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管井家

菅池住宅




 菅野家は江戸時代後期から明治時代にかけ廻船業で財をなした高岡を代表する商家です。明治22年(1889年)高岡銀行を設立、明治36年(1903ねん)に高岡電燈を設立する一方で、政界にも進出するなど、高岡の政財界の中心的存在でした。
 明治33年の高岡大火直後に母屋を再建、平入黒漆喰2階建ての土蔵造りで、桁行き12.7メートル、梁間13.6メートルありました。正面の土庇は本瓦葺き(丸瓦と平瓦を組み合わせたもの)となり、二階の窓には観音開きの土扉を設けられるなど、土蔵造りにふさわしい重厚な造りになっています。




菅野家住宅各部名称

菅池住宅正面図




管井家見取り図

菅池住宅見取り図




 その一方、雷紋を飾った大棟、両脇の防火壁の前の石柱、正面庇を支える鋳物製の柱の細工や、庇天井の鏝絵(漆喰の装飾)など、細かな細工が施されています。
 構造的には屋根を支える部材に、トラスという斜め柱を取り入れた構造(洋小屋組)を用いたり、釉薬をかけた煉瓦の防火壁など、洋風の要素を多く取り入れています。





管井家脇

母屋脇の塀


 塀に源氏香の透かしが入っています。




管井家鏝絵

土庇下の鏝絵






管井家軒下




 内部は数寄屋風の造りとなっており、ホンマ(座敷)は柾目の檜や屋久杉など高価な部材をふんだんに用い、壁には自然石を砕いた粉を混ぜた朱壁とするなど、贅を凝らした造りとなっています。母屋の奥には中庭を挟んで2階建ての土蔵が建っています。
 平成6年に重要文化財に指定されています。




管井家仏壇

仏壇


 高岡でもっとも豪華な仏壇だそうです。大きさはありませんが、扉の裏に豪華な装飾が施され、全開すると幅が広く見えます。金箔がふんだんに使われまばゆいばかりのお仏壇です。






筏井家

筏井家



 筏井家は糸などの卸商を営んでいた商家です。高岡大火の3年後、明治36年(1903年)に母屋が再建されました。母屋は桁行き11.7メートル、梁間13.5メートル、桟瓦葺き、切妻造りで、菅野家同様、黒漆喰仕上げで、屋根の構造にトラスを用いた洋風小屋組を用い、両脇の防火壁は釉薬をかけた煉瓦造りとなっています。正面に幅一間の本瓦葺の土庇があります。筏井家の特徴は二階の観音開きの土扉で、全て開けると隣の扉との隙間が無く一体化して納まるように設計されています。
 内部は残念ながら非公開となっています。





山町筋2

山町筋


 山町筋は高岡城築城の際、北陸道に面して商人を住まわせ、商業の町として発展しました。
 北陸はフェーン現象で乾燥した風が吹くため、たびたび起きる火災に苦しめられてきました。
 高岡の町も明治33年(1900年)に起きた大火で、町の6割を焼失するという大きな被害を被りました。その前年の明治32年、富山県は「富山県建築制限規則」が施行され、建築物を新築する際、防火構造にすることを義務づけられていました。そのため山町筋の再興には防火性の高い土蔵造りの建物が数多く建築されました。



菅野家住宅各部名称

土蔵造りの特徴


 高岡市の土蔵造りの建築物の特徴は外壁を黒または白漆喰で塗籠められ、隣家境には延焼防止のために防火壁を設け、屋根は桟瓦葺きにして大きな箱棟や鬼瓦を乗せ、二階窓には観音開きの土扉を付け、前面の下屋庇とそれを支える鋳物の鉄柱を設ける、など重厚は印象を受ける一方で、内部は対照的に繊細な数寄屋風の意匠となっています。
 上の図面は山町筋の代表的商家である菅野家のものです。





山町筋

山町筋説明文

 平成12年、山町筋は重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。



富山銀行本店

富山銀行本店


 大正4年に高岡共立銀行本店として建設されました。東京駅を設計した辰野金後監修のもとに、建築施工を担当した清水組の田辺淳吉が設計を担当しました。赤煉瓦が特徴の山町筋のシンボル的な存在です。




