それから少々のやりとりがあったのち、そのまま病院から背負ってきたというのである。

 その人は、さっそく修養科へ入学したが、三か月後には元気な姿で帰ってきた。彼は元気になった身体(からだ)を見せに、真っ先に入院先の病院長を訪ねて、お道の匂いがけを始めたという。

 父はその後もときどき重病人を家に連れてくることがあった。かつての日、先輩が自分に示してくれた誠真実の愛情を決して忘れてはいなかったのである。

 またある時、三里あまり離れた山の村に、掘立小屋に一人住んで生芋や泥だらけの野菜をむさぼり食べる人がいた。

 父はその人のところへも、熱心に通いつめた。父は一度おたすけにかかると、どうでもたすかっていただくまでは手を緩めぬ人であった。

 その方は、御守護をいただき、村人たちを集めて、毎月お祭りをした。通りがかかる人びとを誰彼なしに呼びとめては、自分の助かった話をした。

  そういう彼のもとに村長や校長先生までも訪ねてきたという。

 

<つづく>