森鴎外の妻 森 志げ | 墓守たちが夢のあと

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 三鷹市の禅林寺にある森鴎外の墓の向かって左隣りに鴎外の妻・森 志げの墓があります。
 森 志げは、美人として評判で、小説家としても活躍しますが、世間的では悪妻として有名な人物でした。
 明治13年(1880)に、大審院判事で大地主でもあった荒木博臣の長女として生まれた志げは、海産物問屋を営み金融業も経営する大地主・渡辺治右衛門の息子、渡辺勝太郎と結婚します。しかし、結婚後、勝太郎と関係のあった日本橋の芸妓が新聞に告白した事から、志げの両親が激怒し1か月もしないうちに離婚しています。
 明治35年(1902)、志げが21歳の時に森鴎外の後妻として再婚します。鴎外は40歳で前妻との間に長男・森於菟(12歳)がいました。再婚は鴎外の母・峰の紹介によるもので、鴎外は友人への手紙に、志げの事を「美術品らしき妻」と書くなど大変気に入っていました。しかし、結婚に際して、志げの両親は峰のきつい性格を心配して反対していましたが、志げ自身も鴎外を気に入ったため承諾したといわれています。
 結婚後、鴎外は小倉へ赴任し、志げも同行して幸せな新婚生活を送りますが、間もなく鴎外は第一師団軍医部長の辞令を受け東京に戻り、志げも峰ら鴎外の家族と一緒に暮らし始めます。しかし、両親の心配したとおり、姑の峰との折り合いが悪く、長女の茉莉が生まれたのを機に、実家の持ち家を借りて別居。鴎外は母たちと住みながら、妻のもとに通う二重生活を送ることとなりました。鴎外初の現代小説「半日」は二人の確執をもとに書かれたと言われています。
 明治40年(1907)に志げとの間の二人目の子・不律が生まれますが、翌年に茉莉と不律が百日咳にかかり不律が亡くなくなっています。茉莉はのちに、不律の死は、苦しむ不律を不憫に思い、峰が医師に頼み薬物により安楽死させたと書物に書き著していて、茉莉自身も 安楽死させられる所を、志げの父親が気づき助けられたと言われています。鴎外はこの件を機に母親を遠ざけたとも、安楽死を承諾していたとも言われていますが、小説「高瀬舟」はこの一件をきっかけに書かれたものと言われています。
 鴎外の給料はすべて峰が管理していたため、志げは峰が亡くなるまで金銭的に悩まされますが、鴎外は憂さ晴らしにと、志げにも小説の執筆をすすめ、自分の結婚生活をもとにした小説「波瀾」「あだ花」を発表します。その後も「青鞜」「スバル」などの雑誌に寄稿を続けています。
 大正5年(1916)に峰が亡くなりますが、大正11年(1922)に鴎外が亡くなると、森家の親族らからは疎まれ、気の休まる時がなかったといいます。志げは昭和11年(1936)に、持病の腎臓病が悪化し、55歳で亡くなっています。
 
東京都三鷹市下連雀4-18-20