米沢藩中興の祖 上杉鷹山 | 墓守たちが夢のあと

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中央が上杉鷹山公の廟所。左後ろの廟所は実子の顕孝公

 
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上杉鷹山公像(松が岬公園・米沢城跡)
 
 米沢藩中興の祖と言われる上杉鷹山公(治憲)は江戸時代中期、第九代米沢藩主で日向高鍋藩から10歳で養子として米沢藩に入ります。祖母は米沢藩4代藩主・上杉綱憲の娘という関係からです。なお、上杉綱憲は忠臣蔵で有名な吉良上野介の息子で上杉家へ養子に入っていることから鷹山公は吉良上野介の子孫という事になります。
 鷹山公が養子となった頃、米沢藩は会津120万石の時代からの家臣6000人を米沢15万石となっても、そのまま召し抱え、名門であるがゆえに贅沢な生活も改めなかったため財政はひっ迫し、幕府へ領地を返上する寸前にまで追い込まれます。
 成長し藩主となった鷹山は、藩内で様々な抵抗にあいますが質素倹約に努め、新しい産業を興すことにより借金を完済し名君として名を残しています。
 鷹山公は天明5年(1785)、35歳で隠居し、家督を養父重定の次男治広に譲っていますが、その後も後見人として72歳で亡くなるまで藩政を指導しています。隠居後に米沢城三の丸に建てた「餐霞館」に居住しますが、藩主時代と等しく質素な生活を心がけます。  餐霞館の壁には鷹山公の「なせば成るなさねば成らぬ何事も成らぬは人のなさぬなりけり」という言葉が描かれていたと言われています。 
 上杉鷹山公廟所の隣りには実子で十代・治広公の養子となった顕孝公の廟があります。藩主になる前に19歳で亡くなったため鷹山公の血筋は絶えています。
 上杉家廟所の資料館には鷹山公の廟を改修した際に発見された石に刻まれた墓誌と数珠が展示されています。
 
山形県米沢市御廟1丁目5-30
撮影日:2012.11.25