伊藤整(カラー処理)
伊藤家の墓
墓誌
小説家、詩人、文芸評論家、翻訳家の伊藤整は、明治38年(1905)に北海道で生まれ、小樽高等商業学校(小樽商科大学)を卒業後、旧制小樽市立中学の英語教師を務める一方、詩の創作活動を行い昭和元年(1926)に詩集『雪明りの路』を自費出版している。
昭和3年(1928)に東京商科大学(後の一橋大学)に入学しフランス文学を学ぶ。下宿先で梶井基次郎、三好達治、瀬沼茂樹ら文人と親交を結び、瀬沼茂樹の主催する『一橋文芸』に短編小説を寄稿するなど、活動を小説と評論に転じ文壇デビュー、フロイトの精神分析学やジョイス、プルーストらの20世紀文学の方法の影響を受けた「新心理主義」 の作品を発表していく。
戦後には詩、小説、評論、戯曲などのさまざまな形式を組み合わせた現代知識人文学の代表作『鳴海仙吉』(1946-48)を発表。
海外作品の翻訳にも力を入れるが、昭和25年(1950)に刊行し大ヒットしたD・H・ローレンス『チャタレイ夫人の恋人』完訳版が猥褻文書として発禁となり起訴され裁判で有罪となる。わいせつと表現の自由の関係が問われたチャタレー事件は、最高裁判所が初めてわいせつとなる要素を示し、後の同様の裁判に大きな影響を与えている。
晩年は日本ペンクラブ副会長(1962)、日本近代文学館理事長などを歴任し、『日本文壇史』(1952-69)により菊池寛賞受賞。昭和44年(1969)に64歳で亡くなっている。
村山市萩山町1-16-1 小平霊園 4-9-36