「天理教」は宗教か、真実の教えか -18ページ目

「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

<天理教の立教:神と人との組織化 原初形態>

 10月26日という日は、天理教が始まった日として永遠に記憶され、もっとも重要視される日とされる。それは、この日に、教祖の天啓が夫の善兵衛に受け取られた日なのである。実は天啓そのものは、10月23日から始まっていたが、神人問答が繰り返され、飲まず食わずの教祖の肉体が限界となるなかで、主人が妻を「神の社」として承諾したのが10月26日である。いわゆる立教の元一日とよく言われる。

   神の一方的な啓示があったとしても、それを受け入れる人間側の都合があり、神と人との相互のコミュニケーションの中で、互いに他を認めるというプロセスがあることが大切な観点である。

  教祖一人だけでは、単なる狂人として扱われる。しかし、夫や子供たちという親密な相互な人間関係のなかで、啓示現象が受容されることが大切な点である。 夫が受諾しなかったら、おそらく天理教は立教せず、中山家は滅亡していたはずである。

  女性が始めたのは確かだが、それを受諾した男性がいたこと。この人間関係の組織の中で、この道という広がりの基礎がまず構築されるのである。

 啓示は教祖の肉体を通じて常に下され、それを受け入れないと中山みきの身体が病気に陥るという中で、貧に落ちきる道が進行した。まさに、肉体は神の貸しもの借り物の理が、みきの肉体を通じて現実的に実証されていくのである。

 

<教祖の死、二代目の天啓者の決定>

 教祖の50年の道中があり、教祖が亡くなる。天理教では現身を隠されるという公式的な表現で言われる事態である。肉体的な教祖の死は、信仰共同体の最大の危機であった。かかる中で、高弟の飯降伊蔵にすでにはじまっていた啓示は激しさを増し、真柱が呼び出される。しかし二か月たって、ようやく本人が伊蔵の前に来る。その際、本席として受け入れるかが問われた。そこで、真柱がお受けしますと受諾した。 伊蔵の肉体も神が借りて、刻限の啓示が持続していたのである。刻限話は、伺いではなく、神様からの能動的な発言である。それは伊蔵の人間心から発言ではなく、神が伊蔵の肉体を借りて、話しているのである。借りものの肉体を神が自由用しているということである。

  神に絶対的に帰依した唯一の信仰者として、伊蔵の肉体とその精神は神の心に叶ったのである。 

 

<異端化された茨木事件>

  明治44年から、北大教会の旧会長であった茨木基敬さんに神の御用が始まった。本人が本部員となったと同時に病気となり、本部の仕事ができなくなる中で、三島の北大教会の詰所において、神がかりの現象が起きたのであった。それは、神が茨木氏の肉体を借りて起きている啓示であり、本人の意思を超えたところからの力からくるものであった。

 その神の言葉とされる発話体の肉声は、やがて筆取りの仕組みが整うなかで、大量に書写されたものである。大正2年から5年にかけて膨大に残されいるが、これらは地場の声であり、本来なら地場の管理者である眞柱や本部員に対して発話されたものである。

  本席亡きあと、百日さしづによって、10年先のことが遺言として残されていた。本席からは、次の機械(啓示者)が誰であるのかの指名はなかった。ただ、さづけ一条という神意の取次(上田奈良糸)はぎりぎり継承できていた。

 本部員である茨木氏から啓示が続き、そのお詞(ことば)が本部員たちにも伝えられた。お詞に接しながら、その理を受納できなかったキーパーソンたちも出直すという神様から分かりやすいメッセージもあった。

 

<北分教会の勢力を恐れた本部とその処分>

しかし、最終的には松村吉太郎の豪胆な決断によって、茨木氏の言葉は、高慢から出たものとして、罷免されることとなった。松村の決定を促したのは、真柱の未亡人の御母堂様(中山たまへ)の意思でもあった。 

 

 今の天理教でいう、茨木事件である。 茨木基敬氏の免職と同時に、本部側ではおさづけの運びが止まる。上田奈良糸様によって行われた聖業としておさづけの運びが止まる。 これは天理教にとって一大事であり、その対応のあり方が、天理教の人為的な制度化を作ってしまう。  

 

 本部員会議、御母堂様(中山たまへ)が、おさづけの運びを始める。  

 これは神意によらない、人間たちが決めたおさづけの制度化の始まりであった。

 

