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小牧山城

小牧山城 小牧市歴史資料館




 濃尾平野のほぼ中央に、標高約八十五メートルの小牧山が聳えています。この辺りの高さは約十五メートルから二十メートルほどだから、比髙は約六十五メートルから七十メートル余りの独立した山が平地の中に聳えています。
 織田信長が小牧山に城を築いたのは永禄6年(1563年)のことでした。永禄3年に桶狭間で駿河の大大名、今川義元を討ち、永禄5年には三河の徳川家康と同盟し、背後を固め、美濃攻めにとりかかります。そのために居城を清洲城から美濃の国境に近い小牧山に移しました。信長にとり初めての居城の築城になります。そして永禄10年(1567年)斉藤龍興が伊勢に敗走し、美濃を手中に収めると、斉藤氏の居城だった稲葉山城に居城を移し岐阜城と名を改めました。そして小牧山城はわずか4年余りで廃城となりました。 そのためか、以前は美濃攻略の砦みたいなものと思われてきましたが、その後の発掘調査などで、小牧山山頂に石垣で固めた本格的な城郭で、小牧山の南側には東西約1キロ、南北約1,3キロの城下町が開かれ清洲からから家臣団や町人が移ってきたことがわかりました。




小牧山石垣

小牧山城に使用されていた石垣

発掘作業中で、まとめて積まれています。





小牧山地図

小牧山の地図





小牧長久手の戦い


 天正12年(1584年)、羽柴秀吉と対立した、織田信長の次男、織田信夏は、徳川家康と同盟。秀吉は織田信長の重臣、池田恒興を味方に付け、3月13日犬山城を占拠します。徳川軍は3月15日に軍を小牧山に進め犬山城の羽柴軍と対峙、3月17日に羽黒で合戦があり羽柴軍の森長可を敗走させました。3月18日に徳川家康が小牧山に入り、小牧山の土塁などを改修し、羽柴軍本隊の到着に備えました。
 3月27日、羽柴秀吉が犬山城入城。4月4日、池田恒興が膠着状態を打破するため、徳川氏の拠点、岡崎城を攻める「中入り」作戦を進言。秀吉は当初、この作戦に渋るものの、恒興が再度進言したため、これを了承します(実際には秀吉の立案。作戦が失敗し、恒興が戦死したために、恒興に罪を被せたようです)。4月6日夜半、秀吉の甥、羽柴秀次を総大将に2万の軍勢が岡崎に向かう。翌日家康はこの動きを察知、8日夕方、小牧山に6500名を残し、家康自ら13500人を率いて追撃します。
 9日未明、先陣の池田恒興は丹羽氏重が守る岩崎城(日進市)を攻め、落城させます。しかし後続の森長可、堀秀政、羽柴秀次は休息をとり、追いついた徳川軍が秀次軍を攻撃、秀次軍は総崩れとなり敗走します(白山林の戦い)。それを知った堀秀政は檜ヶ根で応戦し、徳川軍の撃退に成功します。
 秀次の敗退を知った岩崎城の池田恒興は引き返し、長久手で徳川軍と決戦に挑みます。先に着陣していた徳川軍が戦を有利に運び、羽柴軍は池田恒興、長男元助、森長可が討ち死にし羽柴軍は壊滅、徳川勢の勝利に終わりました。
 その後、秀吉は織田信雄に接触、信雄は家康に断り無く11月11日に和睦を結び、戦う大儀を失った家康は11月21日に小牧山を去り領国に戻りました。





犬山城から見た小牧山

犬山城から見た小牧山



 結果的に家康は秀吉の軍門に下ることになりますが、小牧長久手の家康の勝利は、秀吉に一目を置かせると同時に強い警戒感を抱かせ、関東の北条氏滅亡後、家康を遠い関東に移封させました。関東移封で家康は250万石の領国を得て、豊臣政権では最大の大名となり、秀吉の死後、豊臣氏の内部分裂(石田三成などの文治派と加藤清正、福島正則などの武断派の対立)に乗じて東軍、西軍の争いに持ち込み、関ヶ原の戦いで家康の東軍は勝利し、天下を握ることになります。


初音の調度

初音の調度



徳川美術館では初音の調度が展示されていました。5月31日まで展示されてます。
 初音の調度とは、寛永16年、三代将軍、徳川家光の長女、千代姫と、尾張徳川家二代藩主徳川光友の婚礼で、家光が愛娘のために用意した婚礼道具です。
 千代姫は当時まだ2歳、光友は14歳でした。
 家光はなかなか子供に恵まれず、33歳の時に初めて授かったのが千代姫で、母は側室のお振の方(自証院)でした。父の家光も嬉しかったのか、産まれるとすぐに蒔絵師の幸阿弥家10代長重(ちょうじゅう)に命じて婚礼道具を造らせました。
 初音とは源氏物語の帖「年月を 松にひかれて ふる人に 今日鴬の はつねきかせよ」の歌意を全体の意匠とし、その歌の文字を葦手書に散らしているところに由来します。
 蒔絵とは漆の下地に、乾かぬうちに金粉や銀粉を「蒔く」漆塗りの技法です。初音の調度を製作した幸阿弥家は室町時代から続く代表的な蒔絵師の家柄です。
 千代姫は江戸の尾張藩邸(当初、吹上、明暦の大火《1657年》で吹上は火除け地としての広大な吹上の御庭となり、尾張藩邸は市ヶ谷《現防衛庁》に移転)で暮らし、元禄11年12月10日(1699年1月10日)、62歳で亡くなりました。翌年、光友が後を追うように亡くなります。千代姫の死後、初音の調度は尾張に送られました。




