2021年に岡山県の備前市からの依頼で伝記マンガ「熊沢蕃山」をだしたのだが、それをきっかけに「びぜん特別観光大使」に任命されてしまった。で、新備前市合併20周年をむかえるにあたって記念誌を作成することになり、そこへ「びぜん特別観光大使」を紹介するにあたり僕の写真を掲載したいので写真を送って欲しいとの連絡があり、適当な最近の写真を探してみたが、僕の顔が映ってる写真は、何年か前の今は亡き愛犬ナナと撮った写真しかない。しかたなく妻に写真を撮ってもらった。が、撮れた写真を観てびっくり!
「だれやねんこれ」「あんたやんか」「撮るのんヘタなんか」「誰が撮ってもこうなる。自分でどんな顔やと思ってるん。それにしても、韓国ドラマにでてきそうな顔やなあ」「どこが」「もちろん悪役やけどな」

もう、人生終わったと思った。体は鍛えられても顔は鍛えられん。

この写真騒動で鏡をみて、髪の毛がロン毛になっていることに気付く。

そういえば、半年程散髪にいっていない。
で、初めて行った美容院で短く刈り上げてもらうことにした。この美容院は普段は女性客相手なのだが、週に2回男性もしてもらえるようになっている。
女性の美容師さんがやってくださったのだが、刈り終えて一言。
「ええ感じになりましたねえ、ロン毛の親父から、ちょい悪親父って感じになりましたよ!」えっ、ちょい悪親父!?それのどこがええ感じなんや。と思っていたら、レジで若い女の子が「ええ感じになりましたねえ。びっくりですわ!」と笑顔で言ってくれたので、まあいいかと、きげんよく帰ってきた。散髪代は1000円!安い!
御坊のオークワの中にある美容院です。おすすめですぞ!
近所の同じ歳の人に若返ったなあ、さいわいさん、はげてないんやなあとうらやましそうに言われたので、いやいやてっぺんから後頭部にかけて、ちゃんとはげてます、短く刈り上げたから、めだたないだけなんですよとイっておく。若返った?ちょい悪親父?どっちゃでもええわ(笑)
スッキリ頭になりました。

 

風力発電に関する講演会のお知らせです。

講師は日本熊森教会の会長さんの室谷悠子さん。

日本熊森教会には19年程前にお世話になっています。

自著「森の中の海で」の連載が終わり単行本化されたのはいいのですが印税の振込日が来ても振込されず小さな出版社だから仕方ないかと思っていたらやっと電話連絡がきたのですが印税の振込の話もないまま売れないので断裁すると言われたのです。

しかたなく1800冊だけ印税代わりにいただき友人や仲間たちの協力を得ながら売りつづけ日本熊森教会にも1冊送ったらなんと100冊も購入してくださったのです。環境問題をひろげていくのにこの自著が役立ったのでしょうねえ。読んで欲しい人達に届けるということが出来てうれしかったです。本を売るとはどういうことかを教えられました。

書店に置くだけで精一杯の自転車操業的出版社の限界を知ることにもなりましたねえ。

そして今新たな環境問題としての風力発電問題が起こっています。

20年前に描き上げた自著「森の中の海で」は新たな深まりを必要としています。日本熊森教会の会長さんの講演会が楽しみです。

「森の中の海で」https://ameblo.jp/misato695/entry-12513835367.html?frm=theme

今の朝ドラを観ていて思いだす出来事がふたつある。
ひとつは、友人の奥さんが子供ふたりを置いて家をでたきり長期にわたって帰って来なくなり、知人の弁護士を紹介したのだが、友人の話を聞き終わったその弁護士が言った言葉に驚いた。
「奥さんを、たたきましたね」
「たたきましたか」ではなく、「たたきましたね」と断定したのだ。
彼は、そんな人間ではない、この弁護士は何を言ってるのだと思っていたら、友人は「はい」と応えた。衝撃が走った。いままでなんというひどい奥さんだと思っていたのだが逆転した。同時に、おとなしい兄弟の従順な顔がうかび、彼らも父親からの体罰でおさえこまれていたのではないかと疑った。なぜきづかなかったのだろう。今思えば、あの従順なおとなしさは、父の体罰でおさえこまれて育った子供の頃の僕に似ていたではないか。僕は僕なりのやり方で父の体罰を拒否し、新たな父子の関係をつくりあげた。あの兄弟にもいつかその時がくるかもしれない。

