谷干城 | 墓守たちが夢のあと

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 土佐藩士の谷干城(たに たてき)は武市瑞山の影響で尊王攘夷運動に参加。慶応2年(1866)に長崎を視察した際には後藤象二郎坂本龍馬と交わり薩土討幕密盟にも関わっています。
 
 
 谷は土佐藩の上士の出身でしたが下士の坂本龍馬を尊敬していたと言われ、慶応3年(1867)に龍馬が暗殺され際には、真っ先に駆けつけ、まだ息のあった中岡慎太郎から経緯を聞きだしたと言われています。谷は暗殺犯は新選組ではないかと考えていたため戊辰戦争の際に新撰組局長・近藤勇が捕えられると反対意見も多い中、強行に近藤の処刑を主張し、斬首刑が執行されています。
 
 
 戊辰戦争で大軍監として東北に転戦した谷は陸軍に入り、明治6~8年には熊本鎮台司令長官として「佐賀の乱」の鎮定に当たっています。台湾出兵の際には台湾蕃地事務参謀として西郷従道を補佐。帰国後、再び熊本鎮台司令長官に就任すると西南戦争(1877)で熊本城に籠城し城を死守しています。西南戦争の功績により陸軍中将に昇進、陸軍士官学校長などを歴任した谷ですが、政治を薩長が独占していることを批判し、陸軍では反主流派としての立場を強めていきます。その後、明治18年第1次伊藤博文内閣では農商務大臣に就任しますが、内閣の欧化政策や、井上馨外相が進める不平等条約改正案に反対し大臣を辞職。その後、貴族院議員となり、地租増徴や、日露戦争開戦反対などで土佐派の重鎮として活躍しています。
 谷干城は明治44年(1911)に75歳で亡くなり、谷中霊園に葬られています。
 
谷中霊園 乙9号11側