大角赤手箱・帯箱

大角赤手箱・帯箱


金蒔絵でまばゆいばかりに輝く調度は、終日見ていても見飽きないことから、別名「日暮らしの調度」と呼ばれています。家光が命じて造らせたものらしく、日光東照宮と同じく絢爛たる豪華さがあります。




眉作箱

眉作箱




旅眉作箱

旅眉作箱




碁盤・掛硯箱  

碁盤・掛硯箱





家光と義直



 義直と家光は叔父甥の関係になります。しかし年齢的には義直が慶長5年(1600年)、家光が慶長9年(1604年)生まれで、4歳の年齢差しかありませんでした。
 寛永9年(1632年)に前将軍の秀忠が亡くなり、三代将軍家光は事実上独り立ちをします。家光は生まれながらの将軍としてその権勢を強めようとします。家光にとり叔父に当たる御三家も臣下の扱いにします。それに不満を持ったのが尾張徳川の義直でした。そして家光と義直は対立していきます。義直との対立は他大名に示しがつかず、義直の支配する尾張は東西交通の要衝にあり、義直が名古屋城に籠城でもすれば天下の騒乱にも繫がりかねません。家光は義直との関係を修復しようとしたのが、まだ幼い千代姫と、義直の嫡子、光友との婚礼でした。


 徳川義直が朱子学に基づく尊皇思想の持ち主であることはよく知られています。
 義直は家光との対立で尊皇思想にのめり込んで行ったのではないでしょうか。天皇を中心として考えれば、将軍も天皇の臣下にすぎず、一大名である義直と対等の関係にすぎません。尊皇思想は尾張藩に深く根ざし、幕末は尊皇思想に基づき、新政府にかかわることになります。
 義直の尊皇思想に深く感化したのが、水戸黄門で知られる甥の徳川光圀でした。光圀の尊皇思想は水戸学となり、尊皇攘夷として幕末の志士に大きな影響を与えました。

徳川美術館

徳川美術館




 名古屋市東区徳川町に、尾張徳川家に伝わる文化財を展示した徳川美術館があります。
 徳川美術館は昭和6年(1931年)第19代尾張徳川家当主、徳川義親(よしちか)氏によって設立した財団法人徳川黎明会により、昭和10年(1935年)尾張徳川家の別邸のあった現在の地に徳川美術館を開館しました。主な収蔵品には源氏物語絵巻や、初音の調度なや徳川家康が秀忠や御三家に残した駿河文庫の古文書の一部(蓬左文庫)があります。
 当時の日本は、関東大震災による震災不況、金融恐慌など不況が続き、大名華族の出資した第15銀行が昭和2年にそのあおりで倒産し、大名華族も不況の波が押し寄せてきました。そのため大名華族は所有していた文化財を売却する例が数多くありました。
 とくに同じ徳川一門である紀州徳川家の場合はかなり酷いものでした。当時の紀伊徳川家は3000万円(現在の金額で600億円程度)の資産を持つ日本有数の富豪と言われていました。しかし借金も多く約280万円ありました。大正15年に紀伊徳川家を相続した徳川頼貞氏は80万円の税金と借金返済のために、所有していた文化財や什器を売却し150万円の収入がありました。その後も昭和2年、3年に所有していた什器を売却し、三度の売り立てで合計500万円ほどの収入がありました。 
 同じ徳川一門である徳川義親氏は、次々と売られていく紀伊家の家宝に深く憂い、加藤清正(初代紀伊家藩主頼宣の舅)の長烏帽子兜などを買い取りました。
 そして家の財産を当然のごとく売り払いながらも、華美な生活を改めない華族たちを冷ややかな目で見ていたのでしょう。
 古くから続く旧大名の財産には貴重な文化財、美術品、古文書が多く含まれており、それを個人が死蔵するのではなく多くの人に公開するために、周囲の反対を押し切り、財団法人徳川黎明会を東京目白に設立し、所蔵する文化財などの管理を行い、昭和10年に名古屋の徳川家別邸の敷地に徳川美術館を開設し、所蔵する美術品の公開を行いました。
 その後の太平洋戦争で、多くの大名華族の財産、文化財が戦災で損失、戦後の混乱期や昭和21年の財産税の課税などで所蔵品が売却され散逸していくなか、尾張徳川家の文化財、美術品は散逸を免れ、まとまった形で保存されてきました。
 早くから財団法人化し散逸を脱がれたものに、加賀前田家の16代前田利為(としなり)氏が設立した前田育徳会があります。




本館

徳川美術館旧本館


 昭和10年に建てられたてられた諦観様式の建築物です。




本館玄関天井

本館玄関天井


 漆喰で細かな装飾が施されています。





蓬左文庫

蓬左文庫


 徳川家康から尾張徳川家に贈られた駿河文庫が蓬左文庫の基盤となっています。現在は名古屋市に移管されています。




黒門

黒門