阪神電鉄初代社長 外山脩造 | 墓守たちが夢のあと

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外山脩造の墓

 
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顕彰碑
 
 大阪市阿倍野区の「市設南霊園」に明治期の政治家で実業家でもあった外山脩造(とやま しゅうぞう)の墓があります。外山はアサヒビールなどの企業設立に関わった他、阪神電鉄初代社長も務め関西財界の礎を築いた人物です。
 天保13年(1842)、越後の長岡藩士の家に生まれた脩造は外山家の養子となり、17歳で江戸へ出ると、清河八郎の「経学文章指南所」や昌平坂学問所で学びます。
 長岡藩は戊辰戦争で新政府軍と戦っていますが(北越戦争)、外山は家老・軍事総督の河井継之助と行動を共にし、河井が負傷して亡くなるまで一緒にいました。河井は亡くなる前に、これから身分制度が無くなるのを見越して外山に商人になる事を勧め、福澤諭吉への紹介状を渡したそうです。
 明治2年(1869)、28歳の時に外山は慶應義塾に入塾。卒業後、大蔵省銀行課に入り国立銀行創設に尽力します。明治11年(1878)には渋沢栄一の斡旋で大阪第三十二国立銀行の総監役となり経営再建に尽力。近代化により経営を軌道に乗せています。また、明治15年(1882)には新たに開設された日本銀行大阪支店の支店長に就任しますが、当時の日銀総裁と意見が対立して辞職しています。
 明治20年(1887)から翌年にかけて欧米への視察に参加した外山は、その成果として大阪麦酒会社(アサヒビールの前身)や電力事業、六甲山の開発などに関わっていきます。特にニューヨーク中央公園で見た電気鉄道の模型に触発されて私鉄経営を計画。明治32年(1899)に設立された阪神電鉄の初代社長に就任しています。
 阪神電鉄といえばプロ野球球団「阪神タイガース」の親会社としても知られていますが、タイガースの名称は昭和10年(1935)設立時に阪神電鉄社員の公募によって決定しています。大阪と同じ工業都市であったアメリカのデトロイトを本拠地としていたデトロイト・タイガースを参考にしたとも言われていますが、外山脩造の幼名が寅太であり、当時すでに外山は他界していましたが、初代社長に敬意を表して命名されたという説もあります。戦前、甲子園球場前には巨大な外山脩造の銅像が設置されていたそうです。
 この他、数多くの会社設立に尽力し、関西財界の指導者として活躍した外山は、明治25年(1892)の第2回衆議院議員総選挙で当選し政治家としても活躍。 大正5年(1916)に75歳で亡くなっています。
 
大阪市設南霊園 : 大阪市阿倍野区阿倍野筋4丁目19-115