 会長の基忠氏も罷免、財産もすべて没収された。北大教会の部内はかなり多く、後始末として、麹町大教会、大森町大教会、豊岡大教会、池田大教会、岡山大教会、淀分教会、栗田分教会、青野原分教会など・・・・。北大教会の部内教会は本部直属の教会に分離された。茨木氏に恩顧のあった多くの部内の有力者たちも本部側についた。そうした元幹部がその後どうなったのか・・。

  当時の本部が最も恐れたことは、巨大な北大教会が天理教の本部から独立した宗派を起こすことであった。それほど大きく、多くの人たちが救われていたということだった。

 

 新たな神意の発現に従うか、それとも既存の本部・地場の古参幹部、中山家に従うか?

 

 ここに存命の教祖の声を伝えるとされる人間はいなくなり、教祖存命の理の形骸化が本部内で形成されていく。

 

<残された天啓書の研究が待たれる>

  茨木氏が残された神の詞とは何か。聞くべき本部員・真柱に出された詞とされるが膨大に存在する。

 

 少しずつですが、学術的な場で公開して参りたく存じます。

 

 2024年にお地場で日本宗教学会が開催され、お地場でこの問題について報告させてもらいました。

 

 前生において、本来なら受け取らねばならなかった神の詞です。今生でしっかり勉強し、我が魂の教育の糧としなければなりません。これは私の天命です。

 

前生では因縁から51歳で出直しました。しかし、今生では、すでに10年以上寿命を延期させていただきました。存命の教祖ありがとうございます。  

(2025.8.17 筆記)

 

 神の機械となった茨木氏の詞には、「機械」という用語が頻出し、大きなキーワードとなっています。  

 

 教祖(おやさま)が、既存の他宗教をどのように理解していたのかは、興味深いテーマである。僧侶や神職、山伏などの既存の宗教家が論難しても、教祖は常に堂々と、この世の元始まりを知る根源神の立場から、滔々と理の話をされ、誰もが説得されてしまったことは『稿本教祖伝』を読んでいる人なら、だれでも知っている。

 さらに中西(1929)によれば、以下のような興味深い話も書かれている。典拠がどこか不明で、誤った伝承かもしれない。しかし著者が捏造したストーリーではないと思われるので、ここで紹介する。

 

 『神の実現としての天理教』(中西牛郎、昭和4年)の、「第2章 教祖、第2節 教祖の教育及び其の結婚」のp.66-67に以下のように書かれている。

 

 浄土教を信じ給いたる教祖が、何故に他の多くの神仏を信じ給ひたるか。此の二個の疑問に対する解答は、左の如しである。

 「この世は文殊普賢を始とし、馬鳴、龍樹、天親も、南岳、天台、四明も皆これ浄土に期し給ふ。況んや我らは愚かなる、如何に願はぬ ありぬべき。三千世界をおいてぞ、たしかに清浄見定めて、心得違いのなきやうにせよ。」

 

  とは是れ明治15年4月、即ち教祖85歳の時、松村吉太郎氏の尊父榮次郎氏が地場に詣りし時御発表になった神諭である。

 

同じ文章がカナ書きで、『高安大教会史:上巻』(p.41)にもあった。『おふでさき』17号外の天啓とも書かれている。

 

「このよふは、もんじゅ、ふげんをはじめとし

 めうなりうじんも、てんじんも

なんがく、てんだい、ようめいも 

 みなこれじよどへ、ごしたまふ、

 ゆわんや、われらはおろかなる

 いかにねがわにありぬべし

三千世界をおいてぞ

 たしかに、しようじしようみさだめて

 こころちがいの、なきやうにせよ」 

「これは教祖が元、浄土信仰をして居られた関係から、其信仰の系統にかこつけて、お道信仰の理をお示し下されたものであるが・・・・」

[『高安大教会史:上巻』(p.41)]

 

 この神諭こそ前記の疑問に解答を与へ得るの鍵ではなかろうか。

 

 教祖は、昨日も書いたが、浄土宗における奥義をある意味19歳で極め、さらに他の神仏に救いを求め続けながら、人間は願うばかりの人間であると。そして真実の神を見出した己の信仰心を榮次郎に語ったものである。

