上杉景勝 | 墓守たちが夢のあと

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上杉景勝公廟所

 
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歴代米沢藩主の廟所
 
 歴代米沢藩主が眠る上杉家廟所で最初に葬られたのが初代藩主・上杉景勝公です。
 上杉景勝公は弘治元年(1555)、現在の新潟県南魚沼市で上田長尾家当主・長尾政景の子として生まれます。母は上杉輝虎(上杉謙信)の実姉・仙桃院です永禄7年(1564)に父・政景が亡くなると、春日山城(現・新潟県上越市)に入り叔父・上杉謙信の養子となっています
 実子のいなかった上杉謙信は後継者を指名する事なく天正6年(1578年)に急死すると、北条氏から養子に入っていた上杉景虎との間に相続争い御館の乱が勃発しますが、この争いに勝利した景勝が上杉家を継承しました。
 天下統一を狙う織田信長とは敵対し、造反者も出て窮地に陥りますが信長が本能寺の変で討たれ危機を脱出。信長の後継者となった羽柴秀吉(豊臣秀吉)と好を通じ、天正11年(1583)の「賤ヶ岳の戦い」や、天正12年(1584)の「小牧・長久手の戦い」では秀吉に協力し、文禄4年(1595豊臣政権五大老の一人小早川隆景の隠居に伴い、景勝が五大老に任命されました。
 秀吉の死後、石田三成と共に徳川家康と対立。家康は景勝が武備を整えて謀叛の兆候があるとして上洛して申し開きするよう勧告しますが、景勝はこれを拒否。この時、景勝の重臣・直江兼続家康を挑発する有名な「直江状」を送ったと言われています。
 家康は命令に従わない景勝を討伐しようと慶長5年(1600「会津征伐」に動きますが、その背後を狙う形で石田三成が挙兵。天下分け目の「関ケ原の戦い」が勃発しました。
 長期化すると考えられていた「関ケ原の戦い」は短期間で家康が勝利したため景勝も家康降伏。改易こそ免れたものの領地は会津120万石から米沢30万石へと大幅に削減されます。
 その後は徳川に忠誠を尽くし、大阪の陣では徳川方として出陣しています。元和9年(1623)に米沢城で死去。享年69歳でした。
 景勝は寡黙で感情をほとんど表に出すことがなかったと言われています。その表情は威厳に満ち、家臣たちは畏怖の念を抱いていたそうです。また、後の時代に藩が財政難へ陥る事となるのですが、会津120万石から米沢30万石へ大減封されたにも関わらず家臣の事を思い誰一人召し放ちを行わなかったそうです。
 
山形県米沢市御廟1丁目5-30
撮影日:2012.11.25