京極高次供養塔 | 墓守たちが夢のあと

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 島根県松江市竹矢町にある安国寺に京極高次の供養塔が建立されています。松江城を築城した堀江家が三代で改易となった後に若狭小浜藩主・京極忠高が移封してきますが、忠高が父親の高次を供養するために領地へ建立したものです。
 京極氏は北近江の守護でしたが、臣下の浅井氏の下剋上により没落していきます。高次は永禄6年(1563)に、浅井氏の庇護を受けていた京極高吉浅井長政の姉との間に生まれます。生まれた場所は浅井氏の居城である近江国小谷城です。
高吉は将軍・足利義昭に仕えていましたが、義昭が信長と対立すると嫡男・高次を信長の元へ人質として送っています。成長した高次は元亀4年(1573)に信長の義昭攻めに参加し近江国奥島5,000石を与えられました。
 天正10年1582)の「本能寺の変」では明智光秀に呼応し羽柴秀吉の居城である長浜城を攻めますが光秀は秀吉に討たれたため高次は逃亡します。その後、秀吉の側室となった妹・竜子の嘆願などにより、許されて秀吉に仕えた高次は出世を重ね、文禄4年(1595)には近江大津城6万石の大名となっています。なお、天正15年(1587)には、浅井長政とお市の方の娘である浅井三姉妹の次女・を正室としています(姉は秀吉の側室・淀殿、妹は徳川秀忠の正室・高次と初は従兄妹同士の関係です。
 更に秀吉は高次に豊臣姓を送るなど優遇したため、世間では妹や妻の尻の光により出世したとして、高次を陰で「蛍大名」と呼んでいたと伝えられています。
 秀吉の死後、「関ケ原の戦い」では高次は徳川家康への協力を約束しますが、三成側も西軍へ属することを求めます。そこで一旦は西軍へ属することを決め、関ヶ原への出陣準備を装いながら西軍の動向を東軍に伝えています。そして、大津城に立て籠もり、近くにいた毛利元康(西軍総大将毛利輝元の叔父)を迎え討ちます。壮絶な戦いの末、ついに高次は降伏しましたが、この戦いにより毛利元康らの軍は「関ヶ原の戦い」に参陣することが出来ませんでした。
 「関ケ原の戦い」の後、徳川家康は高次の功績を高く評価し加増。最終的に高次は若狭小浜藩9万2千石の大名となっています。高次は慶長14年(1609)に47歳で没しています。
 跡を継いだ長男・忠高は大阪の陣などで活躍し、寛永11年(1634)に父親と因縁のあった毛利氏に対する押さえとして、松江藩へ加増転封。26万石となりました。
 さらに将軍秀忠の娘・初姫を正室として将軍家と関係を深めていきますが夫婦仲はあまり良くなかったいわれ、寛永7年(1630)に初姫が死去した際も、忠高は臨終に立ち会わず相撲見物をしていたと伝えられています。このため激怒した大御所・秀忠や義弟の将軍・家光は、初姫の葬儀を徳川家ゆかりの小石川伝通院で行い、京極家の臨席を許可さなかったそうです。
 忠高は寛永14年(1637)、45歳で亡くなります。嗣子がなかったため改易の恐れがありましたが、それまでの京極家の功績に免じて、甥の高和が播磨龍野に6万石の所領を与えられ大名として存続していきます。松江藩での京極氏の支配は一代かぎりでした。
 
安国寺:島根県松江市竹矢町993
撮影日:2013.9.14