前回のブログに書いたように、1860年代から1870年代にかけてアメリカ、日本、ドイツは英仏の「自由貿易帝国主義」に対抗するためにほぼ同時期に国民国家を完成させるのです。

全く別の場所でほぼ同じ時代になぜこのようなことが起こったかを説明することは難しいのですが、これが意味するものは将来を考える上で大変参考になるのではないかと私は思います。

すなわち現在先進国といわれる大国は1860年代から1870年代にかけて基本的な国造りの段階を終えていたということです。

イギリス、フランス、アメリカ、ドイツ、日本などが文化や科学技術、経済などで世界をそれなりにリードしているのはそれなりの理由があるのです。

ここで中国の問題を考えてみたいと思います。

中国が最近日本の経済規模を超えたことで、これからもますます中国の勢いが増すことを指摘する人々が日本やアメリカで増えてきています。

しかしこの議論は正しいのでしょうか。

『日経ビジネスオンライン』でフランスの知識人、エマニュエル・トッドが同じような質問をされ、彼は次のように答えています。

「先進国に多くの問題があっても、世界の将来をつくっていくのは、日本、米国、ヨーロッパという先進国だろう。特許にしても日米欧が3分の1ずつを占める。」

私も彼の意見に賛成です。やはり「歴史」にはそれなりの重みがあるのです。

というわけで習近平の「中国の夢」は本当に夢のままに終わってしまいそうです。
歴史家の渡辺惣樹さんは『朝鮮開国と日清戦争』という本の中で、明治維新の後に起きた西南戦争とアメリカで起きた南北戦争の共通点を次のように書いています。

「国のあり方を決める西南戦争の本質は、明治という国家が中央集権的な国造りを明確にするための内戦であった。その性格はアメリカの南北戦争と同じであった。太平洋を挟んで19世紀中葉に起きた2つの内戦は、北アメリカと極東の2つの新興国が、ヨーロッパの2大国(英仏)の押し付ける自由貿易帝国主義体制に組み込まれ、埋没しないための生存競争の一過程として発生した。」

私は今回飯田洋介氏が書いた『ビスマルク』という本を読んで、ほとんど同じ時期にドイツでも日米と似たようなことが起きていることを発見しました。

ドイツが統一される以前の状態は、ナポレオンが敗退した後の「ウィーン体制」で決められ、それはオーストリアとプロイセンが主導する形で約35の君主国と4つの自由都市からなる「ドイツ連邦」という形で存在していました。

この「ドイツ連邦」をどのように運営していくかでいつもプロイセンとオーストリアが揉め、それに決着がついたのは1866年の普墺戦争でプロイセンが勝利した時でした。

この戦争に勝利したプロイセンは北ドイツ連邦の盟主として君臨するのですが、まだ南部にバイエルンなど実力のある王国が存在しドイツの統一は果たせませんでした。

さらにプロイセンの宰相であるビスマルクは、当初からドイツの統一を考えていたわけでは無く、いかにドイツ北部でプロイセンの覇権を握るかに関心があったのです。だから下手をしたら南北のドイツに別れていたままになった可能性もありました。

ところがオーストリアとの戦争で拡大された「ドイツ・ナショナリズム」はこのような中途半端な状態を許しませんでした。

もしドイツが日本やアメリカのような島国でしたら、南北戦争や西南戦争のような内戦で決着をつけて統一国家を完成させたのでしょうが、さすがにイギリスやフランスまたはロシアなどの強国が存在するヨーロッパは違います。かなり複雑な過程を経ることになるのです。

ここでスペイン王位継承問題というものが起こります。この問題の詳細はここでは省きますが、いずれにしろビスマルクはこの問題でフランスを挑発し宣戦布告させてしまうのです。

フランスと戦争するにあたってビスマルクの北ドイツ連邦は南ドイツ連邦と攻守同盟を結んでいたので、フランスとの戦争はドイツ一体で戦うことになったのです。そしてビスマルクはパリ包囲戦の最中に南ドイツ連邦との統一に向けた交渉の指示を出し続けたのでした。

