韓国は、日本との軍事的情報共有の法律を通すことに失敗し、その責任をとって2人の高官が辞めざるを得なくなりました。特に外交通称省の場合、後任に決まったのが始めてのチャイナ・スクール出身者だそうです。このように、現在の韓国では、ジャパン・スクールに変わってチャイナ・スクールの出身者が登用されているとジャパン・タイムズに書かれていました。

また、産経新聞の湯浅博記者も次のようなことを書かれています。

「李大統領の竹島上陸は8月10日だが、それ以前に中国の国際情報紙、環球時報が『日本との軍事協定を結ぶな』と脅していたからだ。社説は『中国は韓国に影響を及ぼせる手段を多数持つ』と経済面の報復を示唆した」

このように、現在の韓国はあたかも日清戦争以前の状態に戻った感があり、日本との対立も一時的なものではなく、構造的なものになっています。

ところで、アメリカは日米韓でしっかりと同盟関係を結んで、中国や北朝鮮と対抗しようとしていた矢先に日本と韓国が喧嘩になったことで驚いています。

ラルフ・コッサというアメリカ人研究者は慰安婦問題をアメリカが調停することで日韓の不和を解決するという文章を書いていますが、大いなる勘違いです。

中国の国力増強と相対的なアメリカの国力低下が現在のような状態を生んだのです。

韓国は中国相手の日米韓同盟などには決して加わらないでしょう。それよりも米中の対立を利用して漁夫の利を得たいと思っているはずです。
今回の日韓関係を見るにつけ、すぐさま私の脳裏によぎったのがアメリカ人外交官アントワープ・マクマリーの言葉です。

 「日本人は、表面的には感情を表さないように見えるが、実は深い憤りを密かに育て、不意に逆上して手のつけられなくなるような国民なのだ。真の指導者と認めて忠誠を捧げている人たちによって抑制させなければ"とことんまで突っ走る"性癖がある。こんな国民は世界に例がないと思われる。」

どうも韓国は、日本人の怒りのボタンに勝手に触れたみたいです。

韓国の新聞は、野田政権がいなくなれば以前のような関係に戻れると思っているようですが、多分そうはならないでしょう。

韓国が日本の首相からの親書を内容が無礼だからと拒否したのは、これで2回目です。最初は明治新政府が李朝に送った親書が同じような憂き目にあっています。

この後、日本で征韓論が持ち上がりますが、西郷の下野で危機は回避されました。しかしながら明治の親書拒否以来、日韓関係はぎくしゃくしたままで日韓併合までいってしまったのです。

今回の事件はどこまでいくのでしょうか。

おそらくは朝鮮半島が統一される時でしょう。韓国だけでは手におえなくなって、その時にようやく日本の力が必要なことを悟るのです。

それまでは、日韓冷戦です。
久々の更新ですいません。

アメリカのフーバー元大統領が書いた『裏切られた自由』という本は、以前にこのブログでも取り上げました。今回、キンドル版を手に入れましたので、この本の中の日本について書かれているところを訳してみます。

第38章

日本を通してー日本に対する全面的な経済制裁と日本からの和平への提案。

このメモワールの目的は、1941年の半ばから数年をさかのぼって日本とアメリカの関係を深く掘り下げるものではない。しかし、日本はアメリカが戦争に参加する直接の道のりになったわけで、この期間の重大な出来事を記述することは、日本の真珠湾攻撃に至る道を把握するのに必要である。

さらにこの問題が重要なのは、この当時に起こった本当の事がアメリカ国民に全く知らされておらず、この世代の子供達が全くこの事を学校で習わない事である。

1941年の半ば、国際力学が急激に変化した。ヒトラーが1941年6月にソ連邦を攻撃した事で、日独伊三国同盟を捨て去った。その結果、日本にとってのソビエトの脅威が大きくなったのである。(少しわかりにくいですが、フーバー大統領は三国同盟でソビエトを封じ込めていたと考えていたようです。ヒトラーの攻撃によってこの封じ込めの機能が無くなり、日本に対するソビエトの脅威が増大したと書いたみたいです。訳者注)

アメリカの経済制裁と中国を援助するためのアメリカの海からの圧迫は、日本の災難を拡大させた。日本は中国への侵略を通じて、主要な沿岸地帯を占領した。しかし、彼らは、この征服を完了できず、泥沼にはまっていた。

日本が困難に陥った結果としての一つが、アメリカとイギリスーアングロサクソンに対して平和を求める事であった。

ルーズベルト大統領は、1940年から中国を助けるために、日本に対して経済的な圧迫を加えていた。さらなる圧力として、ワシントンはアメリカ太平洋艦隊の拠点を太平洋岸からハワイに移した。

