では近衛は「英米本位の平和主義を廃す」という論文の中で、どのような枠組みで第1次世界大戦を捉えていたか見ていきましょう。

 

彼は現状に満足している国(status quo powers)と現状に不満足な国(revisionist powers)に分けて国際政治を見ていました。

 

「欧州戦乱は既成の強国と未成の強国の争いなり。現状維持を便利とする国と現状破壊を便利とする国の争いなり。現状維持を便利とする国は平和を叫び、現状破壊を便利とする国は戦争を唱う。平和主義なるゆえに必ずしも正義人道に叶うにあらず、軍国主義なるゆえに必ずしも正義人道に反するにあらず。」

 

イギリスの歴史家ドミニク・リーベンが『炎に向かって』で述べているように、第一次大戦が始まった1914年においてドイツが新たに獲得するような植民地は存在せず、東欧の方に膨張していくことになったのですが、そうなれば必然的にロシアの権益とぶつかり戦争になってしまったのです。

 

そこで、確かにドイツのやったことは武力本位の軍国主義で非難されるべきだが、英仏が多量の植民地を抱えた結果、他の後進国は獲得すべき土地がなく、そのような根本的な不平等の方が正義人道に反するのではないかと近衛は言うのです。

 

近衛がどこからこのような区分けを見つけてきたのか、本人が考え出したのかは書いていないのでわかりませんが、現状に満足している国とそうでない国という分け方は現在のウクライナ戦争を考える上でも有効な考え方になると私は思います。

 

1990年代に米ソ冷戦が終わった時、ソ連からバルト3国やウクライナ、ベラルーシなども独立してしまいロシアの西側の国境はちょうど近衛がこの論文を書いた一年前にドイツと結んだブレスト=リトフスク条約とほとんど変わらない戦まで押し戻されたのでした。

 

この時点でロシアは現状に対して大いなる不満を持つ国になってしまったのです。

 

一方、冷戦に勝利したアメリカは、現状に満足している国にあたるはずですが、実際はその優越的な地位を濫用して世界の一極支配を目指しました。

 

それがイラク戦争やNATOの拡大でした。どう考えてもこれらの政策はアメリカが現状維持を図ってやったとは考えられないのです。

 

そしてロシアのような現状に不満を持っている国がそれを平和理に修正してくれる国内における立法機構のような役割は国際政治の場には存在しないということをハンス・モーゲンソーは『国際政治』で指摘しています。

 

E.Hカーも『危機の20年』で「諸国家それぞれに特に同意を得ることなく拘束力を持つ指令を発しうる立法的権威が確立されるには、十分に統合された国際政治秩序が条件となるが、それが存在しないことが難点である」と指摘しています。

 

では現状に不満を持っている国にどう対処すれば良いのか。カーは次のように書いています。

 

「不満足国家が、平和的交渉によって不満を和らげることができると悟った時、『平和的変革』の一定の手順が次第に確立されていって、不満足国家の信頼を得るに至るであろう。そして、そのような体制が承認されるとなると、調停は当然のことと考えられるようになり、実力による脅しは形式には捨てられてないとしても一歩一歩後退してゆくはずという希望が持たれる。」

 

確かに、ロシアのやったことは国際法違反の予防戦争なので批判すべきなのですが、「リアリズム外交」は結果だけで判断するのではなくプロセスも重要という立場であり、アメリカのNATO拡大のやり方は上記したカーの提案の正反対のやり方なので現代リアリズム外交の後継者であるミアシャイマー教授がアメリカの責任を問うことは筆者も割と納得できるのです。

私はE.H.カーの『危機の20年』を読んだ時に衝撃を受けて、それからいわゆる英米の「リアリズム」外交に興味を持つようになりました。

 

アメリカの場合だと最も感銘を受けたのがジョージ・ケナンの『アメリカ外交50年』やアントワープ・マクマリーの『平和はいかに失われたか』などです。

 

現在でもアメリカにおいては「リアリズム」外交の伝統は多数派でないもののしっかりと存続しており、今回のウクライナ戦争で一波乱を巻き起こしたシカゴ大学のジョン・ミアシャイマー教授やハーバード大学のスティーブン・ワルト教授などがいらっしゃいます。

 

では、日本の歴史において、ジョージ・ケナンやミアシャイマーのようなリアリズム外交を体現した言論を展開した人物がいたでしょうか。

 

私が今まで読んだ中で彼らとほぼ同じ論理を展開していると感じたのは、戦前に総理大臣にもなった近衛文麿が第一次大戦の終わり頃に書いた「英米本位の平和主義を廃す」の中でした。

 

現在ウクライナで戦争が起こっているわけですが、近衛が大正7年に書いた論文が何か参考にならないかもう一度目を通してみました。

 

近衛はこの論文で当時の英米のリベラル的な言説を次のように書いています。

 

