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本丸から見る五十間長屋

本丸から見た五十間長屋など櫓群



 金沢城の中枢は藩庁である二の丸御殿のある、二の丸になります。その二の丸南部に菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓、橋爪門が連なっています。
 その中心となる五十間長屋は二層の多聞櫓になります。多聞櫓とは大和の戦国大名、松永弾正秀久が築いた多聞山城が、本丸を平櫓で囲ったことに由来すると言われています。江戸時代初期、徳川家康が築いた江戸城、駿府城、名古屋城。徳川秀忠再建の大坂城に多用され、本丸をぐるりと囲い、また要所を護るために使われました。普通の城壁に比べ、遙かに耐久性があり、防御力、攻撃力は格段に上がりました。
 一般には単層のものがほとんどですが、金沢城には二層の多聞櫓が、三の丸の九十間長屋、四十間長屋、二の丸の五十間長屋、本丸付段、および本丸に三十間長屋などの他、新丸にもありました。二層の多聞櫓は福岡城などの一部に見られるだけで、金沢城のように多用された城郭は他にはありません。
 寛永8年(1631年)に金沢城下の大火により本丸御殿が焼失。藩では新たに二の丸を整備し、二の丸御殿を藩庁とし、このころ橋爪門、橋爪門続櫓、五十間長屋、菱櫓が整備されました。その後も宝暦9年(1759年)の宝暦の大火で焼失、その後再建されるもの、文化5年(1808年)に再び焼失、翌年には再建されました。
 明治14年(1881年)に二の丸が焼失すると、長らく再建されませんでしたが、平成13年に再建されました。





菱櫓


菱櫓

菱櫓外観



菱櫓内部

菱櫓内部



 平面が菱形になっていることから菱櫓と呼ばれます。三層の望楼式櫓で、高さは石垣上端から17,34メートルと、犬山城天守(約18メートル)よりわずかに低い高さで、二の丸で最も高い物見櫓です。三層目からに視界は良好で、三の丸の河北門や石川門が一望にできます。東側と北側に石落としの出窓があり、東側には唐破風が乗り、北側には入母屋破風が乗っています。また三層目にも唐破風の乗る出窓が付けらています。




五十間長屋


五十間長屋

五十間長屋外観


五十間長屋内部

五十間長屋内部


 菱櫓と橋爪門続櫓をつなぐ二層の多聞櫓で、その長さは五十間(約90メートル)、幅は約7メートルあります。白漆喰塗籠めで腰部を海鼠壁とし、一層目と二層目の間に腰瓦が巡らされ、正面には唐破風を乗せた石落としの出窓が三つ設えています。屋根に鉛瓦葺きと、金沢城特有の造りとなっています。



海鼠壁構造

海鼠壁


 漆喰の塗籠壁は耐火性があるのですが、水に弱く、長年風雨にさらされると剥離する弱点がありました。そのため風雨にさらされやすい腰部に海鼠壁を使いました。海鼠壁は一般の土蔵の腰部にみられる壁で、平瓦を貼り、目地の漆喰を蒲鉾状に盛り上げたもので、蒲鉾状の目地が海鼠に似ていることから海鼠壁と呼ばれました。
 城郭で海鼠壁を使用している例は、金沢城以外では越後(新潟県)の新発田城があります。



端爪門続き櫓から見る五十間長屋

白く見える五十間長屋の鉛瓦


鉛瓦葺き構造

鉛瓦の構造


 金沢城では屋根に鉛瓦が使われており、全国的には珍しい例です(金属葺きの例はよくありますが、主に銅板が使用されます)。
 鉛葺きの例としては徳川家康の創建した江戸城天守があります。鉛板は陽に当てると白く見えます。白漆喰の外壁も含め天守全体が白く見え、その高さ(石垣も含めて約60メートルを超えていたといわれます)から富士山に例えられました。
 金沢のような雪の多い寒冷地では、瓦に水がしみこみ水分が凍結し瓦を痛めることが多くあまり使用されませんでした(現在では瓦を焼く焼成温度が高くなり、また釉薬を塗った耐水性の高い瓦が使用されています)。そのため金沢城では鉛瓦が多用されました。木製の下地に鉛板を貼っていくもので、当時鉛が余っていて入手しやすかったからといわれます。よく戦時には鉛を溶かして鉄砲玉にするといわれますが、使用された鉛に不純物が多く、鉄砲玉には使用できなかったそうです。
 他に鉛瓦が使用されている例に、越中(富山県)高岡の瑞龍寺仏殿があります。

