頼山陽の長男 頼聿庵 | 墓守たちが夢のあと

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 幕末の尊王攘夷思想に多大な影響を与えた頼山陽は高名な儒学者・頼春水の子として大阪で生まれ、父が広島藩に儒学者として登用されたのに伴い広島に転居し、ここで育ちます。
 幼い頃より学問を学び、才能を発揮、春水が江戸在勤となると叔父の頼杏坪に学びます。江戸への遊学の後、寛政11年(1799)には結婚しています。
 しかし、この頃、精神不安定となった山陽は結婚の翌年、突如脱藩し上洛してしまいます。叔父杏坪が追跡し連れ戻すと自宅へ幽閉され妻は離縁となりますが、すでに身籠っていたため生まれた子供は頼家が引き取ります。それが山陽の長男・聿庵(いつあん)です。
 幽閉となった山陽は学問に集中し「日本外史」草稿をまとめるなどしていますが、脱藩は重罪でありお家断絶の恐れもあったため山陽は廃嫡となり、春水の弟春風の子景譲が養嗣子として迎えられます。
 聿庵は景譲を師とし、祖父・春水の元で育ちますが、文化12年(1815)に景譲、翌年に春水が相次いで亡くなったため聿庵が家督を相続します。
 一方、父の山陽は文化2年(1805)に謹慎が解かれると京都へ移り住み塾を開き名声を得ます。
 また、山陽は京都で再婚し勤皇の志士として知られる頼三樹三郎らが生まれます。現在、頼山陽の子孫は聿庵の血筋の広島の頼家と京都の頼家の二つの系統があるそうです。
 頼聿庵は、その後、広島藩の学問所教授をつとめると共に、能書家として知られ、家塾「天日堂」を興し多くの門人を育てています。そして安政3年(1856)に56歳で亡くなっています。
 余談ですが、囲碁家元・本因坊家の跡目で碁聖とよばれた本因坊秀策は因島出身で帰郷時に頼聿庵を訪ね「詠 虎次郎」の書幅を贈られています。秀策は幼い頃、三原城主・浅野忠敬に認められて、当時領内で最も囲碁が強かった竹原の宝泉寺の住職・葆真和尚のもとで修行しています。葆真和尚は書にも優れ江戸時代中期の書家・趙陶斉の門人であったと言われています。趙陶斉は、長崎で清の商人と日本人との間に生まれた人物で、頼山陽の父・頼春水も門人でした。つまり、秀策は書においては春水山陽、そして聿庵と同門となる人物なのです。
 
 
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