それにしても、たくさんの人間を観てきた弁護士だ、事実をみぬいていた。さすがだ。
もう一つの出来事は、僕が高校を卒業して間もない頃のこと。
あるグループに入っていた僕がそこで、同じグループのある女子校生としりあったのだが、ある日、突然、その女子校生のおかあさんが僕に会いたいと我が家にやってこられたのだ。
娘が僕の話ばかりする、どんな人かと逢いに来たという。ついでに父の職業まで聞いてきた。僕も母もびっくりして顔をみあわせた。
僕を見て、「安心しました、娘をよろしくお願いします」といって帰っていかれたのだが、なにが起こったのだと訳がわからなかった。
「お嬢さんにへんなことしたらあかんよ」と母。
変なコトするわけないし、彼女とは2度逢ったきり。マンガの話なんかをしただけやと僕。魅力的な女子校生なので、僕に好意をもってくれたのはうれしかったが、それからというもの、なぜか彼女と逢う時はどこかに妙な距離を置くようになってしまった。どこかに彼女のおかあさんの目をかんじてしまい、僕の中に保護者のような感覚がついて離れなくなったのだ。妙な男女交際となってしまった。ああ、あかんかったあの恋(涙)
箱入り娘として彼女は大事に育てられているのだ、マンガ家志望の何の身分もない僕が距離をおくのはしかたのないことだった。
でも、やはり異常な育て方ではないかと今は思う。箱入り娘という言葉は、強引に押さえ込んで育てることではないか。
今回の朝ドラは、いままでの朝ドラを根本からひっくり返す位のテーマを含んでいる。

男社会をぶっつぶせ!親の暴力と押しつけを跳ね返せ!

とことんやってほしいと思う。

 

 


 

現在取り組んでいる伝記マンガは2色原稿を先に仕上げていっている。

しばらく歴史マンガを描いていなかったので、なかなか絵の勘が戻らなかったのだが、なんとか絵が動き出した。

マガジンハウスから出ている「ダライ・ラマ14世」の伝記マンガ以外は、発行元はすべてマンガ本を出したことのない団体ばかり。

そういう意味では地味な仕事だ。でも、脚本から絵付けまですべて自分でやっているので、1冊しあげるごとに、表現者としての何かとても大切なものを得ている気がしている。そして、時々思いも掛けない感想を頂き、その想いを強くする。

「まんが大上宇市」への以下のような感想を頂いたときも、そんな想いを噛みしめた。

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本日、「大上宇市(おおうえういち)と粘菌」展の最終日に当たり、姫路市自然観察の森「ネーチャーセンター」展示室へ行って参りました。
大上宇市(1865-1941年)は、もう一人の南方熊楠(1867-1941年)とも呼ばれる同時代を生きた博物学者です。熊楠の英米を股に掛けた世界的な活躍の陰に隠れ(池内紀『二列目の人生-隠れた異才たち』集英社、2008年)、私も今回、初めて知り、宇市が生きた時代を直に感じ取りたいという心持ちで展示会場へ足が向かいました。そこには1冊の漫画で描かれた伝記本が展示されていて、私は手にして最後まで読み入って、宇市が懸命に手探りした博物学の世界に浸ることができたのです。
※大阪へ帰還してから、幻の漫画本が作者、さいわい徹氏ご自身のサイトで41ページまで公開されていました(ページ単位で拡大表示も可)。富国強兵の史観が優勢な時代に博物学という何の役に立つのか知れない学問を志した先駆者の気持ちが痛いほど伝わってきました。

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おそらく、今取り組んでいる伝記マンガが最後の伝記マンガになると思う。

伝記マンガから得たものをだいじにしながらオリジナルな作品つくりへとはいっていきたいと思っている。

「青木文教」の取材で初めて海外取材にいった。チベットだった。最後の写真はそのときのもの。

この時の取材が「ダライ・ラマ14世」にも役立ったのだが、この時は、そんなことになるとはおもってもいなかった。

そして、「ダライ・ラマ14世」のマンガは、複雑な問題をかかえてはいるが、世界中に拡がっていったー。チベット問題をひろげていくこの本の役割は、どうにか果たせたと思っている。

僕にとっての伝記マンガは、いわゆる学習マンガではない。そんなものとしては描いてこなかった。

作家としてのテーマを1冊1冊に込めて描いてきている。

だから、読んでくださった人達からの感想のひとつひとつとの出会いがなによりうれしい!

 

 

「涙そうそう」と言う歌は、森山良子さんが歌手になると宣言し、それを支えてくれた若くして亡くなった兄を思う歌だとか。

この歌を歌いながらマンガ家になると言った僕を応援してくれた母をいつもおもいだしてしまいます。

バイトをしながらクロッキー教室に通い、バイトのお金で上京しては出版社に原稿を持ち込んでいたあの日々ー。

描く作品はペシミスチックなものばかりで、才能なんて感じられないー。同年代の女性から観たら、本当にストイックでつまらない男だったでしょう。彼女をドライブにさそう男やスポーツマンで背の高い精かんな男たちに比べたら、何の魅力も身分さえもない男なわけで、そんな僕を母からみたらどうしようもないはずなのに、応援しつづけてくれた母。ただただ頭がさがります。

