禅林寺 森鴎外の墓 | 墓守たちが夢のあと

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禅林寺山門

 
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森鴎外の墓

 
森鴎外
 
 東京都三鷹市にある黄檗宗の寺院、禅林寺は、江戸時代初期に発生した「明暦の大火」により三鷹へ移住してきた神田連雀町の町民により浄土真宗本願寺派の寺院として創建、元禄13年(1770)に台風により倒壊したため黄檗宗の賢洲元養が再興し、禅林寺に改名したそうです。
 禅林寺には文豪・森鴎外の墓があります。森鴎外(本名:森 林太郎)は代々津和野藩主、亀井家の御典医をつとめる森家の跡継ぎとして生まれ、明治維新後に第一大学区医学校(現・東京大学医学部)を卒業後し陸軍軍医となり、明治17年(1884)より4年間ドイツへ留学します。帰国後、外国文学などの翻訳を行い高く評価され文筆活動を開始、ドイツ留学時の体験を描いた名作「舞姫」などを発表します。
 明治40年(1907)に陸軍軍医総監(中将相当)に昇進し、軍医のトップである陸軍省医務局長に就任した鷗外は、文壇でも重鎮として活躍しましたが、大正11年(1922)に腎萎縮、肺結核のため60歳で亡くなっています。
 森鴎外の墓石は遺言により一切の栄誉と称号を排して「森林太郎ノ墓 」とのみ刻まれました。墓碑銘も遺言により中村不折が筆しています。中村は明治から昭和初期にかけて活躍した洋画家・書家で鴎外と親交がありました。また、夏目漱石の「吾輩は猫である」の挿絵画家としても知られています。
 なお、墓は当初、鷗外が上京した際に住んでいた向島の弘福寺(「柳間詰の文芸三侯」池田冠山で紹介)に建立されていましたが、関東大震災後に禅林寺と故郷・津和野町の永明寺に改葬されたそうです。
 
東京都三鷹市下連雀4-18-20