大手堀
金沢城の北側を守る堀が大手堀です。
新丸広場
金沢城は北側を正面とし、三の丸の北に新丸を築き、大手門(尾坂口)が築かれました。明治以降は西隣の北の丸との間にある堀が埋められ、陸軍歩兵第7連隊の兵舎が置かれ、戦後は金沢大学の校舎やグラウンドとなりました。金沢大学の移転後は新丸広場となり、全面芝生を貼った広大な広場となっています。
湿生園
三の丸と新丸の間にある堀が湿地化し、湿生園と言われます。
ハナショウブ、ミズスイレン、ヒメスイレンなどの花が咲きます。
河北門
三の丸から見た河北門
三の丸の大手口になる河北門は、前田利家築城当初からあり、慶長年間に枡形門形式に修築されました。金沢城はたびたび火災で城内の櫓、門、御殿を焼失しました。とくに宝暦9年(1759年)の宝暦の大火の被害は甚大で、城内の建築物の大半が焼失しました。三の丸の河北門、石川門もこの時焼失しました。河北門は安永元年(1772年)に再建。石川門は天明8年(1788年)に再建されました。しかし二の丸御殿の再建を急いだためか、河北門に付属するニラミ櫓や、枡形を囲む平櫓は再建されず、土塀で囲むだけでした。大きさは高さ12,3メートル、長さ27メートル、幅8,2メートルと、隣の石川門よりやや大きくなっています。明治15年(1882年)に撤去されました。
平成19年11月から再建に取りかかり、平成22年4月に完成しました。
河北門内部
ニラミ櫓台
かつて、石川門菱櫓のような望楼式二層のニラミ櫓がありましたが、宝暦の大火後、ニラミ櫓は再建されず、櫓台をナマコ壁の塀で囲み、石落としの出窓が設けられたものでした。
河北門一の門
幅4,7メートル、高さ7,4メートルの総欅造りの高麗門です。両脇の海鼠塀には隠し狭間が設けられ、平瓦によって隠されています。戦時には瓦を割り銃を撃ちます。
隠し狭間
土塀の下の木枠が隠し狭間です。
外から見た枡形
枡形の土塀には石垣が内部に仕込まれ、その上に白漆喰が塗り込まれたものでした。
内側から見た石落とし
かつて河北門から石川門まで九十間長屋がありましたが、宝暦の大火で消失し、その後再建されず土塀を巡らせただけでした。土塀は外側を海鼠壁とし、石落としの出窓が設けられました。外側から見ると唐破風の庇を載せた優美な意匠となっていますが、内側から見ると、切り妻屋根の小屋となっています。また塀を補強する控え柱が密に入っています。