
龍像寺
相模原市中央区東淵野辺にある「淵源山龍像寺」は、曹洞衆広沢寺の末寺です。
縁起によると暦応年間(1338~1341)、村の東にあった大きな池に住んでいた大蛇が、しばしば人畜に被害を及ぼしていたため、当時の地頭・淵辺義博が、かぶら矢を放ち退治。蛇体は三つに分かれ飛び散ったため、それぞれの地に葬り龍頭寺・ 龍像寺・龍尾寺を建立したと伝えられています。
その後、3寺とも荒廃してしまいましたが、弘治2年(1556)に巨海和尚により3寺を統合する形で龍像寺が再興されています。

龍像寺には、江戸時代の淵野辺村領主、旗本岡野氏一族の墓所があります。
岡野氏の初代、板部岡融成(江雪斎)は、小田原北条氏の外交僧として活躍。北条氏滅亡後は豊臣・徳川両氏に仕えた人物です。

天文6年(1537)鎌倉幕府執権北条氏の末裔と称する田中泰行の子として伊豆下田にて生まれた融成は、江雪と言う真言宗の僧侶でしたが、北条氏政の命により板部岡康雄の養子となり家督を相続。右筆・評定衆として活躍します。
また、寺社奉行として寺社の管理にも関わり、佐竹氏との戦いの戦勝祈願や、病に倒れた北条氏康の平癒祈祷などを行っています。
天正元年(1573)に北条氏の盟友・武田信玄が亡くなった際には、氏政の名代で病気見舞いとして甲斐国に赴きますが、信玄の弟・信廉が影武者となっていることを見抜けず「信玄生存」と報告する失態を犯しています。
しかし、北条・武田の同盟決裂後に結ばれた織田信長との同盟では、江雪が北条の使者を務め、「本能寺の変」で信長が亡くなった後、信濃国をめぐり徳川家康と北条氏直の戦い(天正壬午の乱)が始まると、和睦交渉に奔走し、家康の娘・督姫を氏直の正室に迎えるという北条に有利な和睦を取りまとめています。
天正17年(1589)、北条氏と豊臣秀吉との対立が深刻になると関係修復に尽力。北条と真田との間で起きた沼田領問題では秀吉が裁定を下すことになりますが、江雪斎は北条の代表として事情説明のために上洛しています。このとき、秀吉は江雪斎を大変気に入り、自ら茶を点ててもてなしたと言われています。

小田原征伐により北条氏が没落した後、江雪斎は岡野融成と名を改め、秀吉の御伽衆となります。秀吉の死後は長男・房恒が仕える徳川家康の家臣になり、「関ヶ原の戦い」では、先行して関ケ原に赴き、小早川秀秋の説得を行っています。その後も徳川家康に近侍し、慶長14年(1609)に伏見で亡くなっています。
その後、江雪斎の子孫は旗本として存続しています。長男・房恒の家系は武蔵国都筑郡長津田村(現・神奈川県横浜市緑区長津田)を所領。そして、次男・房次の子の英明が淵野辺村を所領し、龍像寺を菩提寺としたのです。英明の死後、淵野辺村は本家 貞明・分家 友明に分知され、幕末まで続いています。龍像寺には江雪斎の供養塔があります。
龍像寺:神奈川県相模原市中央区東淵野辺3-25-1