 その息子の松村吉太郎こそは、世俗社会に適合した天理教の教団体制を構築した張本人であり。そして大正時代になって茨木事件に対処した実力者となった人である。

  この問題は別項にゆずるとして、教祖の仏教理解のレベルがかなり高かったことが伺えるエピソードである。

 有神論的仏教とも中西は解釈している。浄土宗は弥陀への本願こそ救いの源泉であり、修行そのものを否定し、他力信仰をとった。

 

 仏教については、勉強不足なので、これくらいにする。

 次にキリスト教徒を教祖はどのように理解したのか簡単に探る。

 

 『神の実現としての天理教』(中西牛郎、昭和4年)の、「第2章 教祖、第4節 神憑と試練」のp,79に以下の説明がある。

 

  教祖の御晩年に、或る人がキリスト教の十字架を持って来て、これは何でありますかとお尋ねしたら、教祖答へて、それは完成の意義であると答へ給うたことがある。

 

 中西の解釈では、十字架=十柱の神の象徴である。キリスト教は天啓の教えの預言で、キリスト教こそ天理教に属するものであって、天理教はキリスト教に属するものではないと解釈している。歴史的な大伝統のあるキリスト教の啓示は天理教の前触れであるという見立てであり、クリスチャンからすれば、とうてい容赦できない異端の思想となろう。

 十字架=十柱の神の象徴とはこじつけにも聞こえるが、天理教が一神教で、ユダヤ・キリスト教と酷似していることは確かである。明治期にはいって、キリスト教の禁教が解け、西洋化・英語教育とともに日本国内に広がったことは確かだ。しかし、教祖がキリスト教の宣教師から影響を受けた史実は残っていない。

 「完成」という言葉で、キリスト教をかなり、高く評価していたのではないかと推測される。天理教とキリスト教との正式な宗教間対話が学者によって、近年なされた。これは『天理教とキリスト教の対話』(天理大学出版部、1998年)に詳しい。

 ローマのバチカンにあるグレゴリアン大学で、天理教の展示がなされ、宗教間対話のシンポジウムがされた。教祖生誕200年に記念にあたり、天理教がカトリックの本山で、自己展示したという話である。天理教の教団として大変誇らしく感動したことが記載されいている。

 第2バチカン公会議以降、他宗教との対話、プロテスタント教会ともエキュメニズムへと方針転換したカトリック教会である。日本の多くの教団の代表も教皇との接見を誇りにしている。桐山さんも天台座主も・・・。

 宗教者同士の協力に悪いことは無い。キリスト教の啓示と天理教の啓示の比較宗教学の構築は、学問的課題となるだろう。神秘主義に詳しい、東大の渡辺優准教授に詳しく探究をお願います。

 

中西の著作については、国会図書館でも読めます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天理教教祖・中山みきが、幕末の天保9年(1838)10月26日に「神の社(やしろ)」であることを夫の善兵衛が受諾したことで、御年40歳の女性による新しい宗教が立教したことは何度も繰り返し記憶されている。幕藩体制が瓦解していく中で、国際社会の脅威から攘夷運動がおき、倒幕運動へとなり、30年先には明治新政府が樹立される。

 幕末から明治初期の激動期を生きた、女性の宗教家の中山みきの生涯のうち、特に天啓が起きてからの40歳から、御身を隠される90歳(明治20年正月二十六日)までの50年間の宗教者・信仰者としての人生が「ひな型」と呼ばれて、信仰者が規範とすべき人生の生き方を示されたことになる。

  五輪委員会の会長、森氏による女性差別の発言が問題となっているが、女性も含めた人間精神の解放を唱えた先駆者が、教祖(おやさま)である。

 ただ、「神がかり」が起きるまでの40年間の農村の主婦としての精神的遍歴も十分に検討しないと、正しい教祖像を把握することはできないだろう。

 40歳で神がかりになるまでに、大きく分けて2段階の精神的遍歴があったと思われる。これは『私の教祖』(中山慶一、道友社、昭和56年)の記述に詳しいが、大まかにいえば、以下の2段階だと推断する。その分水嶺となるのが、19歳での高度な宗教修行である。

