みんサルの旅 -2ページ目

みんサルの旅

旅をしなくても、旅してるように生きる。。

そして「財産と未来、どっちがいい?」

そう言った後の答え。

「どっちもいやだ。どっちも意味ない。結局同じだ。人生なんて意味ない。」

すごいな。

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就職に受からず、彼女にふられ、やけになって身投げしようとする大学生をみて、
脳研究で大金持ちになったが年老いた孤独な老人が人格交換を持ちかけたときに、
問いかけた言葉だった。

「そりゃもちろん財産でしょ」

人格交換。

そう、ありきたりな展開な気は漂った。
でも、それ以上に、映像から迫力と勢いを感じた。見続けた。

老人となった大学生は、
ある種予想通りだけど、
盛大にお金を使ってもおじいさん扱いされるだけ。
健康でない病気の体でまともに走ることもできない。
若者には、じじいは家にいろよ、と馬鹿にされる、
そんな辛そうな様子が描かれた。

逆に大学生の体を手にいれた老人。
生きてるって素晴らしい、
ご飯をお腹いっぱい食べれるって幸せ、
アルバイトでもなんでも働けるのが嬉しくてしょうがない、
といった感じ。

老人、大学生。
この役者さんたち、見てて、とても素敵な感覚がわいてきた。
セレクトしたひとに賛辞を送りたい。

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終盤、老人の体になった大学生は、絶望し、同じように身投げしようとする。
そこに現れた大学生の姿の老人は、また問いかけた。

「財産と未来、どっちがいい?」

そこに冒頭の、どっちも意味ない、という、
元大学生の答え。

若さがいい、という結論を持ってくるかと思ったら、
その上を越えてきた。
越えようとする意識を感じた。

そして、失ってしまったのに、
「お前もがんばれよ、いつかまた老人になるし、おんなじさ。」
と言い放つ。

物語は、悪態をつく老人の姿となっている大学生を、
大学生の姿の老人は何も言わずに抱きしめて、元の体に戻す。
で終わる。

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「若さというのは、あまりに素晴らしすぎて、
 不公平な交換だった」

どうして元の体に戻ったのか、を説明する、
死ぬ間際の老人の言葉。

こういう一面もあるのではないかと思う。
本当は失っていたけど、大人の配慮があって均衡を保った。

考えてみれば、
先の世代と今の世代は、このモデルかもしれない、と思った。

未来ドロボウ。
藤子不二雄さんの原作みたい。

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NHKのおわこんTVでは、

遊んでばかりいる小説家なんて絵にならないから、
こちらでかっこよく、編集してやった、
孤独で病気な老人が、かわいそうだから、テレビに出すのはひどい、

ひとを勝手な解釈に当てはめては、怒らせてしまう、
わかってないテレビ制作会社のディレクター役、
小泉孝太郎さんの演技は素晴らしかった。

僕も同じような悪いところが多く、
痛みを感じながらも、目を離せなかった。

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勝手に決めつける、
そんな悪いところに気づいて、
謝ったときに言われた言葉。

「わかってくれたらいいの」

こういう奴だ、こういうことだ、と決めつけてしまう思い出。
たくさんある。

まだまだ勉強中。

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「したいこと」と「やりたいこと」
前者は、すぐに、近いうちに、というニュアンスがあるな。

