明治の元勲 岩倉具視 | 墓守たちが夢のあと

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海晏寺

 

岩倉具視の墓 墓の前の鳥居だけ見えていまiした

 

岩倉具視が襲撃された喰違見附跡

 

岩倉具視

 

 品川区南品川にある海晏寺は、建長3年(1251)に鎌倉時代幕府5代執権北条時頼により創建された寺院と伝えられています。本尊の観音像は、品川沖でかかった鮫の腹から出てきた物と伝えられ、この辺りの地名「鮫洲」の由来となっています。
 海晏寺境内にある墓地に、塀の外からしか見えませんが、幕末から明治維新にかけて活躍した岩倉具視や松平春嶽の墓があります。
 岩倉具視は公卿・堀河康親の次男として文政8年(1825)に生まれ、師事していた儒学者・伏原宣明の推薦により中級の公家・岩倉家の養子となります。
 岩倉家は羽林家の家格を有するものの、江戸時代にできた新しい家のため、高い官職につくことはなく、家計も裕福ではなかったと言います。
 岩倉は関白・鷹司政通へ歌道入門したことで、朝廷首脳に発言する機会が増え、安政5年(1858)に老中・堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を得るため上京した際には、勅許を与えようとした関白・九条尚忠に抗議するため、公卿88人で押しかけ断念させています。
 改革派の公卿として頭角を現していく岩倉ですが、井伊直弼による「安政の大獄」が始まると、影響が皇室にまで及ぶ事を危惧し、幕府寄りの姿勢をとります。
 井伊直弼暗殺後も、朝廷の権威高揚のため公武合体政策を推進し、皇女和宮の降嫁にも協力していますが、朝廷内で長州藩を中心とする尊王攘夷派が台頭してくると佐幕派の公家として糾弾されて失脚。朝廷を追われ、京都・洛北の岩倉村で幽閉生活を送ることとなります。
 文久3年(1863)に起きた「八月十八日の政変」および翌年の「禁門の変」により尊王攘夷派の公家や長州藩が朝廷から一掃されると、岩倉は薩摩藩との結びつきを深め、立場を討幕派へと転じていきます。謹慎は解かれていないものの、朝敵となった長州藩への征伐に薩摩藩と同調して反対する建白書を出すなど徐々に復権に向けた足場を固めていきます。
 幕府に対して理解のあった孝明天皇が崩御し、15歳の明治天皇が即位すると、徳川慶喜は大政奉還を行いますが、その真意は新しい政府で徳川家の影響力を維持することにあったとも言われています。
 ようやく謹慎を解かれた岩倉は、薩摩藩の大久保利通と画策し、王政復古の大号令案を奏上。新政府では大久保と共に参与に就任し、徳川慶喜の影響力を排除するため領地返納を命じ、度重なる挑発を行い「鳥羽伏見の戦い」が勃発します。そして岩倉は徳川討伐を主導し新政府での影響力を強めていきます。
 その後、岩倉は皇族、大名と同等の権限を持つ議定となり、行政官のトップである輔相も兼務して新政府の実質的トップの立場となっています。
 明治4年(1871)廃藩置県があった同じ日に外務卿に就任した岩倉は、不平等条約解消のために欧米諸国への使節団(岩倉使節団)を派遣。自ら特命全権大使となり、参議・木戸孝允や大蔵卿・大久保利通、工部大輔・伊藤博文らと共に、1年10ヶ月にわたり各国を歴訪します。
 西欧諸国との国力の差を痛感して使節団は明治6年(1873)に帰国しますが、当時、留守政府では国交樹立を拒む李氏朝鮮への対応を巡り「征韓論」が高まっていました。
 岩倉は清などの動きを警戒し大久保と共に反対の立場をとり、自らを特使として朝鮮へ派遣するよう求める西郷隆盛と対立。西郷も岩倉も否決された時は辞職する構えを見せたため、対応に苦慮した太政大臣・三条実美は心労のあまりに倒れてしまいます。
 太政大臣代理となった岩倉は特使派遣を却下したことで、西郷は野に下り、後に「西南戦争」へと繋がっていきます。
 明治7年(1874)のある日の夜、岩倉は赤坂仮皇居からの帰路に江戸城外堀の喰違見附で、征韓論に賛成する不平士族の襲撃を受けます。喰違見附は外堀の中で最も高く、水面との高低差がかなりある場所であったため、そこに転落した岩倉を襲撃犯が見失い、軽傷を負っただけで済んだと言われています。
 なお、岩倉の襲撃から4年後に、喰違見附のすぐ近くの紀尾井坂で、盟友の大久保利通が暗殺される「紀尾井坂の変」が発生しています。
 明治8年(1875)に明治天皇による「立憲政体の詔書」が出され、日本は憲法制定に向けて動きだします。岩倉は国体一変の恐れがあるとして立憲には否定的でした。
 しかし、自由民権運動の高まりで憲法制定への動きが加速したため、君主の政治的な権限を重視するドイツ憲法を模範とした憲法制定を主張している伊藤博文に作業を任せます。
 しかし、岩倉は「大日本帝国憲法」制定(明治23年施行)を見ることなく明治16年(1883)に病のために亡くなります。享年59歳。死因は咽頭癌で、診察した医師により行われた告知が、記録に残る日本初の癌告知だそうです。岩倉の葬儀は、日本初の国葬として執り行われています。


海晏寺:東京都品川区南品川5丁目16-22
喰違見附跡:東京都千代田区紀尾井町5-2