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列元の墓碑がある澤村家の墓地
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八世本因坊伯元、九世察元は、埼玉県幸手市の出身である事は古くから知られていましたが、十世烈元については江戸の生まれで幕府数寄屋方の組頭である山本家の出身であるというのが定説でした。一時、澤村性を名乗っていたことも分かっていて謎とされてきました。
幸手市では市史編さんにともなう市内石造物調査を行っていたところ平成15年に察元の墓碑を発見します。このニュースを見た市内上吉羽の澤村さんが先祖の墓地に「本人坊」と書かれた墓があり、家に差出人が本因坊と書かれた手紙が残されている事を届け出ました。
研究者の調査により、澤村家の分家の過去帳に「烈元」の記載を発見し、従来の定説を覆して烈元が幸手市の出身であったことが判明したのです。
「本人坊」の表記ですが、江戸時代は「本因坊」を「ほんにんぼう」と発音していたため墓を造る際に当て字で「本人坊」と刻まれたのではないかと推測されています。
烈元は、棋道中興の祖と呼ばれる察元の跡を継ぎ本因坊家の格式、権威を守ろうと努めます。各家元の跡目の中で本因坊家跡目を筆頭とすることにも成功しています。
烈元は、棋道中興の祖と呼ばれる察元の跡を継ぎ本因坊家の格式、権威を守ろうと努めます。各家元の跡目の中で本因坊家跡目を筆頭とすることにも成功しています。
埼玉県幸手市上吉羽328
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