歴史家の渡辺惣樹さんは『朝鮮開国と日清戦争』という本の中で、明治維新の後に起きた西南戦争とアメリカで起きた南北戦争の共通点を次のように書いています。

「国のあり方を決める西南戦争の本質は、明治という国家が中央集権的な国造りを明確にするための内戦であった。その性格はアメリカの南北戦争と同じであった。太平洋を挟んで19世紀中葉に起きた2つの内戦は、北アメリカと極東の2つの新興国が、ヨーロッパの2大国(英仏)の押し付ける自由貿易帝国主義体制に組み込まれ、埋没しないための生存競争の一過程として発生した。」

私は今回飯田洋介氏が書いた『ビスマルク』という本を読んで、ほとんど同じ時期にドイツでも日米と似たようなことが起きていることを発見しました。

ドイツが統一される以前の状態は、ナポレオンが敗退した後の「ウィーン体制」で決められ、それはオーストリアとプロイセンが主導する形で約35の君主国と4つの自由都市からなる「ドイツ連邦」という形で存在していました。

この「ドイツ連邦」をどのように運営していくかでいつもプロイセンとオーストリアが揉め、それに決着がついたのは1866年の普墺戦争でプロイセンが勝利した時でした。

この戦争に勝利したプロイセンは北ドイツ連邦の盟主として君臨するのですが、まだ南部にバイエルンなど実力のある王国が存在しドイツの統一は果たせませんでした。

さらにプロイセンの宰相であるビスマルクは、当初からドイツの統一を考えていたわけでは無く、いかにドイツ北部でプロイセンの覇権を握るかに関心があったのです。だから下手をしたら南北のドイツに別れていたままになった可能性もありました。

ところがオーストリアとの戦争で拡大された「ドイツ・ナショナリズム」はこのような中途半端な状態を許しませんでした。

もしドイツが日本やアメリカのような島国でしたら、南北戦争や西南戦争のような内戦で決着をつけて統一国家を完成させたのでしょうが、さすがにイギリスやフランスまたはロシアなどの強国が存在するヨーロッパは違います。かなり複雑な過程を経ることになるのです。

ここでスペイン王位継承問題というものが起こります。この問題の詳細はここでは省きますが、いずれにしろビスマルクはこの問題でフランスを挑発し宣戦布告させてしまうのです。

フランスと戦争するにあたってビスマルクの北ドイツ連邦は南ドイツ連邦と攻守同盟を結んでいたので、フランスとの戦争はドイツ一体で戦うことになったのです。そしてビスマルクはパリ包囲戦の最中に南ドイツ連邦との統一に向けた交渉の指示を出し続けたのでした。

そしてフランスとの戦争に勝利した結果、ドイツの統一も可能となったのです。

もちろん南ドイツ連邦との合併が話し合いで済んだために 軍事や税制、郵便などの分野で一定の留保権を認めなくてはならず、ドイツで中央集権が進んだかには疑問が残りますが、普仏戦争が終わってから8年後ビスマルクはそれまで自由主義的だったドイツの経済政策を180度転換し保護関税を導入するようになるのです。

このようにドイツにおいても渡辺さんのいわれるように英仏の自由貿易帝国主義に埋没しない体制が日米と同じ時期に出来上がるのです。

アメリカの南北戦争 1861ー1865
大政奉還 1867
西南戦争 1877
普仏戦争 1871
ドイツの保護関税 1879

簡単な年表を書いてみました。全く違う場所のアメリカ、日本、ドイツで、近代国家を作る時期がなぜ1860-1870年代に同時に集中的に現れたのかは興味があるところです。