 Ⅰ. 「南無阿弥陀仏」を、日々に欠かさない念仏者の姿。

   <19歳で善福寺にて浄土宗の五重相伝を5日間受ける>

 Ⅱ. 浄土宗以外の民間信仰に救いを求める。特に、教祖が31歳(文政11年)の春、足立照之丞(源四郎と改名)のおたすけにおいて。

     奈良の二月堂の観音、稗田の弘法大師、武蔵野の不動明王・・・三年三月の月参り

     石上神宮

     地元の氏神、春日の社(三島神社・・・本部の東礼拝場の東側の敷地にかつてあった)・・・はだし参りの願掛け

 体が弱かったが、農家の仕事に専念され、いわゆる山本七平のいう、『勤勉の哲学』という日本教を実践されていた。「働くということは、側々(はたはた)を楽さすこと」という精神世界である。勤勉の美徳が、日本教であり、日本国民にしみこんだん勤労精神が宗教になっているという論理である。

 普通の人間以上に働き、信心も極める中で、浄土門の伝統に安住できず、さらにそれ以外のあまたの神社・仏閣に祈念(神仏混合とも中西午郎(昭和4年))を続ける中で、照之丞の救済に利他心の限りを尽くしている。人様の子供の命を救うため、自分の子供の命、さらには自分の命も捧げようと自発的な誠心を発揮された。そしての実際に彼女の心通りに神は守護され、自分の子供の命が犠牲となって、照之丞は救済された。

 天の将軍は、天保9年を待ちながら、みきのこうした自発的な宗教心を見定めて、約束の年限が来るや、真実の神がみきを使い始めたのであった。

 40歳での突発的な神がかりの事件で、宗教者への変容したのではない。そこに至るまでの深い精神的遍歴があり、神の目に叶った精神的深みにみきの心が至っていたと思わずにいられない。人間に肉体を貸している、人間は肉体を借りている。そうした普遍的で根源的な神を求めていた中山みきにとって、親神からのご啓示は本人が求めていた至高の精神世界が開かれたということである。

 浄土宗や既存の仏教・神道を遍歴しながら、ついに天直接の啓示という思わぬ方向から神様と直通できたことに、彼女は驚き、歓喜したことであろう。しかし、世界で唯一人だけ、神を知ってしまった彼女の信仰者としての苦難の人生がその後、50年も続くのである。

 

*地福寺は今の天理市にあり、市内には浄土宗のお寺が多いそうです。地福寺はもともと、中山家の菩提寺でした。五重相伝は今でも8年おきに施行されているそうです。

 

 

 

 

 

 東京都足立区に真言宗の巨大な寺院:

 

 

があり、地域でも厄除けの西新井大師として有名です。コロナの厄除・疫病除けも祈願したいですね。ここは関東の高野とも呼ばれていて、真言宗系のかなり歴史のある寺院で空海の図像など寺宝も多いお寺の様でした。東武伊勢崎線には大師前駅への支線もあります。車で行くと、環状7号線からも近く、便利なところにあります。
  こうした神社・仏閣は霊場とも呼ばれて、長年の宗教的伝統が今にも息づいおり、参詣してもすがすがしいものを感じます。
  このお寺の境内地の北東の角地に、出世稲荷明神が鎮座しておりました。不思議に思い、記録に残します。稲荷信仰は伏見稲荷を総本社として、全国津々浦々に独立した神社として稲荷信仰が普及しています。しかし、仏教寺院とのこの不思議なつながりについて、合点が行きました。真言宗の開祖、弘法大師空海と深い関係があったのでした!こちらは真言宗豊山派の巨大寺院です。
  こちらのブログも参考になりました。紹介します。
 
 
 
 

天理教では飯田岩次郎の異端事件として飯田さんは扱われていますが、この文献を読んで、大変おもしろかったので、改めて紹介します。 御水屋敷並人足社略伝

 ここでは、飯田岩次郎と教祖(おやさま)・中山みきの対話が生き生きと描かれていました。飯田家は天理教の伝道史の中でも、かなり初期の信徒であることは確かです。飯田岩次郎は教祖のことを老婆と呼んでいました。これは、教祖の長男の秀司さんも、「老婆」と呼んでいたことを彷彿させます。二代真柱によって、教祖の神格化が異様にされて、教祖が遠い存在に行ってしまいました。しkし、ここでは生身の教祖の姿が感じられました。