そしてフランスとの戦争に勝利した結果、ドイツの統一も可能となったのです。

もちろん南ドイツ連邦との合併が話し合いで済んだために 軍事や税制、郵便などの分野で一定の留保権を認めなくてはならず、ドイツで中央集権が進んだかには疑問が残りますが、普仏戦争が終わってから8年後ビスマルクはそれまで自由主義的だったドイツの経済政策を180度転換し保護関税を導入するようになるのです。

このようにドイツにおいても渡辺さんのいわれるように英仏の自由貿易帝国主義に埋没しない体制が日米と同じ時期に出来上がるのです。

アメリカの南北戦争 1861ー1865
大政奉還 1867
西南戦争 1877
普仏戦争 1871
ドイツの保護関税 1879

簡単な年表を書いてみました。全く違う場所のアメリカ、日本、ドイツで、近代国家を作る時期がなぜ1860-1870年代に同時に集中的に現れたのかは興味があるところです。
経営コンサルタントの倉本圭造さんのブログでイスラム国の人質問題で共感する部分があったので少し書いてみたいと思います。

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もっとざっくり言って、全体として「安倍首相的」な方向性で、「欧米(特にアメリカ)との連携を強化していくような動き」をしていった結果、イスラム社会にとって日本は「昔アメリカに立ち向かった俺たちの仲間」ではなく「アメリカ側に立っている俺たちの敵の一味」扱いされるようになったのだ・・・という話なのかもしれない。
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以前小泉総理がアメリカのイラク戦争に後方支援で参加する際に言われていたことは、「日本は中国や北朝鮮という東アジアでやっかいな問題を抱えているので将来アメリカに守ってもらうためにも、中東でアメリカに協力しておこう」というものでした。

当時この話を聞いたときは、なんと主体性のない話なのだろうかと落胆したりしつつもあまりに正直な発言だったため現在でもよく覚えているのです。

戦後の日本の国家体制はサンフランシスコ講和条約以来、平和憲法と日米安保の2本立てでこれまでやってきました。

しかし、この体制には明らかな欠陥があって、それは「自主防衛」ができないことです。

東アジアで自主防衛ができない日本は将来の日本の安全をより確実なものにするために、アメリカの中東政策に協力して、アラブの過激派に嫌われてしまったのです。

ところが日本のリベラル派は自主防衛できない日本のことを無視して今回の人質問題を安倍首相個人の問題にすり替えています。

少し話は変わりますが、今年の正月に放送された『朝まで生テレビ』で孫崎享氏が日本にある米軍基地をどうすれば良いのかと問われて、少しの間を置いてから「有事駐留」と答えていました。

つまり普段は日本から米軍を追い出しといて何か日本に危険が迫ったら米軍が駆けつけてくれることを想定しているみたいなのです。

このような薔薇色の自体を想定して発言している人に厳しい現実を見せるためには日米安保が無くなる場合があることを実感してもらう必要があると思うのですが、残念ながら日本の保守派のほとんどが親米を基調としているため、そのような政策はとれません。

安倍首相のやり方は日米同盟を強化しつつ憲法改正を行おうというものですが、どうもうまくいかないようです。

先の選挙でも次世代の党は惨敗し、共産党や公明党が票を伸ばしたことに現れています。この選挙結果を受けて憲法改正が安倍首相で実現できると考えている保守派の感覚が私にはあまり理解できません。

また、安倍首相の憲法改正の意向はリベラル派を過激化させているようで「安倍、辞任しろ」や「安倍死ね」などの下品な言葉がネット上で飛び交うようになっています。

一方、「自主防衛」のできない日本という実態は保守の方にも確実に不安感を与え一部の人が過激化し、こちらの方は「朝鮮人を殺せ」などとデモをするようになってしまいました。

激動する国際社会に日本の体制(平和憲法と日米安保)がうまく適用できない結果、国内の政治が両極化してしまったのが背景にあると思われます。

このような状態を治癒するためには国際社会が平静を取り戻すか、新たなコンセンサスを獲得できるような体制が構築できるかが鍵になりますが、どちらもそう簡単なことではないために日本の両極化はしばらく続きそうです。