金沢城 その一 | にっくんのブログ

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五十間長屋

五十間長屋



 金沢城は、もと尾山御坊といい、北陸地方に多くの門徒を持つ一向宗(浄土真宗)の本拠地の一つでした。室町時代、文明年間(1480年頃)に蓮如によって尾山御坊が築かれ、天文15年(1548年)には石山本願寺(大坂城の前身)のような城郭風の御坊が築かれました。
 天正8年(1580年)織田信長の家臣で柴田勝家の与力、佐久間盛政により尾山御坊は落城、佐久間盛政の居城となり金沢に名を改めました。




西本願寺金沢別院

西本願寺金沢別院


 尾山御坊は西本願寺金沢別院となり、現在まで存続します。





金沢城図

金沢城図




 天正10年(1582年)織田信長が本能寺の変で倒れると、織田家は重臣柴田勝家と羽柴秀吉が対立、そして天正11年(1583年)に賤ヶ岳の合戦で秀吉が勝利すると、金沢城は前田利家に与えられました。当時の金沢城は堀を掘った土で掻き上げの土塁を築く簡単なものでしたが、利家の入城で改修が進みました。北側の尾坂口を大手、石川門を搦め手とし、本丸、二の丸、三の丸など、城郭の諸設備が整ってきました。
 文禄元年(1592年)朝鮮出兵で利家は豊臣政権の重臣として京都に居ることが多くなります。その間、長男の利長に命じて、本丸の石垣工事を命じます。利長は高石垣で築こうとしますが、石垣が二度にわたり崩れ上手く行きません。そこで利家は土木工事に長じた篠原一孝を送り、石垣工事の職人集団の穴太衆を使い、高石垣ではなく二段に分け手石垣を築きました。その後も何度も改修が行われ、二重の総構えを持つ城郭となりました。


 金沢城には早い段階で五層の天守閣が築かれました。権力の象徴である五層天守は、豊臣政権では、関東に移封となった徳川家康を当てつけるかのように築かれていきました。家康を北から押さえるために会津に入封した蒲生氏郷が築いた会津若松城。秀吉の信頼厚い前田利家の金沢城。徳川家康の重臣だったが豊臣方に寝返った石川数正の松本城。五大老の毛利輝元の広島城、宇喜多秀家の岡山城です。後に五大老の一角を占める上杉景勝は、蒲生氏郷亡き後の会津若松城主となっているので、徳川家康以外の五大老に五層天守を持たせています。その反動か、天下を取った徳川家康は江戸城、駿府城、名古屋城など秀吉の大坂城を遙かにしのぐ巨大な五層天守を築かせ、娘婿の池田輝政に姫路城を築かせます。 金沢城の天守閣は慶長7年(1602年)に火災で焼失し、それ以降徳川幕府にはばかり再建されず、御三階櫓が天守の代用となりました。


 金沢城は犀川と浅野川に挟まれた、標高50メートル余りの小立野台地の北西端に築かれました。本丸の最も高い所が標高約60メートル。城下が標高30メートル程度だから、比髙30メートルの平山城となります。本丸を中心に東の丸、二の丸、鶴の丸、三の丸、薪丸、新丸、藤右衛門丸(北の丸)、玉泉院丸を内郭とし、さらに玉泉院丸丸の外側に金谷出丸を築き、その広さは約30万平方メートルを越えます 。その外側に内総構え、外総構えと二重に総構えを持つ100万石にふさわしい城郭となっています。縄張りは渦郭式と言われ、渦を描くように曲輪を配置する構造で、代表的な渦郭式城郭には江戸城、姫路城、松阪城、津山城などがあります。


犀川

犀川


浅野川

浅野川


 金沢城は犀川と浅野川にはさまれた台地に築かれました。犀川は別名男川、浅野川は女川と呼ばれています。友禅流しは浅野川で行われていました。





石川門

石川門




石川門菱櫓

石川門菱櫓


 かつての金沢城のシンボルが石川門でした。




三十間長屋

本丸付壇三十間長屋




 明治維新後、金沢城は陸軍が接収。明治8年(1875年)第7歩兵連隊が置かれますが明治14年(1881年)に失火で、石川門、三十間長屋、鶴丸倉庫以外全て焼失しました。明治31年(1898年)、第9師団本部が置かれました。戦後は金沢大学のキャンパスとして使われましたが、平成7年(1995年)に金沢大学が移転し、金沢城址公園として整備が始まり、五十間櫓、河北門、玉泉院丸庭園が整備されました。 



第6旅団本部

第六旅団司令部


 陸軍時代の遺構が二の丸に残っています。





河北門

河北門


 新たに再建されました。