 老婆の教祖は岩次郎を「おじさん・おじさん」と親しく呼びます。これは教祖には、自分の前生において、岩次郎が自分のおじさんとして、大変可愛がってくれた大変良い思い出とご恩を感じていたのでしょう。おじさんは人当たりがよくて、浮世離れしていて、雄弁で頭も賢くて、とてもやさしくしてくれのたでした。それで誰にでも公平なはずの教祖ですが、岩次郎には特に御贔屓であったことがここから分かりました。

 教祖は前生という人の魂の歴史が見えました。これは教祖の特異な能力でした。

 私たちは、前生(the life before)・今・来世(the life after)という大きなパースペクティブで自分の人生、人の人生、そして人間関係の連鎖を考える必要があります。

 前生にお世話になった人に対して、今生でなんとか恩返ししたい、また親しくしたいというのが人情でしょう。前生での夫婦は今生でもまた出会って深い関係になることが当然考えられます。そのように魂の再配置を神様はされています。

 教祖は普段はお屋敷に暮らしていますが、リモートワークはできません。遠方に出張することが実はありました。特に安堵村の飯田家には長期滞在までして、その救済の拠点にもしていました。そこの井戸を使って「お水のさずけ」も与えていて、実際のこの水を飲んで岩次郎から与えてもらって救済された人たちが多くいたのは史実でしょう。

 飯田家を信仰に引き付ける最大の要因は、病気でした。これこそ神が人に「かりものかりものの理」を分からす最大の根源です。健康な肉体で、コロナなどなければ、日常の生活をおう歌できます。しかしひとたび病気になり、医者も薬も効かないと、後は超自然の神の力に祈願するしかないでしょう。天理教の初期信者の99%は肉体的異変から引き寄せられたと思います。

 何度も何度も病気になって、岩次郎はお屋敷に教祖に伺いにでます。教祖からおもちゃももらっています。子供の頃から何度も救われて老婆が大好きになった岩次郎でした。 その岩次郎が若者になって、京都・大阪へ遊びに行って帰らなくなります。大阪の道頓堀か京都の先斗町(ぽんとちょう)か知りませんが、豪農の飯田家の資産家マネーで女郎買い・酒池肉林の遊び放題。両親は健康で、人に危害与えないならいいだろうと、親戚の心配にも耳を傾けず。 それでも教祖は見許しているのです。 これは「人間の心の自由」を神が保証し、神でさえも一時は見許すという側面があること証明しています。貸した肉体を守護する神なら、病気で止めることもできだでしょう。しかし、本人は遊びたい、働きたくないという心の強さがあるので、それを無理に止めないです。ここに教祖の深い親心を感じざるを得ません。

 また周囲が結婚させたいと思って、教祖に伺い、これも「ちょっとしてみなさい」と許すのです。しかし岩次郎の放蕩は続き、実はすぐに離縁してしまうのです。このように人々の思いを実現させるために一時的に人間が許される行為もあるということが分かります。離婚は絶対にいけないというような教えは天理教にはもともとありませんが、神が見許す許容された世界がひろがっていることを感じました。

 その後、岩次郎に再度、縁談があり、これは成功しました。 

 『おさしづ』では縁談の伺いも多くあり、成功・失敗の事例も入れて考察が必要です。  

 

 

 首都圏などでは緊急事態宣言が延長される中、ステイホーム、巣ごもり需要の増大が世の中の動きです。外出が不自由の中、家庭内での自由をもとめるという人間行動の本質が現象化している。私たち人間は自由を求めて生きる。何かを実現することの自由、社会のために、人のために何かをしたいという自由。目に見えない新型コロナの感染を恐れて、また他人に移すことを控えるために、外出制限が求められている。日本人の多くは素直にそれに従うのはわが国の美しい国民性を表現している。

 人間は生きている、生かされている。目に見えない大いなる実在としての神が、人間に肉体を貸していている。人間は肉体を借りている。

これこそが、教祖中山みきが生涯をかけて教えた真理である。グローバル社会全体が今、このパンデミックの対処に苦慮している。地球規模の神様からのお仕込み(教育的なメッセージ)である。渋沢栄一が「天からの譴責」と関東大震災の時語ったが、それにも類似している。

  普段の自由な行動が制限されている。非日常的な事態が1年も続いている。キャンパスに入れない。留学が取りやめになった。売り上げが激減した。解雇された。家賃が払えない、ローンが返済できない。家を手放した。引っ越した。皆が難儀の中にある。