散文な文章は鼻に付く、という意見。
蹴る技術の問題じゃなくて、それは人柄とか、他も付いて回るという意見。

コンテキストとコンテンツ。
コンテキスト重視の時代は、まさに資本主義。

それでも、
体を休めることができるし、
おいしいご飯をいただくこともできる。
では。






さて、もしあなたが日本代表じゃなくて、
より弱小国の代表監督になったら?
と考えてみる。

強豪国に勝ちたいと本気で思ったなら、
弱小国で一流と言われてる選手かどうかなんて関係ない。

伸びシロがあって、届くかもしれない、
これぞと思った選手を鍛え上げよう。
という考え方はどうだろうか。

それはリスク。
一般的に評価されている人材を使うほうが、
失敗したときに言い訳がたつ。

知らないリソースを使ったら、
ほら、ダメだったろう、と物知り顔にみんな言うだろうし。

でも、本気で勝ちたいなら、
会社でも、スポーツでも、恋愛でも、
何年かかけても強豪に勝てる、
そんな人材で勝負するのが好き。

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田口選手・・・ハーフナー選手よりヘディングがんばってたような、
       終盤見せた根性と技術が組み合わさればそのうち、と納得させた。
柴崎選手・・・間合いの調整だけ。ほぼ世界に通じる。交代させたことで、
       中心選手でも重用しすぎないことを示す。
       香川選手がミスしても甘かったのに、彼のミスに
       解説陣がもっとも厳しかったのは、たぶん体育会系の洗礼。
酒井高選手・・・ドリブル利いてたけど、いま、この繊細な守備は苦手そう。
        たぶん基本期待は、瞬発的なフィジカルでしょう。
太田選手・・・キックと持ち方にカミソリのような斬れ味を感じる。
       誘うようにパスを出させる守備はよくも悪くも持ち味。
小林選手・・・世界に通じて欲しいが、、、どこが通じそうだろう?
       気合い以外で。
柿谷選手・・・笛がなったとは言え、あのキレ、観客を沸かせる
       その可能性はまだまだ捨てきれない。
武藤選手・・・2回は競り勝ったフィジカルはまぐれじゃない。
       竸ったボールから裏を取れるのは最大の発見では?
塩谷選手・・・アバウトなジャマイカ相手とは違って、少し洗礼をあびた。
       とは言え、落ち着きがあるし、あとひとのびでは?
森重選手・・・リーダーシップを取れ、という声があるけど、
       それを言われるだけの存在になったということで。
田中選手・・・難しい。テンポがひとりだけ微妙なんだけど、
       柏時代を考えると、きっとそのギラギラ感がスゴイのかな。
川島選手・・・キックが窮屈。どこかしら、プレーも窮屈そう。
本田選手・・・監督変わり、選手変わればこんなもの。
       でも王様じゃないほうが性に合ってるのでは。
17番の選手・・・ロストした後が気になった。パスが悪い、ピッチが悪い、
        自分のせいじゃないんだよ、と言いたげな追い方。
岡崎選手・・・これ以上の何かが必要だけど、これ以上の何を求めよう?
       厳しいがこれが命題。
細貝選手・・・急に成長したような言い方とは違う視点。
       チカラを発揮できるチャンスまでじっと耐えてただけと思う。

雰囲気で好きだったのは、
ムダな内輪感、仲良しこよし感がなかったこと。

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足技で劣るから勝てない?
体格で劣るから勝てない?
スピードで劣るから勝てない?

サッカーはそれだけじゃない、という一面もあると思う。

この親善試合は、
遊ばれてたっていいけど、
選手選考という意味では、可能性を見ることが大事。

世界に通じる可能性。
みんな、どう見たのだろうか。

では。



マーケティングとは?

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ガイアの夜明けでのポッキー。
グローバル統一ブランドを推進するため、
インドネシアでポッキージャンパーをきたバイク集団を走らせてた。

マレーシアでの、舗装されていない、河のそばにいる、
奥地の僻地で、まったく相手にされないところ、
とっさに子どもたちに配ってその様子で、店に置いてもらった。

実践は説得力がある。

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女性にとってのお化粧、
男性にとっての肩書き、

のように、
中身を中身以上にみせかけるという一面があると思う。

ある意味、中身がなくても、マーケティングの価値のみで、
売買されることもあり、競争主義の資本主義下で成り立つ。

進化したら、
自滅するもののひとつかもしれないし。

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女性科学者、盲目の音楽家、号泣議員、、、

中身が足りなくなればなるほど、
必要となる。

地震、津波、火山。

圧倒的なパワーは、
どれもマーケティングなんか必要ない。

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実践を持たない理論は、
単なる井戸端会議のテーマで、
笑い話のように思った。