 

旅立っていく母を、せつなさと感謝の思いで見送ってから1年と数ヶ月が過ぎました。

母を想うとき、どうしても僕のあのせつない青春時代へと戻ってしまいます。子供のころからずっと、体罰で僕を押さえ込もうとしていた父と吹っ飛ばされながら黙り込んでいた僕。お互いに成長しなければならなかった二人の間で、ただただオロオロせざるを得なかった母。

そして、僕が起こしたというか結果的に起こったある事をきっかけに、父と子は変わり、成長しあっていくー。

母を想うとき、なぜかあの頃に戻り、あの頃出会った人達をおもいだしてしまいます。あの時の、あの人の涙の意味が何年もたってやっとわかった時のせつなさ。それは、言葉と気持ちというか思いやりがすれちがってしまった恋。今も、傷だらけになった優しい僕たちはそこにいるのです。ありがとう僕の青春たち。

そして、マンガ家になると決めてからのとんがった孤独な僕を支え、応援してくれた母に感謝。

 

あ、そういえば、村岡栄一さんの「去年の雪」という作品が日本漫画家協会賞を受賞しましたねえ。

COMというマンガ雑誌があって、そこから全国にうまれたマンガ研究会。

「去年の雪」には、あの頃の雪が今も懐かしくふりつづいているんですねえ。

村岡栄一さん、受賞おめでとうございました。

 

 

自著「まんが版大阪市の歴史」(脚色と画を担当)和泉書院刊 を図書館でみつけてくださった友人が、SNSに

「ますます大阪がすきになる本です」という感想をアップしてくださった。嬉しい!

平成18年の10月に出たこの自著、ラフをだしてからなかなかそのラフへのチェックが返ってこず、製作期間がなくなり、毎日徹夜の中で描いたのを思い出す。でも、楽しい仕事だった。ただ、どういう仕事を自分がしたのかがつかめなかったので、この仕事のことは忘れていた。

今回、SNSに友人がアップしてくださり、何人かの人のコメントを読み、そうか、残るいい仕事をしたんだ、と思う羽目に(笑)

最近、インターネットをつうじて自著への感想などを知る機会が多くなっている。その都度、自分のマンガへの応援をいただいているような気がして、自信をなくしていた自分のマンガへの思いを新たにさせられている。

ありがとう〜〜!!!

今、大阪の良さをもう一度見つめ直すには、自著ながらいい本だと思う。

Amazonで見る事ができます↓

http://www.amazon.co.jp/まんが版-大阪市の歴史-大阪市史編纂所/dp/4757603908/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1429420531&sr=8-1&keywords=まんが版大阪市の歴史

 

あるマンガ家のインタビュー記事を読んで不思議な感じになった。

その人は40年前、コロコロコミックで4コママンガを連載し、単行本化されアニメ化され年収6000万になったという。それが何年かつづいたわけだ。でも、その連載終了後しばらく仕事がなくなり、その時の収入はもうほとんど無いという。思わず、僕がコミックボンボンで連載した4コママンガのことをおもいだした。当時、コロコロコミックにもコミックボンボンにも4コママンガなどなかった。どちらの編集部も子供は4コママンガなど読まないとおもいこんでいたのだろう。そんなことはない、と最初にコミックボンボンで4コママンガ「やったれフータブータ」の連載企画をもちこんだのは僕だった。それが子どもたちをゲタゲタ笑わせ、たちまちランキングの上位に躍り出たのだから編集部も驚いた。それを観たコロコロコミックはもっと驚いた。その4コママンガを描いているのがコロコロコミックでデビューし、途中で引っ越し先の住所もしらせずに連絡を断った僕だったから。大変な不義理をしたものだ。その後、コロコロコミックにも4コママンガの連載が始まる。それがこのマンガ家さんの4コママンガだった。もし僕の4コママンガの連載がなければ、この人の4コママンガの連載も無かっただろうと思う。もし僕がコロコロコミックで連載していたらアニメ化され年収6000万となっていたかも。残念ながら、コミックボンボンには単行本化やアニメ化する力も勢いもなかった。

そういえば、僕の3歳児を主人公にした4コママンガ「ボクはコースケくん」の人気がでてくると「クレヨンしんちゃん」が始まる。コースケがなければしんチャンもなかったのではと思う。あの頃、よく「私は、しんチャンよりコースケくんのほうがすきだ」と言う人に出会った。

そう言ってくれる人達に感謝しながら、稼ぎの違いを思った(笑)

 