  普段の日常を取り返して欲しい。コロナが憎い。医療従事者を励まそうと100歳の老人が募金を呼び掛けた100周の車いす徒歩を慣行し、イギリス国民を勇気づけ、サーの称号も授与され、亡くなったことが大きく報道された。

 かしもの世界である今の悪環境や己の肉体など形の世界は、人間の自由の中にはない。これが真理。

 しかし、心はどこまでも自由。不足するか、ピンチをチャンスをとらえるかははあなた次第の心の自由がある。信仰の逆説はまさに、この教えという真理を受け入れることで、逆に真の自由を獲得し日々の守護を喜ぶ陽気暮らしへの道を歩む。これは心通りに守護する、第2の神様からの真理と直結する。

 単なるクラウドファンディングを超えて、メーカーのテストマーケティングができるプラットフォームを作ることに成功したMakuake(マクアケ)(中山亮太郎社長)の事例は、心通りの守護の世界を示している。志の高さがあり、共同する仲間がいて、その新しいビジネス・モデルは実現化した。そのビジネス成功の形は、彼らの誠を心に応えて神様が守護されている。

 

 

 

 

 

 天理教では、教祖(おやさま)が直々にご教示された「おつとめ」=「かぐらづとめ、ておどり」があります。宗教人類学的には、儀礼(ritulal)の一種、通俗的に宗教儀礼とも言われてるものです。毎月、26日に天理教の教会本部の神殿で、その「おつとめ」が謹修されます。

 今は、コロナ感染対策から、一般信徒は神殿への入室が控えられているらしい。それでも、その日は、外から多くの信徒が囲んで、唱和しているそうで、それはそれは荘重で神聖な空気感が漂っていて、通常のゴミゴミした祭典の時とは異なっているらしい。

 

 「おつとめ」は「みかぐら歌」という歌と、9つの鳴り物の伴奏で構成されたなかで、「かぐらづとめ」は10人の人衆が甘露台を囲んで踊る。さらに「ておどり」は横一列に並んだ踊り手が、南側から甘露台に向けた北側を正面として踊る。その際、みかぐら歌は「よろづよ八首」と「12下り」の節がうたわれます。

 

 男性の鳴り物の太鼓・小鼓を演奏する際のガイドブック(『おつとめ鳴物譜 太鼓 小鼓』(天理教道友社、昭和11年))が国会図書館のデジタルに掲載されたので、ここに紹介します。

  小鼓(こづつみ)では、「タ、ポ、プ、チ」の4つの音が出せるが、天理教では「ポ」の音だけを利用する。その他、置き方、持ち方、打ち方なども8枚の写真で図示されています。男性の鳴り物で、写真の男性はおそらく、教祖伝の研究をして、今でも利用される『おてふり概要』の筆者の山澤為次氏かもしれません。太鼓と小鼓が同時に教示されているのが、この教本の特色で、男鳴り物で打楽器という特性が共通ということを暗示しています。 男性の鳴り物には笛もありますが、ここで掲載されていません。またみかぐら歌のすべてが掲載されおらず、一般化が難しい箇所だけのガイドとなっていて、逆に一般化できて演奏出る箇所が分かる仕組みになっています。現在の道友社の教本と比べて不親切な感じもありますが、より本質的な側面も出ているようにも思いました。

 

今では、道友社で「みかぐら歌練習譜 小鼓」は165円で入手できる。小鼓の扱い方に関しては、DVDも同じ道友社からあります。小松六三郎先生の40年以上前の動画が見られます。天理教音楽研究会の協力のもとで作成された動画で、昭和50年代頃の作成だと思われます。

小松六三郎先生は、2020年3月6日に出直されたそうです。先生の長年の御功績に感謝いたします。

 

 小鼓の置き方などについて、本部が作成したYouTube「鳴物教室 男鳴物」も参考になりました。梶本國彦(本部員、1931年生まれ)が出ています。今では本部員の中で最高齢の重鎮でしょう。音楽好きの本部員先生ですネ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 殺人は万国で倫理的に悪であるが、政府が合法的に死刑を温存している国が世界にはまだ多い。日本はその一国だ。授業で学生にグルーブ学習として死刑の合法性について議論させることを何度もしてきた。今回、200名近くいる学生をZOOMで4人の集団を作って議論させた。 だいたい、半々で、死刑が正当であると判断する学生が多い。特に殺人犯に対しては、応報的に死刑は妥当だという。

