前回はラグラム・ラジャンの”The Third Pillar”という本の中でイギリスにおいて大砲の出現やマスケット銃で武装した兵士が列を組んで連続的に攻撃することで無敵の騎馬軍団を倒すことが可能になり、それまでばらばらだった封建諸侯をチューダー朝の時代に統一させることができたことを書きました。

 

The tactical solution was to have musketeers drawn up in long parallel lines, with the first line firing then stepping behind the second to reload, and so on, so that near-continuous volleys of fire could be directed at the enemy.

 

原文にはこう書いてありますが、これは何故か織田信長の長篠の戦いの見事な説明文になっています。

 

チューダー朝で統一されたものが現代の国家(State)の元になったのだとラジャンは指摘します。もちろん現代の国家と比べると中央集権などの点で不十分だったことは否めません。チューダー朝も統一を果たしたとはいえ、有力諸侯の存在に悩み、よく使った手段がお世継ぎが生まれないことを利用しての「お家取り潰し」だったとラジャンは書いています。

 

そしてチューダー朝においてもう一つの重大な変化は、それまで自分の領地内でしか安全保障の観点から経済活動ができなかったのですが、国家が統一されたことで自分の領地以外でも安全に交易ができるようになり、国内のマーケットが統一されたことでした。

 

この点はさすが有数の経済学者による歴史分析だと最も筆者が感嘆した点ですが、日本の歴史に当てはめた方が理解が早いかもしれません。

 

江戸期における経済の最も重大な品目はお米でした。北岡伸一さんの『明治維新の意味』にわかりやすい説明があったので引用しておきます。

 

「江戸時代には、人間一人が一日に食べるコメは、三合とされた。すると一年ではおよそ一〇〇〇合、つまり一石である。加賀一〇〇万石といわれるのは、一〇〇万石(玄米)を生産する土地を持っているということであり、一〇〇万人を養える領地を持っているということである。」

 

では、これほどの重要な物資である米の価格はどこで決まっていたのでしょうか?

 

大坂堂島の米市場という先物取り引きも可能なマーケットで決められていたのです。決して江戸幕府が決めていなかったというのがここのポイントです。江戸幕府が決めていたら決して江戸時代は260年も続かなかったでしょう。

 

つまりラジャンが指摘するように日本でも家康の時代に国家が統一され、そのおかげで日本国内のマーケットも統一されたことを示すものが堂島の米相場だったのです。(米相場が立てられたのは享保年間ですが、マーケットが全国に広がっていたのはやはり国家統一のおかげでしょう。)

 

イギリスはチューダー朝の時代に地方共同体(community)、国家(state)、市場(market)という現代社会をも規定する3つの主要な要素の出現を見るのですが、日本においてもそれと同じことが江戸期に起こっていたのです。

 

最後に、エマニュエル・トッドの新刊『パンデミック以後』を読んでいたら、彼は「歴史を見てみると、世界から切り離されながら、日本の歴史はほんとうに欧州の歴史によく似ている。もし私が若くて日本語のわかる歴史家であれば、日欧で呼応する出来事の一覧表を作ろうとしたでしょう。」と書いています。

 

今回ラジャンの本を読んで私が認識したことは、現在の社会制度の多くは封建制度から発展したものが大変多く、その点は梅棹忠夫さんが指摘したことですが、トッドのいうように日本とヨーロッパの歴史がとても似ているとすれば、それが日本とヨーロッパだけが封建制度を経た歴史を持っているからかもしれません。

 

続く。

 

『文明の生態史観』で、著者の梅棹忠夫さんはユーラシア大陸において西ヨーロッパと日本にだけ存在した封建制度のおかげでブルジョア(中産)階級が発達し、それが近代化に重要な役割を果たしたと書いています。

 

ただし、封建制度からどのような過程を経て中産階級が生まれたのかについて梅棹さんはそんなに詳しい説明はされていませんでした。

 

もしかして、そのことについての記述があるのかもしれないと読んでみた本がシカゴ大学のラグラム・ラジャンというインド系の人が書いた『三番目の柱 (The Third Pillar)』でした。

 

世界的に有名な経済学者であるラジャンは現代社会を3つの要素に分解しています。それは地域共同体(community)と国家(state)と市場(market)からなり、次のように結論されています。

 