で、毎度のごとく、
危うく自爆するとこだったのは感覚的にわかったので、
帰りの電車で、どういったらよかったのか、考えてみた。

僕が思うに、マーケティングは、中身がないものを着飾る、
中身を偽る、いわば、究極的には詐欺だ。
なんで中身のみで勝負できないんだ!?
中身で勝負できるように、本質ということを考えれば、
なくすことを目指すべきです。

みたいな言い方は、頼み方の下手なベジータのように、
全員敵にまわすところだった。

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マーケティングが生み出すものに、
中身がないことを隠す、という一面があるように思う。

それは、例え、中身がちょっと足りなくても助けてくれる、
魔法の杖になるときもある。

実際問題、僕ら、中身だけで勝負できるなんてできないから、
マーケティングが必要になってくる。

等しく配分する共産主義では、
そう、学芸会で全員同じお化粧のように、
その必要なくなるものです。

という言い方なら、まだ柔らかいかな。
よし。

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こないだの番組で、カウンセラーのひとが、
うつ病だった方にたいして、
あなた間違ってるから、すっごくイライラすると浴びせかけてた。

言ってる内容はどちらでも大丈夫のように思う。
どう実行するか、の局面は大事かな、とよく思う。

それがまったくできていないのが自分。
努力して足りない、、、ま、仕方ない。努力してる。次はきっともっとよくなる。

でも、昼休みに本を買って読んで、
夜に何とか、電車で、表参道を歩きながらで、読んで、間に合ったのは、重畳。
では。












あぁ、このひとたちは、
社会全体のために何かしよう、
というのはちょっと違ったな。

どこか不器用で、意地はってて、
世間に馴染みにくいけど、
ひとのためほんとうに楽しいひとたち。

まったくまともな性格じゃない僕も、
そういうひとたちと一緒にいたかったし、
そういうひとにできることがあるかもしれない、と思った。

そう、菊次郎の夏を見て、
旅をしてないことを思い出した。


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たかだか30~40年の人生で自分にあるものなんて、
しゃべるのに1年ぐらいでネタ切れになる、
というのが響いた。

そこからは、撮って出しになって、
なかなか苦しい。とのこと。

マツコさんの言うとおりであって、
ピーコさんの言うとおり。

同じように、
自分の20代、30代の人生から、
最近、搾り出せる部分はもはやほとんどなかった。

そして、1~2年のビジネスの経験なんて
30分で語り尽くせるぐらいだった。

もう、既知の自分が広がっていて、
それ以上がなかった。

過去にしがみつくか、虚勢を張るか、
どちらか。

努力の賜物だね、オリジナルは。

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できない人の方が協力したくなる。
そういうモデルとよく出会う。
話をきく、というか、返事しようと思った。

失っているものもありながら、
得ているものもあった。

「基礎が大事。」
と言ったのが、イチローだったら響く。

「人に話を聴かせるのに肩をポンと叩いてもダメだ。
肩をハンマーで叩けば人は初めてちゃんと話を聴く」
とジョン・ドウは言った。

多少のなんかなんて、
たったひとりの裸の王様だった。
勝手に決めて、勝手にやめた。

苦しむばかり。
そういうものだった。

でも、何を言われても、どう思われても、
と、どっかで覚悟してる。
それを自問自答しながら、すべての行動にギャンブルする。

「ココロ折れた?」
よく、フットサルでも、ビジネスでもきかれる。

気をつかってもらっているのだけど、
実は、空気よめない僕からすると、まったく見当はずれな質問で、
ココロなんかまったく折れない。
というか、折れるはずもない。
悲しかったり、悔しかったりしたけどね。

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そのとおり、
旅をしたり、本を読んだり、
また自分に貯めていかなきゃ、と思った。
同時に、また新しいことを創り上げていこう、とも思う。

