第41代内閣総理大臣 小磯国昭 | 墓守たちが夢のあと

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小磯家の墓

 

小磯国昭

 

 昭和19年(1944)第二次世界大戦による戦況悪化で退陣した東條英機の後継として、第41代内閣総理大臣に就任したのが小磯国昭です。
 明治13年(1880)栃木県宇都宮で山形県士族(旧新庄藩士)小磯進の長男として生まれた国昭は、陸軍士官学校(12期)、陸軍大学校(22期)を卒業。
 大学の成績はそれほど優秀ではなく、決してエリートではありませんでしたが、コミュニケーション能力の高さから陸軍の実力者である宇垣一成に重用され、軍務局長に抜擢されるなど頭角を現していきます。
 しかし昭和6年(1931)に、銃撃により療養中であった浜口首相を退陣させ、宇垣陸相を首相にしようとする軍事クーデター計画(三月事件)が発覚。宇垣派は排除され、小磯も計画に関与したとして関東軍参謀長として地方へ追いやられます。
 宇垣派に代わり軍の実権を握った皇道派は政権運営能力に乏しかったと言われ、そうした不満から昭和11年(1936)に青年将校が決起した「二・二六事件」が発生。事件を機に皇道派は壊滅し、東條英機ら統制派が陸軍の実権を握っていきます。
 朝鮮軍司令官になっていた小磯は陸軍大将に進級しますが中央を離れて久しく、昭和13年(1938)に予備役に編入され軍の第一線を退きます。そして昭和14年(1939)平沼内閣、翌年の米内内閣で植民地統治を担当する拓務大臣に就任。
 太平洋戦争開戦後の昭和17年(1942)には朝鮮総督に就任し、朝鮮人官吏を積極的に登用する一方、朝鮮での徴兵制を施行するなど、いわゆる皇民化政策を推進していきます。
 その後、長引く戦況により劣勢となった日本では、東條内閣の退陣が決定的となり、その後任として小磯が首相に指名されることになります。ただし、国内にさしたる政治基盤を持たない小磯の指導力不足が危惧され、天皇から下された大命は、海軍出身の元首相・米内光政と共に組閣を行うという異例の内容でした。
 組閣は副首相格の米内が海軍大臣に就任することに当初海軍幹部が反発。さらに東條英機が陸軍大臣として閣内に留まる動きを見せるなど人事が難航し、小磯内閣は波乱のスタートとなります。
 早期の和平交渉により戦争終結を目指していた小磯でしたが、予備役であったため規則により大本営の会議に出席できず「最高戦争指導会議」設置による国務と統帥の一元化を目指しています。しかし軍部の抵抗で戦争に対する有効な打開策を講じることが出来ませんでした。
 小磯は陸軍を掌握するために陸軍大臣の兼任を画策しますが陸軍の拒否により断念。政権は行き詰まり昭和20年(1945)発足から約8ヵ月半で総辞職しています。終戦の4ヶ月ほど前の出来事でした。
 戦後、極東国際軍事裁判においてA級戦犯として終身刑の判決を受けた小磯は、昭和25年(1950) 巣鴨拘置所内で病のため亡くなっています。享年71歳。


青山霊園 1種ロ8号33側11