親との会話が平行線になってしまう原因の一つ。

祈り。

何もかも祈りなさい、祈りなさい、祈りなさい、と言う。

全てをエホバに知ってもらいなさい。タメ口でもいいから

とにかく話しかけて!

どんな結果になっても祈った結果なら、神が

それを知ってくれてるから、良いのだ。

併せてくる言葉は、自分の理解に頼ってはならない、自分の

考えで動くと、あなたは神よりも偉いの?!まずエホバに

祈らないと!そんな思考パターンです。

jw内の様々な問題についても、祈ってないからだ!と言い切る。

誰かの意見に振り回されるタイプではない、なにが何でも

組織に従う!そんなタイプでもない。

とにかく、祈り、祈り、祈り、……。

たしかに、神を崇める者として、祈ることは大切かもしれない。

仲良し倶楽部のノリでjwをされるよりマシなのかもしれない。

特権主義では全然ないので、マシなのかもしれない。

でも。

祈ったら、安心する。これも危険な考え方なんだと思うんです。

全てを委ねてしまったために、結果に対して反省とかしなく

なりませんか?もう私はエホバに祈ったから…、私はエホバに

言い開きができる…、そう言い切ってしまって、流れに任せて

しまう癖がつかないでしょうか。具体的に行動することを阻んで

はいないでしょうか。エホバに祈ったから、目の前にある問題を

放置してしまってないでしょうか。エホバ任せにしてませんか?

何もかも。

そんな感じなので、ウチの親の場合は、よい結果もエホバ、

悪い結果になってもエホバなんです。サタンにはならないんですね。

そこは他のマイコンさんとは違う部分なのかもしれない。

でも悪い結果もエホバ、だと、更に努力したり改善しようとしなく

なるんですよね。すべて〈ご意志〉だから。

そこの感覚の違いもあるのかな…。

だから、何を話してても、例えば、教理のおかしな点を指摘して

少し話したとしても、最後は祈り祈り祈りで押し切られてしまう。

おかしい点についてエホバに祈りなさい!答えをみつけれるよう

エホバに祈りなさい!サタンに負けないようにエホバに祈りなさい!

そこまで言われたら話していく気も失せます。

平行線状態で実家を後にする時も、玄関先で、エホバに祈って!

もう嫌がらせかギャグのようにも聞こえてきます。本人は真剣

なんだろうし、それなりの心の平安を得ているからなんだろうが。

ここまでくると祈りの強制。イヤになってきます。

現実逃避の手段になってしまうのがイヤなんです。それじゃあ、

このお守り持ってるから大丈夫!って思考パターンと何も

変わらないと思うんです。もっと自分で考えて、自信もって

行動しないと!何かに頼りっきりじゃいけないと思います。

一世の人はここまでしないと神を意識することができないのかな。

我々二世は、良くも悪くもお陰様で、神やエホバという概念が

当然のものとしてインプットされてるんです。忘れろ!と

言われても、多分無理なんです。そこの違いなのかな。

探しに探してやっと見つけた父親に対する気持ち…

普通の家庭に生まれて父親が当たり前にいる環境…

やっぱ違いますよね、同じ神、エホバ、というものに対する

考え方も。

祈ったからもう全ては委ねましょう、という言葉は、やはり

何か受け入れがたいな……。

祈りを、お守り代わりにしたり、言い訳の材料にしたり、

ある意味で神に対して責任転嫁をしたり、揉めた時に話を丸く

収めるための便利なツールではないと思うんだけどな…。

自分で決定して胸張ることも必要だと思うよ。

jwで、なかったとしても立派な人間だったと思うよ。

全てが全て神頼みな生き方ってそんなに魅力的なのかなぁ。

組織が徹底的な自己否定をするように圧力をかけた結果が

このような思考パターンを生んだのかもしれないね。


う~ん…僕は誰に今話しかけてるんだろう…。
書いてて何かわけがわかんなくなってきちゃった…。
自分に問いかけてるのか…
親に問いかけてるのか…
他の人に問いかけているのか…
神に問いかけているのか…

すいません…滅茶滅茶な文章になってしまいました。
詠みにくくて申し訳ない。
今日は単なるボヤきです。ご了承ください…。