大手堀

大手堀


 金沢城の北側を守る堀が大手堀です。





新丸

新丸広場


 金沢城は北側を正面とし、三の丸の北に新丸を築き、大手門(尾坂口)が築かれました。明治以降は西隣の北の丸との間にある堀が埋められ、陸軍歩兵第7連隊の兵舎が置かれ、戦後は金沢大学の校舎やグラウンドとなりました。金沢大学の移転後は新丸広場となり、全面芝生を貼った広大な広場となっています。




湿生園

湿生園


 三の丸と新丸の間にある堀が湿地化し、湿生園と言われます。

 ハナショウブ、ミズスイレン、ヒメスイレンなどの花が咲きます。


河北門


三の丸内から見た河北門

三の丸から見た河北門


 三の丸の大手口になる河北門は、前田利家築城当初からあり、慶長年間に枡形門形式に修築されました。金沢城はたびたび火災で城内の櫓、門、御殿を焼失しました。とくに宝暦9年(1759年)の宝暦の大火の被害は甚大で、城内の建築物の大半が焼失しました。三の丸の河北門、石川門もこの時焼失しました。河北門は安永元年(1772年)に再建。石川門は天明8年(1788年)に再建されました。しかし二の丸御殿の再建を急いだためか、河北門に付属するニラミ櫓や、枡形を囲む平櫓は再建されず、土塀で囲むだけでした。大きさは高さ12,3メートル、長さ27メートル、幅8,2メートルと、隣の石川門よりやや大きくなっています。明治15年(1882年)に撤去されました。
 平成19年11月から再建に取りかかり、平成22年4月に完成しました。




河北門内部

河北門内部




ニラミ櫓台

ニラミ櫓台


 かつて、石川門菱櫓のような望楼式二層のニラミ櫓がありましたが、宝暦の大火後、ニラミ櫓は再建されず、櫓台をナマコ壁の塀で囲み、石落としの出窓が設けられたものでした。




河北門一の門

河北門一の門


 幅4,7メートル、高さ7,4メートルの総欅造りの高麗門です。両脇の海鼠塀には隠し狭間が設けられ、平瓦によって隠されています。戦時には瓦を割り銃を撃ちます。




隠し狭間

隠し狭間


 土塀の下の木枠が隠し狭間です。





河北門枡形外

外から見た枡形


 枡形の土塀には石垣が内部に仕込まれ、その上に白漆喰が塗り込まれたものでした。





塀と石落とし

内側から見た石落とし


かつて河北門から石川門まで九十間長屋がありましたが、宝暦の大火で消失し、その後再建されず土塀を巡らせただけでした。土塀は外側を海鼠壁とし、石落としの出窓が設けられました。外側から見ると唐破風の庇を載せた優美な意匠となっていますが、内側から見ると、切り妻屋根の小屋となっています。また塀を補強する控え柱が密に入っています。

五十間長屋

五十間長屋



 金沢城は、もと尾山御坊といい、北陸地方に多くの門徒を持つ一向宗(浄土真宗)の本拠地の一つでした。室町時代、文明年間(1480年頃)に蓮如によって尾山御坊が築かれ、天文15年(1548年)には石山本願寺(大坂城の前身)のような城郭風の御坊が築かれました。
 天正8年(1580年)織田信長の家臣で柴田勝家の与力、佐久間盛政により尾山御坊は落城、佐久間盛政の居城となり金沢に名を改めました。




