尊皇攘夷運動に多大な影響を与えた 頼山陽 | 墓守たちが夢のあと

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長楽寺山門

 
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頼山陽の墓
 
 京都の円山公園の近くにある長楽寺は社伝によると、延暦24年(805)に桓武天皇の勅命により天台宗の開祖・最澄を開基として創建された寺院と言われています。その後、室町時代に時宗へ改められ、平清盛の娘で安徳天皇の生母である建礼門院(平徳子)が平家滅亡後に剃髪し出家した寺としても知られています。
 長楽寺には江戸時代後期の歴史家で思想家でもある頼山陽の墓があります。
 頼山陽は儒学者・頼春水の息子として安永9年(1780)に大阪で生まれます。天明元年(1781)に父が広島藩の学問所創設にあたり儒学者として招かれた事から広島城下で育ちます。寛政9年(1797)には江戸に遊学し、父の学友・尾藤二洲に師事しました。

 広島へ帰郷後、寛政12年(1800)に突如脱藩しますが、京都で捕まり連れ戻されて自宅で3年間幽閉。この間、執筆活動に集中し、武家の歴史をまとめた国史「日本外史」を完成させました。「日本外史」はベストセラーとなり幕末の尊皇攘夷運動に大きな影響を与えています。
 謹慎が解けた後、山陽は京都に出て開塾。、そこは多くの文化人が集まりサロンと化したそうです。
 天保3年(1832)に53歳で亡くなりますが、亡くなる直前まで執筆活動を行っていたため死顔には眼鏡が架けらかれたままだったと伝えられています。

 
長楽寺:都府京都市東山区八坂鳥居前東入る円山町626