![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20190703/08/mintaka65/55/b1/j/o1080082214490007272.jpg?caw=800)
山邊家墓所
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20190703/08/mintaka65/47/0c/j/o1001115814490007278.jpg?caw=800)
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20190703/08/mintaka65/23/5d/j/o0819097914490007284.jpg?caw=800)
大阪市阿倍野区の「市設南霊園」、その入口付近に山邊家の大きな墓があり、気になって調べてみました。山邊家墓所の中央に「山邊龍一」と刻まれた巨大な墓石がありましたが、この人物についてはよく分かりませんでした。
しかし、その隣りに墓がある「山辺丈夫」は、繊維業を中心に化成・バイオ・医薬などを手がける「東洋紡」の創業者である事が分かりました。
山辺丈夫は、嘉永4年(1851)に石見国津和野藩士清水家に生まれ、同藩士山辺家の養子となります。
藩校・養老館を経て明治3年(1870)に上京すると、同藩出身の西周の育英舎で学んでいます。明治6年からは大阪慶應義塾で学び、その後、慶應義塾で教鞭を取っていましたが明治10年に旧藩主の養子・亀井茲明のイギリス留学に随行しロンドン大学で学びます。
その後、渋沢栄一の勧めでキングス・カレッジにて機械工学や紡績工業を学ぶなどした山辺は、明治13年に帰国すると、渋沢栄一や寛斎を中心に活躍した実業家・松本重太郎らの援助を受けて明治15年、イギリスの紡績機械、蒸気機関などを導入し大阪紡績会社(現在の東洋紡の前身)を設立します。山辺は当初工務支配人に就任していましたが、明治31年に社長となり、大日本綿糸紡績同業連合会委員長や大阪商業会議所特別委員を歴任しています。
山辺丈夫の墓の前には顕彰碑がありますが、題字は旧藩主亀井家当主・亀井茲常(山辺が留学に同行した亀井茲明の子)、碑文を考えたのは文学博士・森林太郎となっています。森林太郎とは同じ津和野藩出身の文豪・森鴎外の事です。
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20190703/08/mintaka65/9d/38/j/o1033113214490007288.jpg?caw=800)
墓所の入口には顕彰碑の他に歌碑が建立されていました。詳細は分かりませんが「定子」という文字がありましたので山辺丈夫の妻である山辺定子に関係ある碑だと思われます。山辺定子は山辺丈夫の師匠、西周の姪だそうです。
大阪市設南霊園 : 大阪市阿倍野区阿倍野筋4丁目19-115