イギリスの歴史家であるドミニク・リーベン教授がロシアの立場から見た第一次世界大戦を描いた”Toward the Flame”という本で第一次大戦はウクライナをめぐるドイツとロシアの戦いだったという独創的な指摘をしています。

 

これの本当の意味は、第一次大戦が始まる1914年当時の先進国ははもうこれ以上の植民地を獲得することは領土的にほとんど無理になっており、後発の帝国主義国であったドイツはヨーロッパの東側である東欧方面に膨張するしか道がなくなっていました。

 

しかし、そうすればどうしてもロシアが持っている権益とぶつかってしまうのでした。実際にドイツとロシアは第一次大戦でぶつかってドイツが勝利しブレスト=リトフスク条約でウクライナやベラルーシ、バルト3国やフィンランドをロシアから独立させたのでした。

 

ところが、ドイツは英仏やアメリカとの西部方面の戦いで負けてしまったために、このブレスト=リトフスク条約も無効になってしまったのです。

 

英仏やアメリカといった第一次大戦における戦勝国側はウクライナに対してどのように思っていたかは、カナダの歴史家マーガレット・マクミランがヴェルサイユ講和会議についてついて書いた『ピースメーカー』という本に次のように書かれています。

 

「イギリスのロイド・ジョージ首相は『私は一回だけウクライナ人を見たことがあり、これ以上見たいかどうかわからない』とコメントした。ウクライナに関する限り同盟国側は誰も独立を望んでいなかったのだ。」と現在とは正反対の態度を表明していたのです。

 

その結果、ウクライナはソ連にあっさり編入されて、スターリンの時代の農業の集団化によって多数の餓死者を出すというホロドモールと呼ばれる事件が起こっています。

 

そもそもこの土地は簡単に餓死者を出すようなところでは決してありませんでした。1914年においてウクライナはロシア帝国の1/3の小麦を産出し、これはほとんど輸出用であとは80%の砂糖を生産していました。鉱業においても70%の石炭、68%の鉄鉱石、58%の鉄鋼を生産していたのです。

 

リーベン教授は「もしウクライナの人口、工業、農業が存在しなければ、20世紀初頭のロシアは大国として存在することができなかっただろう」と記しています。

 

ここでなぜ長々と第一次大戦のことなど持ち出したのかといえば、1989年に米ソ冷戦が終了してロシアが気づいてみれば、ロシアの西側の国境はウクライナやベラルーシ、バルト三国も独立してしまい、ほとんどブレスト=リトフスク条約でドイツに決められた国境まで戻ってしまったのです。

 

アメリカの国務長官であったヘンリー・キッシンジャーは『外交』という本の中でブレスト=リトフスク条約を残酷なものだったと批判していますが、実はかなり先見性があったのではないかと私は思っています。

 

一方ロシアと東側で接する国境、つまり日本との国境は北方4島をロシアは維持したまま動かず、ソビエトが第2次大戦で一方的に中立条約を破って決定された国境がそのまま維持できていたわけです。

 

プーチン大統領は第2次大戦で勝利したことを現在でも心の支えにしている大統領ですから日本との現在の国境が自然な形であり、第一次大戦でドイツに決められた国境に満足できるはずがありませんでした。

 

特にベラルーシやウクライナという自分が兄弟と思っている国が、ロシアから離れていこうとすることに耐えられなかったのでしょう。

 

アメリカの海軍大学のニコラス・ゴスデフ教授はウクライナについて次のように書いています。

 

「プーチンの全ての計画の鍵は友好的で順応性のあるウクライナの政府だった。ウクライナの経済、資源、人口はロシアが率いるユーラシア・ユニオンに欠かせないものだった。ロシアはこれによって中国が指導するアジア圏とヨーロッパ-大西洋世界に対する独立したユーラシアの一極を作るつもりだった。」

 

これはイギリスのリーベン教授が第一次大戦の時に書いていることと全く同じことでした。

 

ロシアは経済的に、ほぼ韓国と同じぐらいしかないとよく指摘され、いかに核大国といえどもここでウクライナを失えば、アメリカと対等な関係を作るというプーチンの夢は達成不可能と考えた上での暴挙でしょう。

 

