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前田利長廟

前田利長墓所


 慶長19年(1614年)に加賀藩二代藩主、前田利長は五十三歳でなくなります。利長の後を継いだ弟利常は、利長の33回忌に合わせ、正保3年(1646年)に、利長の菩提寺、瑞龍寺の東8丁(約870メートル)に利長の墓地を造営します。その広さは1万坪(33000平方メートル)と大名一人の墓地としては最大級のもので、内と外に二重の濠で囲まれた豪壮なものでした。内堀内の中心部に幅15.5メートル、高さ5メートルの方形の御廟が築かれ、さらにその上に立つ石塔を含めると11.9メートルありました。基壇は四方が全面、戸室石で覆われ、狩野探幽が下絵を描いたと言われる一三〇枚の蓮華図文様が彫刻されています。
 前田家には金沢の野田山に歴代加賀藩主の墓所があり、前田利長の墓所も野田山にもあります。歴代藩主の墓所は方形に土盛りした墳墓で、その最大のものが藩祖利家の廟の幅20メートル、高さ5.7メートルとなっていますが、高岡の利長の廟は、利家の墳墓を数字のうえで越えないようになっています。





前田利長廟説明文

前田利長墓所図





前田利長公墓

前田利長墓所


 上の写真ははパンフレットから抜き取りました。普段は中に入れませんが、9月13日の前田利長公顕彰祭に、中が公開されるようです。





前田利長廟四

前田利長墓所中堀





前田利長廟二

参道




前田利長廟三

前田利長墓所前



八丁道

高岡駅南地図






前田利常


 三代加賀藩主、前田利常は、文禄2年11月25日(1594年1月16日)前田利家の四男として産まれています。母は側室の千代保。越中守山城の前田長種のもとで育てられ、慶長3年、守山城で父、利家と初めて対面しています。翌年、父利家が死去。
 慶長5年、男子のいなかった長兄、前田利長の養子となり、徳川秀忠の娘、珠姫と結婚します。そして慶長10年(1605年)利長が隠居すると、利常が家督を継ぎ、三代藩主となります。江戸幕府から藩を守るために鼻毛を生やし虚けを装ったなど様々なエピソードのある人物で、加賀100万石の基礎を築いた藩主でした。
 家督を譲ってくれた長兄で養父の利長の33回忌に合わせ高岡に豪勢な廟を造営し、50回忌に合わせ瑞龍寺を造営するなど、実の父の利家以上に利長を敬愛していたことが伺えます。寛文3年(1663年)の瑞龍寺完成を見ることなく、万治元年10月12日(1658年11月7日)に亡くなりました。享年66歳でした。






石廟

瑞龍寺石廟



 法堂の南、回廊の外に石廟があります。前田利長の岳父になる織田信長・信忠父子が本能寺の変で倒れると、利長は信長の骨を分骨し、霊を弔ったといわれています。
 瑞龍寺を造営した際、広山恕陽禅師が前田利家・利長父子、信長側室を加え計5基の石廟を造りました。
 上の写真は、右から前田利長、前田利家、織田信長、信長側室、織田信忠となっています。





織田信長石廟

織田信長石廟



 石は越前産の淡緑色の凝灰石(越前笏谷石)で造られた切妻型の石廟建築で、中に宝篋印塔(ほうきょういんとう)が納まっています。






説明文

説明文



 宝篋印塔は越前式の月輪装飾を施したもので、越前国を起源とし加越能に広く分布したものと、説明文には書かれていました。越前という地名がよく出てきますが、織田氏は元々は越前国、織田庄の織田剣神社の神官の出身であることはよく知られています。
 越前守護である斯波義重が応永7年(1400年)に尾張守護にも任じられますが、室町幕府の要職にあった義重は京都を離れることができず、代わりに織田常松が尾張国の守護代に任じられ、織田一族が越前から尾張に来て、信長の家系はその分家になります。
 また織田一族は代々越前発祥の曹洞宗に帰依していました。信長の父、信秀の菩提寺である桃巌寺や葬儀が行われた万松寺は、瑞龍寺と同じ曹洞宗の寺になります。
 信長の代になり臨済宗に宗派換えし、菩提寺である総見寺は臨済宗妙心寺派になります。




桃巌寺

 織田信秀の菩提寺、桃巌寺





万松寺

信秀の葬儀が行われた万松寺




仏殿


仏殿

仏殿


 仏殿は万治2年(1659年)に建立されました。総欅造りで外見は二重ですが内部は一重となっており、一重目の庇は裳階となっています。屋根は鉛板葺という珍しいもので、他には金沢城石川門などに使われています。鉛板葺きは徳川家康が築城した江戸城天守閣にも使われ、外見は白く見えます。これは戦の際、鉄砲の弾丸を製造に利用すると俗説がありますが、寒冷地で瓦内の水分が凍結し、瓦が損傷するために、普通の瓦の使用を避け、鉛瓦が使われたとも、当時は鉛が余っていたからとも言われています。




法堂内部二

仏殿内部


 内部には釈迦像を真ん中に、左に普賢菩薩、右に文殊菩薩が安置されています。この像は中国渡来のものと言われています。天蓋から下がる布は、蓮の繊維と絹で織られたもの、創建当時のものです。




法堂


法堂

法堂


 明暦年間(1655年~1657年)に建立された、総檜造り入母屋銅板葺きの建築物で、面積は186坪(約614平方メートル)と、寺院内で最大の建築物です。前後3室、計六室あり、その前面には細長い土間廊下があります。




法堂内部3

法堂土間廊下




法堂内部一

法堂内部


 建物中央二室の奥が内陣で前田利長公の位牌が安置されています。天井は格天井で狩野安信の筆による草花が描かれ、襖および壁は金箔貼りと豪華なものです。






木造烏蒭沙魔明王(うすさまみょうおう)立像

仏像



かつて七間浄頭(東司)に安置されていた木造烏蒭沙魔明王立像が安置されています。木造烏蒭沙魔明王は東司の守護神で不浄を転じて清浄とする神様で瑞龍寺では最も古い仏像で室町時代の作品と言われています。上の写真は回廊に置かれたレプリカで、実物は法堂内に安置されています。