深みは、自分。

そして、砂上の楼閣だったことを、今度は固まらせる。
そんなチャンスを待ちたい。

さて、
また新たな系列を感じさせるフットサルに参加させていただきました。

選手が行う教室や、サービスの参加者の方々がつくるコミュニティかな、
これまたひとつの大きな潮流の一端なんだな、を感じました。

その皆さんが感じていることは、
なかなか厳しい視点で、
所変われば基準も変わる、
いや、大変勉強になりました。

うまくなったと思えることのひとつは、
様々なスタイルや考え方のなかに沿っても、
少しでも自分のパフォーマンスを発揮できる自信があること。

まだまだですが、
いつもビジネスでもそうありたい、と思ってる。

栗ごはん。
ひとつ素敵なレパートリーがふえて、重畳。
では。







こういうイタズラをいつもやりたいと考える。
そして、
なかなか実行に移せない自分を見る。

カーテンが生き物のように揺れているよ。
神様が宿ったかのように。

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そうかー
激しいひとがいなくて、よかったですね、
と言う印象に
みんな基礎技術さえしっかりしてないのにスターのようにプレーする、
と言う印象。

週に一回、ようやく玉石混交の街中の個人参加に行く生活環境と、
週に5回、きちんとプレーすることが求められる生活環境。

自分だってうまくないし、
うまいひとと蹴れるのだってたまたま。

だから、
言わなくていいのだろうか。

だから、
言うべきなのだろうか。

真実なら誰でも言える。
伝えるのはほんとに凄いことのように感じる。

基準は異なってくるし、
感じ方や求め方、姿勢も変わってくる。

希う、という言葉は好き。
希求する世界。

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iOS8で音楽が同期できなくなったら
umanoやjangoに時間が変わっていく。

かせぐビジネスやめたら、
別の視点でビジネスを考えていく。

世の中の多く、隣人に対する不満を見る。
不満があるほどの壮大な親愛は自分にないのだろうな、
と思った。

世の中の数多くの視点を探して、
世の中の数多くの志向性に触れて、
世の中の広大な狭さを知る。

情報とはブッダの手のひらのようなもの。
それよりは、人の表情に意味があるんだな、と思う。

みんな正しい。
そして、みんながんばっているでしょ。

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一歩ふみ出せば、
近づくか遠ざかるか、ちょっとははっきりする。

エライ方の研究によれば、
リスクを過大評価するのは人間の性らしい。

チャレンジしなかった機会損失に対するリスク。
化猫物語のように、それは恐ろしく感じるよ。

文字通りあとで化けて出てくるような気がする。
ぼくだって出来ないことばかり。

チャレンジしたっけ?
ちゃんと失敗したっけ?
笑われて恥ずかしい思いをしたっけ?
おそれを抱えたっけ?
怖かったっけ?
それでも逃げなかったっけ?

それは闘うってこと。

それでいいのかな?
いいんだろう。

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先週より、2kgぐらい減ったと思ったら、
2日前より体重が2kg近く増量。

いつものことだ。

さて、言われるまでもないけど、
結果を出すことがすべて、
という意見に大いに賛同する。

すべての、
自分の身の回りにある事象は、
自分に責任の一端はある。

どうにかしようと思っている今。
どうにかできない今。

諸行無常の響きは、スモールウィン、スモールステップだ。

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それでも素敵な思い、素敵な人々の飾らない素敵な思いを、
折にふれて賞賛できたら、そんな世界をつくれたら、
とずっと思っている。

まっすぐなひとはまっすぐであるように。
飾らないひとは飾らないでいられるように。

いやいや。

機会というのはそう簡単ではないよ。
一度逃した機会をまた得るのはとんでもなく大変だ。

だからこそ、
できることは全部したい。

ぜーたくなんだが、
そう思うから、いまはきっとそうなんだ。


では。