日本警察の父 川路利良 | 墓守たちが夢のあと

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川路利良の墓と碑

 

川路利良

 

 初代大警視(警視総監)を務め、日本における近代警察制度確立に尽力し、「日本警察の父」と呼ばれている川路利良(かわじ としよし)は、天保5年(1834)に薩摩藩の下級武士の家に生まれます。
 鳥羽・伏見の戦いでの活躍を西郷隆盛に認められて明治政府に仕えると、司法省の西欧視察団の一員として欧州各国を視察し、帰国後にフランスの警察制度を参考に日本の警察制度を建議。明治7年(1874)警視庁創設に伴い初代大警視に就任しています。
 明治6年の政変で西郷隆盛が下野した際に川路は「大義の前には私情を捨ててあくまで警察に献身する」と宣言。大久保利通の腹心として密偵を用い動向を探っています。
 西南戦争で川路は陸軍少将を兼任し、征討別働第3旅団司令長官として出征。激戦となった「田原坂の戦い」では、警視隊から選抜された抜刀隊が活躍し西郷軍を退けています。
 なお、西南戦争が勃発する前、川路が放った密偵が西郷の門下生に捕えられ、激しい拷問の末に西郷を暗殺しようとしたと供述。そのため川路は長らく西郷を暗殺しようとした人物として大久保と共に故郷で裏切り者の扱いを受けています。
 明治11年(1878)に薩摩閥で、後に第二代内閣総理大臣となる黒田清隆の妻が急死。清隆は酒乱で知られていたため、酒に酔って妻を斬り殺したとの噂が流れます。川路はこの時、墓を開け、病死であることを確認したと発表しています。しかし、同じ薩摩閥であった川路が事件をもみ消したという風評がたち、その二ヶ月後に発生した大久保利通の暗殺(紀尾井坂の変)の遠因になったともいわれています。
 なお、石川県士族を中心とした大久保の暗殺計画について、川路は事前に情報を得ていましたが、「石川県人に何が出来るのか」と無視していたそうです。
 明治12年(1879)、再び欧州視察に出発した川路は、その旅の途中に発病し帰国後に死亡。享年46歳。
 警察制度を確立した川路の評価は高く、その語録をまとめた「警察手眼」は、警察官のバイブルとして現在でも広く読み継がれているそうです。


墓所:東京都港区南青山 青山霊園 1種イ4号1側