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鉄櫓

吉田城鉄模擬櫓




吉田城は豊川が大きく蛇行し、支流の朝倉川との合流地点を背後に後ろ堅固の城として築城されました。その広さは東西約1400メートル南北約600メートルあり、東海道沿いでは駿府城や名古屋城の次に大きな城です。豊川、朝倉川を背後にし、本丸を中心に二の丸、三の丸が囲み、さらに藩士屋敷を囲むように総堀が築かれました。
 堀の多くは土塁ですが、本丸の内側、および虎口などの要所、北側の豊川に面した帯曲輪や西側北部には石垣が使われています。
 池田輝政が移封となった慶長6年以降の修築では、大名などの手伝い普請が行われたようで、石垣に名古屋城や大坂城で見られるような刻印が見られ、工事を分担した大名や家臣によって彫られたもので、50個ほど見つかっています。
 本丸には天守閣はなく、鉄櫓、入道櫓、辰巳櫓、千貫櫓が四隅にありました。



本丸石垣図

吉田城本丸図




鉄櫓下石垣

鉄櫓下石垣



本丸西石垣

本丸西石垣


 鉄櫓下石垣、および本丸北西部の石垣は、池田輝正が築城した当時の石垣で、城内ではもっとも古く、之図ら積みとなっています。





豊川沿い石垣

豊川沿い帯曲輪石垣




石垣2

本丸南御多門石垣


 本丸の内側や虎口の石垣は、修築しており、打ち込み接の石垣となっています。





本丸南御多聞石垣

本丸南石垣


 本丸南の石垣は石も小さく野面積みとなっています。

鉄櫓

鉄(くろがね)櫓



 愛知県のの東部、豊橋市は江戸時代、吉田という地名でした。吉田城を中心に発展した城下町、そして東海道の宿場町でもありました。
 吉田城の前身である今橋城は、戦国時代、永正2年(1505年)、東三河の豪族、牧野古白(ふるしろ)により築かれました。当時東三河進出を伺っていた安祥城の松平氏5代、松平長親に備えるために、駿河の守護大名、今川氏親の命によるものでした。
 その後、牧野氏と田原城の戸田氏の間で、今橋城の争奪戦が繰り広げられました。大永2年(1522年)に今橋から吉田に改名。享禄2年(1529年)に松平長親の孫、清康(家康の祖父)が吉田城を占拠、東三河における拠点にするものの、天文4年(1535年)清康が尾張守山城で暗殺されると、三河国は混乱に陥り、吉田城の城番は撤退し、再び牧野氏、戸田氏の間で吉田城をめぐり争奪戦が繰り広げられました。
 駿河の今川義元が、直接三河を支配するようになると、吉田城には義元の家臣の伊藤左近、後に小原鎮実(しずさね)が城代となりますが、永禄3年(1560年)に義元が桶狭間の合戦で織田信長に討たれ、今川氏の力が弱くなると、徳川家康が今川氏を離反し、永禄8年(1565年)に小原鎮実を吉田城から追い出し、重臣の酒井忠次が城代として入城し、牧野氏、戸田氏、西郷氏など周辺の豪族を配下に従えました。
 天正18年(1590年)徳川家康が関東に移封されると、吉田城には豊臣秀吉の重臣、池田輝政(照政)が15万二千石で入城し、吉田城と城下町を修築、近代的な城郭に生まれ変わりました。池田輝政は徳川家康の娘と結婚し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦では、前哨戦となる岐阜城攻めで活躍し、その恩賞で翌慶長6年、播磨五十二万石の大名となり、姫路城を築きました。
 三河、遠江、駿河の旧領を回復した家康は、それらの地に譜代大名を置きます。吉田城には竹谷松平氏の松平家清が三万石で入封。子の忠清が慶長17年に急死し、子供がいなかったため無嗣除封。深溝松平氏の松平忠利が三万石で入封。その後も水野氏、小笠原氏、久世氏、牧野氏、大河内松平氏など、三万石から八万石の中堅譜代大名が入封しました。



吉田城縄張り図

吉田城縄張り図




豊川

吉田城の背後を流れる豊川





第一八連隊図

歩兵第一八連隊配置図



 明治4年に兵部省の管轄となり、明治6年に失火で建物の大半が焼失。その後名古屋鎮台の豊橋分営所が設置され、明治18年(1885年)、陸軍の歩兵第十八連隊が設置されました。




しょうしゃ


哨舎


 歩兵第一八連隊正門脇に、コンクリート製の哨舎が建っています。



  


豊橋美術館

豊橋美術館



 戦後は豊橋公園として開放され、昭和29年に本丸北西に鉄櫓と言われる鉄筋コンクリート製の模擬櫓が建設、吉田城のシンボルとなりました。豊橋美術館やプール、陸上競技場、野球場などの施設が東側に建設され、西側には豊橋市役所や豊城中学などがあります。



小牧山城

小牧山城




 慶長12年、徳川家康の11男、義直が尾張藩主となると、たびたび水害に遭う清洲城を廃し、新たに城を築くことになりました。その候補地として古渡城址(東本願寺名古屋別院)、那古野城址、そして小牧山が候補地となりました。新城は那古野城址に決まり、名古屋城が築城されました。
 平野の中に単独で聳える小牧山は陣地を築くところとして最適であり、反乱(倒幕など)があった場合真っ先に狙われる土地であるため、尾張藩によって厳重に管理され、一般人の立ち入りは出来ませんでした。
明治維新後、小牧山は民間に払い下げられましたが、県が買い戻し、明治5年(1872年)に愛知県立小牧公園として一般に開放されました。しかし明治22年(1889年)に再び尾張徳川家の所有となり、一般人の立ち入りは禁じられました。
 昭和2年(1927年)尾張徳川家当主、徳川義親氏は小牧山を国に寄付し、小牧山は国の史跡に指定されました。
 小牧山の山頂には、昭和41年、名古屋市の資産家、平松茂氏の寄進で、京都西本願寺の飛雲閣をモデルに、鉄筋コンクリート製模擬天守風の小牧市歴史館が建設されました。




小牧山縄張り図

小牧山城縄張図



 小牧山の広さは東西約600メートル、南北約400メートル、広さ約21ヘクタール。山の中腹に渦を巻くように曲輪が配置され、別名「火車輪城」と呼ばれました。現在も曲輪や堀切りがいくつか見ることが出来ます。



曲輪1

山頂西の曲輪




堀切

空堀址




南側階段

小牧山南の道


 小牧山の南側には、山頂西の鞍部ぬ向けて一直線の登城道が設けられています。これは後の安土城にもみられます。




小牧山模型

小牧山城と城下町の模型



城下町


 小牧山の南に、東西約1キロ、南北約1.3キロの城下町を開きました。間口が狭く奥行きの長い短冊形の町割りが配置されました。
 清洲から家臣団や町人が呼び寄せられ、紺屋町、鍛冶屋町、油屋町、と言った職人町、御園町などの町名を付けられていました。御園町は清洲城下の御園神社付近の住民が移住し名付けられました。名古屋城外堀の御園門に受け継がれ、御園門から南に延びる御園筋には御園小学校、御園座があります。





南側眺望

小牧山南側の眺望


 この方向の麓に城下町が開かれました。左側の開けた土地はは小牧空港、正面は名古屋市北区方面になります。