西本願寺金沢別院

西本願寺金沢別院


 尾山御坊は西本願寺金沢別院となり、現在まで存続します。





金沢城図

金沢城図




 天正10年(1582年)織田信長が本能寺の変で倒れると、織田家は重臣柴田勝家と羽柴秀吉が対立、そして天正11年(1583年)に賤ヶ岳の合戦で秀吉が勝利すると、金沢城は前田利家に与えられました。当時の金沢城は堀を掘った土で掻き上げの土塁を築く簡単なものでしたが、利家の入城で改修が進みました。北側の尾坂口を大手、石川門を搦め手とし、本丸、二の丸、三の丸など、城郭の諸設備が整ってきました。
 文禄元年(1592年)朝鮮出兵で利家は豊臣政権の重臣として京都に居ることが多くなります。その間、長男の利長に命じて、本丸の石垣工事を命じます。利長は高石垣で築こうとしますが、石垣が二度にわたり崩れ上手く行きません。そこで利家は土木工事に長じた篠原一孝を送り、石垣工事の職人集団の穴太衆を使い、高石垣ではなく二段に分け手石垣を築きました。その後も何度も改修が行われ、二重の総構えを持つ城郭となりました。


 金沢城には早い段階で五層の天守閣が築かれました。権力の象徴である五層天守は、豊臣政権では、関東に移封となった徳川家康を当てつけるかのように築かれていきました。家康を北から押さえるために会津に入封した蒲生氏郷が築いた会津若松城。秀吉の信頼厚い前田利家の金沢城。徳川家康の重臣だったが豊臣方に寝返った石川数正の松本城。五大老の毛利輝元の広島城、宇喜多秀家の岡山城です。後に五大老の一角を占める上杉景勝は、蒲生氏郷亡き後の会津若松城主となっているので、徳川家康以外の五大老に五層天守を持たせています。その反動か、天下を取った徳川家康は江戸城、駿府城、名古屋城など秀吉の大坂城を遙かにしのぐ巨大な五層天守を築かせ、娘婿の池田輝政に姫路城を築かせます。 金沢城の天守閣は慶長7年(1602年)に火災で焼失し、それ以降徳川幕府にはばかり再建されず、御三階櫓が天守の代用となりました。


 金沢城は犀川と浅野川に挟まれた、標高50メートル余りの小立野台地の北西端に築かれました。本丸の最も高い所が標高約60メートル。城下が標高30メートル程度だから、比髙30メートルの平山城となります。本丸を中心に東の丸、二の丸、鶴の丸、三の丸、薪丸、新丸、藤右衛門丸(北の丸)、玉泉院丸を内郭とし、さらに玉泉院丸丸の外側に金谷出丸を築き、その広さは約30万平方メートルを越えます 。その外側に内総構え、外総構えと二重に総構えを持つ100万石にふさわしい城郭となっています。縄張りは渦郭式と言われ、渦を描くように曲輪を配置する構造で、代表的な渦郭式城郭には江戸城、姫路城、松阪城、津山城などがあります。


犀川

犀川


浅野川

浅野川


 金沢城は犀川と浅野川にはさまれた台地に築かれました。犀川は別名男川、浅野川は女川と呼ばれています。友禅流しは浅野川で行われていました。





石川門

石川門




石川門菱櫓

石川門菱櫓


 かつての金沢城のシンボルが石川門でした。




三十間長屋

本丸付壇三十間長屋




 明治維新後、金沢城は陸軍が接収。明治8年(1875年)第7歩兵連隊が置かれますが明治14年(1881年)に失火で、石川門、三十間長屋、鶴丸倉庫以外全て焼失しました。明治31年(1898年)、第9師団本部が置かれました。戦後は金沢大学のキャンパスとして使われましたが、平成7年(1995年)に金沢大学が移転し、金沢城址公園として整備が始まり、五十間櫓、河北門、玉泉院丸庭園が整備されました。 



第6旅団本部

第六旅団司令部


 陸軍時代の遺構が二の丸に残っています。





河北門

河北門


 新たに再建されました。