井波屋

井波屋仏壇店


 もともとお茶の卸商の店舗を、井波家が買い取り仏壇店を営みました。 正面の大きな二つのアーチ窓が特徴的で、アーチには青銅製の唐草模様の飾りが設えています。




土蔵造りの町資料館1

高岡市土蔵造りの街並み資料館(旧室崎家住宅)


 室崎家は昭和20年まで綿糸や綿布の卸業を営んでいた高岡でも屈指の商家で、現在は石油商を営んでいます。室崎家の転居にあたり、高岡市が土蔵造りまち資料館として整備し公開しています。一階は「山町筋と高岡の都市計画」と「土蔵造りの町家」に関する古地図、古文書などを展示、二階は山町筋の伝統行事である「高岡御車山祭」に関して展示しています。
 二階の窓に観音開きの土窓がないのを除けば、黒漆喰塗りごめの典型的な土蔵造りの建物ですが、山町筋の建物には珍しく母屋の右側の板塀の内側に前庭があります。板塀を含む間口は7間(約12.6メートル)、板塀を除くと間口四間半(約8.1メートル)、奥行き八間半(約15.3メートル)。左側に通り土間があり、一階は三列三段の間取りとなっています。 母屋と中庭を挟んで土蔵があり渡り廊下で結ばれています。




土蔵造りの町資料館座敷

座敷


 内部は繊細な数寄屋風となっており、座敷の壁は朱壁となっており、柱や長押に銘木をふんだんに使用した、贅を尽くした建物となっております。





土蔵造りの町資料館図面

間取り図





金屋町

金屋町の町並み



 高岡の重要な産業の一つである銅器は、前田利長が高岡築城に際し、慶長16年(1611年)戸出の西金屋(高岡の南部)に住む金森弥右衛門を始め七名の鋳造師を高岡城下に住まわせ、5カ所の吹場(鋳造作業所)を建設し、開業させたことに始まります。




千保川

千保川



 鋳造は火を使うため火災の危険があり、高岡城下の西部を流れる千保川の外に長さ(南北)100間、幅(東西)50間、5000坪の土地を与え、そこに住まわせ、金屋町と名付けました。個々の敷地は間口の狭い細長い敷地に、表から母屋、中庭、土蔵、作業場が並び、作業場から出火しても土蔵が火を遮り、母屋に延焼しないように工夫されていました。




金屋町二

金屋町千本格子の民家



 金屋町の家並みは千本格子の古い家並みが続く事で知られ、平成元年(1989年)より、電線を地中化し、路面を御影石を使った石畳にし、ガス灯風の街路灯を設置するなど街並みを整備し、2012年に重要伝統的建造物保存地区に指定されました。




高岡市鋳造資料館

高岡市鋳造資料館



 金屋町の街並み中に、一般の民家を改装して鋳造資料館があります。高岡銅器の歴史や、製造工程、多々良やふいごなどの道具、高岡で製造された製品が数多く展示されています。




高岡大仏

高岡大仏



 高岡大仏の起源は古く、鎌倉時代初頭、源義勝が承久の乱を避け仏門に入り、高岡市の北部、二上山の麓に高さ約五メートルの大仏を建立したことに始まります。慶長十四年(1609年)前田利長が、その大仏を高岡城の西側の現在の地に移しました。
 しかしその後大仏は荒廃し、それを嘆いた極楽寺の等誉上人が延享2年(1745年)に木造で再建します。その高さは3丈2尺(約9.7メートル)ありました。しかし文政4年(1821年)に火災で焼失。天保12年(1841年)に再興しますが、その大仏も明治33年(1900年)の大火で焼失しました。
 松本宗左衛門という高岡の篤信家が大仏の再建を発願し、明治40年(1907年)より再建が始まり、26年の歳月を費やし、昭和8年(1933年)に完成し、5月に開眼式を迎えました。青銅製の阿弥陀如来座像は総高は約16メートル、座像の高さは約7.5メートル、背後に大円輪の光背を持つもので、奈良、鎌倉の大仏とともに日本三大仏の一つ(異論あり)と数えられ、高岡銅器職人の技術の結晶と言われます。