 最近のニュースで、シンガポールで薬物犯罪での死刑判決がZOOMによって決定されたことが、アムネスティによって報道された。死刑そのものが残忍であるというのが、この団体の主張である。キリスト教の思想が背後にあるかも知れないが、終身刑で働かせた方がよい、死ぬまで罪の償いをすべきであるという考えが、死刑反対の背後にある。

 日弁連によると、日本では死刑は絞首刑。3人の看守がボタンを押して、誰が執行ボタンを推したのかは分からない仕組み。医師が死亡を確認して、場を清めるらしい。おおむね、死刑の執行の時期、状況は秘密主義の中にある。神様から与えられた命、罪人、重大犯罪人といえども人の子である。死刑執行人たちのストレスは誰にも分らない。あなたはその仕事を喜んでできるだろうか。

 尊厳死、自殺は本人の自由意志であるが、死刑は自分以外の公権力からくる命令であり、いつ来るが分からない。冤罪の場合はなおさら、取りかえしがつかない。再審請求が難しい日本の司法制度の不備もあるそうだ。

  極悪人は死刑が必要か、改心させる宗教の力を信じるか。人の心を変えることは大変である。それでも宗教者の力量が問われる。教誨師の先生方はご苦労様です。

 

 

 

 父が出直してから、はや三十余年になる。私が小学校五年で、弟が三年だった。

 父亡きあと、母は父の後をうけてさらに十年間、苦難の中で六人の子供を育てつつ布教に専心した。その母も父におくれること十年、五十二才でこの世を去った。

 父と母も現在の結構をみることなく、ひたすら神一条に徹してスタスタと歩み去った。事改めて父母から何を仕込まれたという記憶はない。父母の生きざまがそのまま私たちの魂に刻み込まれている。私たちは親の後ろ姿をみて育ったのである。

 現在、弟妹たちも夫婦そろってようぼく(*3)となってくれている。

 中でも、すぐ下の弟は00の地で単独布教のまっさい中である。つねに父と母の面影が心を占めているに違いない。私たち兄妹はお道を信じ、教祖(おやさま)のひながたの道を身をもって示してくれた父母を心より誇りに思っている。

 中でも私たちの銘記すべきは、名誉にも地位にも財にも心を動かされず、あくまで人様のために尽くしたすさまじいまでのたすけ心である。

 教祖百年祭(*1)を迎えるこの旬に、わが家の信仰の元一日を思い、「白紙に戻り、一より始める」(*2)と仰せられる通り、信仰の真の復元を心に期して、がんばらせていただきたいと思っている。

 

クマッピーによる注記

*1:教祖百年祭とは1986年(昭和61年)

*2:「白紙に戻り、一より始める」とは当時の真柱である中山善衛から教祖百年祭に向けて打ち出された「諭達」に書かれてモットーである。当時この言葉が天理教でよく利用されていた、このフレーズからはいまだ何も実現できていないのが、今の天理教の悲劇です。真の復元を目指して、このブログに魂込めます。

*3:「ようぼく」とは天理教で、9度の別席を運び、神様から「おさづけ」をいただいて、人をたすける道具、「用木」(ようぼく)となっている人を指します。

 

追記:ここに書かれている短命だった布教師の父や母は、その後、この教会の後継者(今は会長)、また後継者の長女(数年前に天理大学を出て、航空会社に勤務中)に生まれ変わってご存命です。平成時代には立派な神殿も立っています。人間はいつか亡くなりますが、天理教では亡くなることを「出直し」と呼称しています。なお上記の文章の筆者やその弟さんは今では、出直しています(令和3年1月20日現在)。

 永平寺の修行は800年以上続いているだろうし、日本に定着した禅の気風は時代を超えて、深い霊性の伝統を形成している。たまたま国内の仏舎利塔の現状について調べる中で、光地英学先生の『日本の仏舎利塔』(1986年)を学会で教えてもらった。光地英学先生は、駒澤大学仏教学部名誉教授で、学者兼僧侶だと分かる。そのお弟子さん(角田徳明住職)は、もともと在家ながら仏教学部で学び、光地英学先生のもとで修業もして、出家へと至る。生前戒名を授かっており、仏教者としてもご立派である。