「世界の平和を攪乱したるものはドイツの専制主義軍国主義なり、彼らは人道の敵なり、吾人は正義人道のためにこれを膺懲せざるべからず、すなわち今次の戦争は専制主義軍国主義に対する民主主義人道主義の戦いなり、暴力と正義の争いなり、善と悪の争いなりと。」

 

ドイツの部分をロシアに変えたら、そのまま100年後の現在でも一字一句違わず同じ主張が繰り返されているのは驚きでした。

 

この文章を読むとだんだん不安になってきます。なぜなら第一次世界大戦においてアメリカは最初当事者ではなかったのですが、アメリカの世論がだんだんと反ドイツになってきた挙句にドイツの無制限潜水艦戦で参戦することになってしまったわけです。

 

今回も最初はウクライナを防衛することから今ではオースティン国防長官が言うようにロシアを弱体化させることが同盟国の目的となり、介入の度合いが一段と高まってしまいました。

 

果たしてロシアが戦線を拡大しNATOを攻撃して第3次世界大戦に発展する可能性をも考えなくてはならないような情勢になってきているのです。

 

次回は近衛がこの論文で使ったのと同じ論理で現在のウクライナの戦争を考えてみたいと思います。

イギリスのデビッド・グッドハートの『Head,Hand,Heart』という本を読んだので、感想を書いてみたいと思います。

 

この本を書く以前にグッドハートは『Road to Somewhere 』という本を書いていて、今回の本はその続きにあたるので前作について簡単に書いておきます。

 

イギリスでは30%の人が大学を卒業して学士の資格を持つそうです。この人たちは地元の高校を卒業して都会の全寮制の大学に行き、卒業すればロンドンなどの大都市の大企業で働くのです。

 

この人たちをグッドハートはanywhere(どこでも)族と呼び、冷戦が終了した後のグローバリゼーションを進展させた担い手となり、経済的な思想ではレーガン大統領やサッチャー首相が提唱したネオリベとの親和性がかなり高いそうです。

 

それに対して他の大半の人たちは中学や高校を卒業して地元で働くことになるのですが、この人たちにとってグローバリゼーションが進む経済では実質賃金がほとんど伸びず、給料がそんなに高くないサービス産業で働かざるを得ず、生活は苦しくなっていくばかりなのです。

 

グッドハートはこの人たちのことをsomewhere(どこかに)族と命名しています。

 

その結果、「最小限(minimal)の学歴を持つ75%の人たちがEUから離脱するブレグジットに賛成する一方、大卒以上の学歴を持つ人たちの75%はEUに残ることに賛成した。同じようなことは2016年のトランプ大統領の選挙にもみられた」のでした。

 

イギリスやアメリカの政治が2極化している背景にはこのような問題が存在し、日本を含めた先進国はどこも同じ問題を抱えていると私は考えています。

 

さていよいよ本題に入りましょう。この本のタイトルにもあるようにHeadは頭を使う職業、Handは職人をHeartは介護や看護に携わる職業を表しています。

 

第2次大戦後はアメリカを筆頭に全ての国民に高い教育を与えることが幸せにつながると考え、多数の大学を作り、なるべく多くの子供たちを大学に行けるようにしたわけですが、そのことで本当に社会は良くなったのでしょうか?

 

今はどこの大企業も入社するのに大卒の資格が必要ですが、実際は大卒でなくてもできる仕事はかなりあります。それでも入社資格を大卒にすることによって彼らを優遇することになっているのです。

 

政治においても例えばアメリカにおいて、オバマ大統領の2期目では「93%の下院議員、99%の上院議員が少なくとも大卒の資格を持っているのですが、アメリカ平均では32%に過ぎないのです。」とグッドハートは書いています。

 

そのため先進国では「大卒の大卒による大卒のため」の政治が行われており、大半の大卒でない人の利益は無視されているとはいませんが、かなり優先順位は低くなっているのです。

 

日本を含めた先進国はどこも同様で、そのことで看護や介護などのどちらかといえば 知能指数よりも感情指数(emotional intelligence)の高さが必要とされる職業の賃金は安く据え置かれたままになっています。

 

さらに、これ以上に大卒を増やしても、その仕事の多くはAIなどに置き換わることが予想されます。

 

そこでグッドハートは「たくさんの人々を高等教育に導くのは20世紀の後半には意味のあることだが、現在においては政治的にも経済的にも重要でなくなってきている」と結論づけています。

 

また地方の優秀な若者が都市の大学に行ってしまって故郷に戻ってこないことは当然地方の衰退に直結します。

 

だからこれ以上むやみに大学を増やすよりも、もっと職業教育などに重点を置いた方が格差の拡大を考える上でも有意義でしょう。

 

グッドハートは偏差値の高い大卒は必要だが、現在のように30%も必要ではなく15%で充分ではないかと書いており(つまり現在の大学の数を半分にする)、その人たちには優秀な能力で頑張って働いてもらえれば良いのではと提案しています。

 

彼の書いていることはおそらく全ての先進国に当てはまることで、当然日本でもこれから課題になってくると私は思います。