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しかし、この頃、精神不安定となった山陽は結婚の翌年、突如脱藩し上洛してしまいます。叔父杏坪が追跡し連れ戻すと自宅へ幽閉され妻は離縁となりますが、すでに身籠っていたため生まれた子供は頼家が引き取ります。それが山陽の長男・聿庵(いつあん)です。
一方、父の山陽は文化2年(1805)に謹慎が解かれると京都へ移り住み塾を開き名声を得ます。
頼聿庵は、その後、広島藩の学問所教授をつとめると共に、能書家として知られ、家塾「天日堂」を興し多くの門人を育てています。そして安政3年(1856)に56歳で亡くなっています。
余談ですが、囲碁家元・本因坊家の跡目で碁聖とよばれた本因坊秀策は因島出身で帰郷時に頼聿庵を訪ね「詠 虎次郎」の書幅を贈られています。秀策は幼い頃、三原城主・浅野忠敬に認められて、当時領内で最も囲碁が強かった竹原の宝泉寺の住職・葆真和尚のもとで修行しています。葆真和尚は書にも優れ江戸時代中期の書家・趙陶斉の門人であったと言われています。趙陶斉は、長崎で清の商人と日本人との間に生まれた人物で、頼山陽の父・頼春水も門人でした。つまり、秀策は書においては春水、山陽、そして聿庵と同門となる人物なのです。
多門院:広島県広島市南区比治山町7-10