そして意外にもウクライナ側の頑強な抵抗に遭い、ロシアがウクライナを獲得できるかは難しくなってきそうで、その結果ロシアが大国でいられるのも怪しくなってきているのです。

 

最後にもう一度言うと、今我々は第一次世界大戦に負けたドイツがロシアに押しつけた国境を守るために戦っているのです。

最後におそらくは絶対に内部変革できない財務省に対してどのようにすればよいかを戦前と比較して考えてみたい。

 

戦前の明治憲法下での総理大臣の権限は現行の憲法よりもはるかに弱いものだった。

 

総理大臣の近衛がアメリカと交渉をするために障害となった外相の松岡洋右を辞めさせようとした時、彼を直接罷免することはできず、内閣を総辞職した上で新たな外相を任命するという厄介な手続きが必要だった。

 

では、それと同じ手法を近衛は中国からの撤兵を拒否する東條に対して使えなかったのだろうか?

 

おそらくは無理だっただろう。

 

なぜなら、当時は現役武官制というものが存在して、陸軍大臣には現役の武官しか任命することができなかったからだ。

 

もし中国と早期に講和しようと主張していた石原莞爾や多田駿などが現役で残っていたら、それが可能だったかもしれない。しかし彼らは予備役にさせられ残りの陸軍幹部で東條に反旗を翻すことができる人は存在しなかった。

 

現在では、このような厄介な制度はなくなっており財務次官の人事権は各大臣が持っており、その大臣は総理が任命するので政治の優位は確立されているはずだ。

 

だから財政を拡大させようとする政治家が多数になれば、財務省の人事に介入することで財務省を外部から変革させることはできるはずだ。

 

では、本当に自民党の内部で財政拡大派が有利になり、財務省を変革させることができるのかと問われれば、私にイエスと答える自信は全然ない。

 

おそらくは、財政拡大に賛成する野党議員の協力がないとうまくいかないのではないかと思われる。

 

いずれにしろ、何かと問題の多い現行憲法だが、政治の優位は確立されており、最後は戦前とは違い失敗したら完全に国民の責任になってしまうだろう。

私はこのまま財務省の言うままに緊縮財政を続けていくと、戦前に陸軍のいうなりになって亡国におちいったことを繰り返すことになると思う。

 

実際そうなっている。

 

では、戦前において、なぜ陸軍は方向転換ができずに日中戦争を抱えたままで対米戦に望むという戦略的に愚かなことをしてしまったのだろうか?

 

昭和12年に日中戦争が始まった時に、陸軍の中、主に参謀本部に石原莞爾や多田駿のような対中融和派が存在していました。

 

ところが第一次近衛内閣が中国との早期講和に失敗すると、東條英機のような対中強硬派によって彼らは陸軍から追放されてしまったのです。

 

陸軍は反対派を追放することによって組織の運営をスムーズにできるようになったと考えたかもしれません。組織内で厄介な反対派が消えてしまい、今でいうところの「一枚岩」が達成されたからです。

 

ところが今度は逆にそのお陰で政策転換が簡単にはできなくなってしまったのです。なぜなら鳥居民さんが指摘したように中国からの撤兵を実行すれば、中国との戦争を拡大した東條らの責任が追求されることになり、今度は彼らが予備役に編入されることになったかもしれないからです。

 

もし石原莞爾のような対中融和派を辞めさせず省内に置いておけば、軍部が中国から撤退するようになった場合でも省内の人事が転換することだけで済んだかもしれませんが、彼らを軍から追放することで政策の失敗がもろに組織の責任になってしまったのです。

 

現在の財務省もこれと同じ構造上の問題を抱えていると私には思われます。財務次官が一方的な意見を文藝春秋に書いたということは、財務省内でそれに対して政策的に反対する人は存在しなかっと想像できるのです。

 

つまり、現在の財務省は「ばら撒き批判」で一枚岩になっているのです。

 

だから基本的に緊縮財政がどんなに間違っていたとしても、財務省が内部から変革することはあり得ず、日本がどんだけまずい状態になっても積極財政には反対し続けるのだろうと私は思います。

 

東條英機が率いる陸軍が徹底的に中国からの撤兵に反対したように。