日本の軍国主義は永らく陸軍に存在した。一方、日本の海軍は近衛文麿を代表する日本のリベラル派と結びついていた。そして、この近衛侯こそがアメリカとイギリスーアングロサクソンとの緊張関係を終わらせようと考えていたのである。

1941年5月に太平洋での日米の関係性向上を目的とした日本の公式な提案がアメリカ派である野村吉三郎提督がアメリカ大使に任ぜられる事でもたらされた。

しかし野村の努力は、反アメリカ派である松岡洋右外相によって抑制されていた。

1941年6月18日、近衛首相は松岡を閣内から追放し、親米派の豊田貞次郎を代わりの外相につけることで、新内閣を組織した。

豊田外相の任命は、ルーズベルト大統領やハル国務長官にとって、日本のリベラル派が勝利したことの合図であったし、日本の中国への侵攻を終わらせる良い雰囲気を漂わせていた。

1940年9月にグルー駐日大使は日本に対して、「禁輸」を促すグリーン・ライトの電信を送っていたのだが、彼は1941年になって平和は可能だと考え、経済制裁は危険だと何回も警告を出していた。

ところが、1941年の7月25日、ヒトラーのソビエト侵攻から一ヶ月経って、ルーズベルト大統領は、日本の提案を無視して更なる経済制裁を課した。日本のアメリカへの輸出とアメリカから日本への輸入は、アメリカ政府が管理し、アメリカでの日本の資産は凍結された。同じ処置はイギリスとオランダによってもとられた。

アメリカの更なる制裁は日本に3つの選択肢をもたらした。

1 タイやマレーシア、インドネシアなどに南進して、必要な食料や燃料を確保すること。

2 制裁の総本山であるアメリカをたたく。

3 アングロサクソンとの平和を模索する。

8月4日、近衛首相と陸軍、海軍と協議を開始し、近衛はルーズベルト大統領と直接会談することを提案した。この近衛の決断は、海軍から完全な支持と陸軍からの同意を受けた。天皇も近衛がなるべく早く大統領に会うことを促した。

1941年8月8日、野村駐米大使は東京からの指示で近衛首相がルーズベルト大統領とアメリカの太平洋岸で会いたいということをハル国務長官に公式に伝えた。

スティムソン陸軍長官は、この会談に反対であった。彼は日記に「これはアメリカが決定的な行動を起こすことを妨げるものだ」と書いた。

この首脳会談の情報を受けて、ルーズベルト大統領とチャーチル首相は、大西洋憲章を決める会談(1941,8/9-8/14)で日本への行動を決定した。

彼らは、近衛首相の提案を無視して、日本に対して厳しい警告を発することを決めた。

しかし、チャーチル首相は、ルーズベルトの態度に疑問を抱いていた。8月12日、彼はシール卿に次のような電報を打った。

「アメリカ国務省はいつも和らげた表現を使うが、今回の日本に対する説明ではそうならないことを大統領は約束した。」

一方、チャーチル首相は日本が東南アジアで軍事行動に出て、イギリスの極東における所有物に影響が出ることが心配であった。

そこで、ルーズベルト大統領は、チャーチル首相の心配を和らげるために日本との交渉を引き延ばすことを引き受けた。

フォレスト・デービスとアーネスト・リンドレーの『いかに戦争は来たか』という本の中で、大西洋会談の出来事を次のように描写している。

「『三ヶ月でいいかい』ーチャーチルは同意した。しかしチャーチルは英米が協調して声明を出すことの方が、時間を稼げるのではないかと疑っていた。『私に任せてくれ』と大統領は言った。『3ヶ月間あやしてみせる』」

私は後にデービスにこの情報はどこから来たのか尋ねたところ、彼は「その会議に参加していたウェルズ次官補からだ」と答えた。

大西洋会議から戻ってすぐの8月17日にルーズベルト大統領は野村大使と面会した。この会談で大統領はチャーチル首相と共に作成した声明を大使に提出したが、国務省が手を加え、ハル国務長官が言うところの「警告」と「甘言」に分けられていた。

警告

アメリカ合衆国政府は、日本政府に対して次のようなことを言う必要がある。もし日本政府がこれ以上の力による圧倒や隣国に対する軍事的恫喝を続けるならば、アメリカ政府は緊急にあらゆる措置をとる。

甘言

アメリカ政府がこれまで日本政府にしてきたように、日本政府がこれまで以上にはっきりとした声明を出すことを求める。

この同じ会議で、野村大使はすでに知られている近衛首相の首脳会談を提案する文書を提出した。そしてルーズベルト大統領に、この頂上会談で素晴らしい結果が出るという近衛の信念を伝えた。

近衛がこのような首脳会談を提案することは、彼にとって個人的な危険性があった。失敗すれば、彼は日本の政界から消えることを意味したからだ。

ルーズベルト大統領は、野村大使に対して、首脳会談を行うことは嫌ではなくアラスカをその場所に指定した。