頼山陽の父、頼春水 | 墓守たちが夢のあと

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歴史に名を残した人物の墓所データベースです。

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多門院

 
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頼家の墓
 
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頼春水の墓
 
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現地説明板
 
 広島市南区にある多聞院は、治承年間(1177~1181)の創建で毛利氏がこの地を支配した時期には居城のあった、現在の安芸高田市吉田町に移転しています。現在地へ移転したのは、福島正則が藩主であった慶長9年(1604)のことです。
 境内の墓所には江戸時代後期の歴史家・思想家で、「日本外史」を著し尊皇攘夷運動に大きな影響を与えた頼山陽の一族の墓があります。なお、山陽自身は脱藩により頼家を廃嫡となり京都に移り住んだため広島には墓はありません。
 多聞院の頼家の墓所に眠っている頼春水は頼山陽の父親です。安芸竹原(現在の広島県竹原市)の紺屋の家に生まれた春水は幼い頃から学問を学び才能を開花。大坂で私塾を開くと評判となり、天明元年(1781)には広島藩に藩儒として登用され、息子の山陽ら家族は安芸に移り住みます。
 天明3年(1783)には江戸勤番となり世継ぎの教育係を務めています。更に藩の学制を朱子学へ統一するなどの改革に取り組んでいます。寛政の改革で有名な松平定信とも親交があり、後年、定信が行った「寛政異学の禁」(幕府による学問の朱子学への統制))に影響を与えています。
 春水が江戸在勤中に嫡男の山陽が突然脱藩するという事件が起きます。山陽は連れ戻され廃嫡のうえ幽閉されます。後に赦された山陽は京都で暮らし広島の頼家は山陽の息子・頼聿庵が継いでいます。また、山陽は京都にて再婚し勤皇の志士として知られる頼三樹三郎らが誕生しています。
 春水は晩年、広島で暮らし文化13年(1816)に71歳で亡くなっています。生前は書物を著していませんでしたが、死後、山陽によりまとめられ出版されています。
 多門院の頼家の墓のうち春水と夫人の梅飃(ばいし)、跡を継いだ孫の聿庵(いつあん)の墓は円錐体に丸みをもたせた形状の非常に珍しい墓石です。
 
 多門院:広島県広島市南区比治山町7-10