「市場の力が弱すぎれば社会の生産力は弱まり、民主的な共同体が弱すぎれば社会は縁故資本主義になってしまい、国家が弱すぎれば社会は恐怖に満ち溢れて無気力なものになってしまう。反対に市場が過剰になれば社会は不平等に、共同体が過剰になれば社会は動かなくなってしまい、国家が過剰になれば社会は権威主義的になってしまう。バランスが肝心だ!」

 

この結論部分を読むだけでも、現在の日本が抱える問題に対するヒントが隠されていると私は思います。

 

ところで一体この本のどこの部分が梅棹さんが指摘した「封建制度」に関係しているのでしょうか?

 

実はラジャンはコミュニティー(共同体)の原型をヨーロッパ、とくにイギリスの封建制度下の封土に見ているからです。

 

基本的に群雄割拠している封建制度下の封土における経済活動は領主の権力が及ぶ範囲でしか行われません。なぜなら領主の権力の及ばない場所で交易をしようとしても決して安全は保証されないからです。

 

だから最初の時期において封建制度下の封土における経済活動は自給自足的で非効率なものにならざるを得ませんでした。

 

ところがヨーロッパにおける軍事科学の発達が群雄割拠の状態を終わらせたとラジャンは書いています。

 

一つ目は大砲(cannon)の出現で、これでどのような強固な城も守れなくなってしまいました。

 

もう一つはここで訳してみます。私は読みながら笑いが込み上げてきました。

 

「戦術的解決はマスケット銃を持った兵士を長い線に平行に並ばせることで、最初の線上にいるものが銃を撃つと、撃ったものは2列目の後ろに下がり弾を込めるのである。そうすることで敵に対して連続的に発射できるのである。」

 

ラジャンは日本の歴史にはあまり詳しくはないようで、この本の中でも日本への言及はあまりありませんでしたが、家康の大阪夏の陣と信長の長篠の戦いを正確に指摘できるのは驚きでした。

 

この軍事的革命でばらばらの封建制度から国家の統一を達成したのはチューダー朝(1541〜1603)だとラジャンは書いています。

 

ちなみに家康が江戸幕府を開設したのは1603年でした。

 

続く

 

以前、エマニュエル・トッドの本を読んでいた時に、彼が日本の明治維新について下級武士が活躍したことを指摘して、それはフランス革命と同じように「中産階級」による革命だったのではないかと書いていました。

 

私はこのことがずっと気になっていて、フランス革命の本を数冊読んでトッドの言うことを少し理解できたのでここに書いてみたいと思います。

 

フランス革命は日本の明治維新からおよそ80年前に起こった出来事でちょうど日本では徳川11代将軍家斉の時代で老中松平定信が寛政の改革を始めていたころでフランスで革命が勃発した1789年は寛政元年にあたります。

 

当時のフランスは数々の対外戦争を行っており、特にイギリスとの間で行われた7年戦争により財政が悪化し、時の宰相であるルイ16世は財政の問題を討議させようと休眠中だった三部会を開催させるのです。

 

第一身分は当時フランスの国教であったカトリックの聖職者の代表が選ばれ、第2身分は貴族の代表が選ばれており、フランス革命をリードしていく第3身分は平民を代表しているということは高校の世界史の教科書で習いました。

 

では実際に第3身分において、どのような人たちが選ばれていたのかが、ジェレミー・ポプキンという人が書いた”New World Begins”という本に載っていたので引用してみます。

 

まず前段では、「第3身分に選ばれた600人の議員のうち圧倒的多数は法律のトレーニングを受けた者たちだった。218人は判事や下級判事を務めており、他の181人は自分たちを弁護士と認識していた。」と書いています。

 

ここだけを読めば日本とは全然違うのではないかと思ってしまいます。ところが、後段では次のように興味深い記述に出会うのです。

 

「ほとんどの第3身分の議員たちは、権力を持たない市民の中で圧倒的な割合を占める農民や職人、労働者達よりも豊かであった。そして、そのうち多数の者はぎりぎりで貴族と呼べる階級や貴族と近しい関係を持つ人々達であった。」

 

つまりフランス革命を起こした人々の社会的地位は下級の貴族出身が多く、それは明治維新で下級武士が活躍したのとほとんど同じ現象なのでした。

 

続く