尊敬する大先輩から90年の人生を振り返られた冊子が届いた。読ませていただきながら、初めてお会いしたときのことやら、いただいたお仕事の数々を思い出す。この大先輩からいただいたお仕事の数々を抜きにして今の僕の仕事はない。最初にいただいたのは、スライドによる紙芝居とでも言おうか、ひとつの作品に90枚ちかくのイラストを描く仕事。3作いただいたが、3作とも違ったタッチで描いている。計300枚近くのイラストを短期間に脇目も振らずに描いていたあのころが懐しい。その後全5巻の劇画シリーズの仕事をいただく。脚本も絵も好きに描かせていただいたが、どれも難しいテーマ。

元をたどれば、僕の初めての書き下ろし単行本「劇画芦別事件」を大先輩が読んでくださったのが大先輩との出会いだった。そのすぐ後にだした「白土三平マンガの魅力」も読んでくださっていた。

改めて、大先輩から頂いた仕事のひとつひとつを振り返りながら、僕の表現者としての原点のようなものを振り返る。

ああ、僕は儲からないマンガの方向をたどっていったのだなあと苦笑い。

でも、4コママンガからストーリーマンガまで好きな仕事をさせていただいてきたのだから大満足。

こうした作品作りから、「森の中の海で」という作品を描けたこと、それが山奥に移住してきたからこそ描けた作品だということに感謝している。おもろい人生はまだまだ続くー

同じ区の人から採れたてのタケノコをいただきました。おいしかった〜!

今日は、夫婦で花見に。あちこち観てまわりましたが、やはりここの桜が一番!

マンガの仕事は、今日は数時間のみ。たまにはええワイ(笑)

タケノコ採りのマンガがあったのでアップしときます。

こんなマンガを描くときはたのしいですなあ。

春ですねえ!ウキウキしますねえ!!

ここにアップした僕の短編小説を読みにくいにもかかわらず読んでくださったみなさん、ありがとうございました。絵本ストーリー部門で入賞したのですが、絵本むきではないため受賞を辞退。来年、少し整理し、新たに描き直して短編小説賞に応募しなおそうと思っていますので、しばらくしたら、アップした短編小説は削除します。

マンガはこれからも書き続けてはいきますが、年齢的な体力を考えるとほのぼのマンガと違って細かい絵付け作業を必要とするシリアスなマンガはだんだん描けなくなっていくでしょう。

で、シリアスな作品は小説にと考えて描きためてはパソコンの中にいくつか置いています。今回の絵本ストーリー部門への応募は、そのパソコンの中に置いていたものを中味も確かめずに応募してしまったわけで、応募してから読み直し、場違いな応募だったと反省。受賞を辞退しました。

これからも、ときどき、そうしたパソコンの中に置いている小説を、他人に読んでもらえるものかどうかわからないため、ここにアップすることがあるかもしれません。ま、迷惑なことになるので、もうないとは思いますが(笑)

45年以上マンガを仕事として描いてきました。もういい年齢になってきたわけで、それでもまだまだ表現者でありつづけたく思います。

結果、他のジャンルへの挑戦をこころみているわけです。

ええ歳になっても若者であり続けていかねばと肉体的トレーニングをしながらね(笑)今後ともよろしくお願いいたします。

 

あ、それから、せっかくコメントをいただいても、なぜか返信コメントを書き込めなくなことがあります。

返信コメントを書き込めていないひとたちには、ごめんなさい。もうしわけありません。

 

自分でシナリオも書いているから、苦手なシーンを省くことも出来るのだけれど、
シナリオを書いている時は、絵として書けるかどうかなど関係ない。
けっきょく、必要なシーンを省けなくて、絵にするときに難儀する。
戦争シーンなんかがそうなんです。でも、逃げてはいけないんですよねえ。

「ダライ・ラマ14世」のこの戦闘シーンを見返す度に、ああ、描けてないと思います。
今取り組んでいる伝記マンガにおける戦争場面は、かなりシナリオとして整理しながら戦争の本質に迫っていると、本人は思っています。
おもっているだけかも、知らんけど。
それにしても、「キリキリマイコちゃん」と「ダライ・ラマ14世」の絵を並べると、同じ人が書いたとは思えませんよねえ。
昔、ある雑誌の編集長さんにいわれたことがおもいだされます。
「うちの子がコミックボンボンのマンガを読みながらゲタゲタわらっているので、こんなに子供を笑わせるマンガってどんなマンガで誰が描いているのだろうと思って観たら、なんと、うちの大人向けマンガ雑誌に連載しているさいわいさんだった!子供向けマンガと大人向けマンガを同時に連載しながら、どちらもランキングが上位にいるってことは、すごいことですよ!」
このとき、コミックボンボンでは「やったれ!フータブータ!」を、この編集長の雑誌では「人形劇団どろんこ旅日記」を連載していた。
同時に「ボクはコースケくん」等の4コママンガやら「キリキリマイコちゃん」など多数を大人向けマンガ雑誌に連載。

そして書き下ろし単行本まで!

いつねていたのかと思うけれど、この頃が一番充実していたなあ。