徳川美術館
名古屋市東区徳川町に、尾張徳川家に伝わる文化財を展示した徳川美術館があります。
徳川美術館は昭和6年(1931年)第19代尾張徳川家当主、徳川義親(よしちか)氏によって設立した財団法人徳川黎明会により、昭和10年(1935年)尾張徳川家の別邸のあった現在の地に徳川美術館を開館しました。主な収蔵品には源氏物語絵巻や、初音の調度なや徳川家康が秀忠や御三家に残した駿河文庫の古文書の一部(蓬左文庫)があります。
当時の日本は、関東大震災による震災不況、金融恐慌など不況が続き、大名華族の出資した第15銀行が昭和2年にそのあおりで倒産し、大名華族も不況の波が押し寄せてきました。そのため大名華族は所有していた文化財を売却する例が数多くありました。
とくに同じ徳川一門である紀州徳川家の場合はかなり酷いものでした。当時の紀伊徳川家は3000万円(現在の金額で600億円程度)の資産を持つ日本有数の富豪と言われていました。しかし借金も多く約280万円ありました。大正15年に紀伊徳川家を相続した徳川頼貞氏は80万円の税金と借金返済のために、所有していた文化財や什器を売却し150万円の収入がありました。その後も昭和2年、3年に所有していた什器を売却し、三度の売り立てで合計500万円ほどの収入がありました。
同じ徳川一門である徳川義親氏は、次々と売られていく紀伊家の家宝に深く憂い、加藤清正(初代紀伊家藩主頼宣の舅)の長烏帽子兜などを買い取りました。
そして家の財産を当然のごとく売り払いながらも、華美な生活を改めない華族たちを冷ややかな目で見ていたのでしょう。
古くから続く旧大名の財産には貴重な文化財、美術品、古文書が多く含まれており、それを個人が死蔵するのではなく多くの人に公開するために、周囲の反対を押し切り、財団法人徳川黎明会を東京目白に設立し、所蔵する文化財などの管理を行い、昭和10年に名古屋の徳川家別邸の敷地に徳川美術館を開設し、所蔵する美術品の公開を行いました。
その後の太平洋戦争で、多くの大名華族の財産、文化財が戦災で損失、戦後の混乱期や昭和21年の財産税の課税などで所蔵品が売却され散逸していくなか、尾張徳川家の文化財、美術品は散逸を免れ、まとまった形で保存されてきました。
早くから財団法人化し散逸を脱がれたものに、加賀前田家の16代前田利為(としなり)氏が設立した前田育徳会があります。
徳川美術館旧本館
昭和10年に建てられたてられた諦観様式の建築物です。
本館玄関天井
漆喰で細かな装飾が施されています。
蓬左文庫
徳川家康から尾張徳川家に贈られた駿河文庫が蓬左文庫の基盤となっています。現在は名古屋市に移管されています。
黒門