自分はかなりの面倒くさがり屋です。

最近特に、面倒なことは後回し後回しでやっている気がします。

なので、ソレを克服する為に、こんな今年の抱負を提案してみようと思います。


1.自分が成長できる面倒くさい事

2.成長できるかどうかはわからないけど、人生経験を得られる面倒くさい事

3.特にメリットもないし面倒くさいけどオイシイ(と思われる)事

以上の面倒くさいことを進んでやっていこう!


どうでしょう?…どうでしょうちゃいますね。

これらの具体的な例は、実行した実感を得られる度に

ここでのネタとして使っていこうと思います。


胃に穴が開かない程度に頑張るぞー!

どうもyachtseaです。


今まで自分のwebサイトやブログでボヤいていた感じのことを

このブログ一本でやっていきたいと思います。


ニュースの記事に対するコメントとか

なんか言いたくて仕方がないこととか

もうなんでもかんでも書いていきます。


まずはごあいさつまで。

自論である「時間=命」論を語るにはちょっと時間がかかる。
しばらくこの自論にお付き合い頂きたい。


時間は人が作り出した概念なのである。
作り出した、ということはそもそも時間は存在しないのだ。
???…じゃあ時間って何?と。
ここでの時間の意味を解りやすくする為に、
「ストリーム(流れ)」と表現することにしよう。
つまり刻一刻と止まる事なく過ぎているこの自然な状況の事だ。


もう一つの意味は、ある瞬間からある瞬間までの目盛り。
これが人が作り出した時間の概念だと思われるので
この意味は通常通り「時間」と表現しよう。
で、前者の「ストリーム」は自然な現象であることに対して
「時間」は人工の概念だという事を念頭に置いておいて欲しい。


さて、ちょっと落ち着いて考えてみよう。
「ストリーム」は常に未来へのベクトルを持っている。
不可逆なものなんだ。
対して「時間」は可逆である。
その気になれば何時だって行ける。


例えば明日は10日後にでもなるし来年にだってなる。
1秒ずつ時間をさかのぼる事だって可能だ。


なぜならそれは作り出された概念だから、
時間が「1秒ずつ進む」という概念を「1秒ずつ戻る」
というように決めてやればいいのである。
いや、俺は大まじめだぞ。


じゃあ仮にストリームが過去へのベクトルを持って
-1秒というような時の進み方に沿うことが可能だとしよう。
そして今日一日という日を、明日一日かけてさかのぼったとすれば、
それは一日戻ったのではなく、一日過ごしたということになるのだ。


もし一日戻るのであれば、ビデオの巻き戻しのように
アナタ自身の世界も戻らなければ辻褄が合わなくなる。
アナタが時間を逆に辿るためには、時間(ストリーム)が必要なのである。


そう、これは重要な事だ。
認識する・行動する・日が昇る・風が吹く・木の葉が揺れる
全てにおいてストリームが必要なのである。
そしてストリームそのものの事を「ストリームが存在する」と表現するならば
過去も未来も「ストリームは存在する」のである。
例え全てが「無」だったとしても同じ。
宇宙が誕生するその前だって同じ。
「その前」っていう言葉こそ「ストリームが存在する」証明。
ただ、それらを私達が認識出来ないだけなのだ。


認識できないのはなぜか?
「ストリームの存在」を認識する為には、
私達を含む、動物や植物、星、宇宙が「存在する」事。
つまり「命」を吹き込まれたモノが「存在する」事だ。
逆に言うと私達が存在する事、存在すると認識出来るのは
「ストリームが存在する」からである。


よって「時間=命」、いや「ストリーム=命」の理論が導き出されたのである。
命がストリームを作り出していると言っても過言ではない。
結局我々は3つのディメンションから構成されているのである。


相対性理論?そんな難しい話は放っておこう。
発明して試行錯誤しなければ使えないディメンションなんて
存在しないものと同じ。そんなものは机上の空論に「≒」だ。
3つまでなら何も発明しなくとも自由に出来るのだから。
もし4つ目のディメンションを挙げるとすれば
それは精神世界の事だと考える。
発明しなくとも自由にできるしね。


余談ではあるが「時間が止まる」即ち「ストリームが止まる」という事は
この世界が存在しない(「無」というストリームさえ)という事になるだろう。
ドラえもんには申し訳ない。
というか自己満足で矛盾の多いかもしれない話に付き合ってくれて
どうもありがとう、感謝!

客観的に考えなければならない場面において
大抵の人は客観的主観で物事を考える傾向にあるみたいだ。


だから「自分があの人の立場なら…」
なんて言っている人は
あたかも客観的に考えているようだが
(文字で考えると完璧主観だが、結構こうやって話す人は多い、自分も含め…)
最強に主観で物事を判断しているワケだ。


じゃあいくら客観的って言っても
主観が入ってくるじゃないかという声が聞こえてきそうだが、
まぁ主観がなければ基準となる考えが存在しないワケで
そうなると全く判断力のない人間になってしまうだろうなぁ。


自分の考える客観っていうのは
「この場合この人ならこう判断するだろう」
というような考え方のことじゃないかって思う。


そうやって考えることができれば
自分が考えもしなかった価値観を
知ることができるかも。


この人はマヨネーズ好きだからご飯にマヨネーズをかけるだろう。
あぁ、そんな選択肢もあるんだな…みたいな(笑)


…とにかく客観的って言葉は
自分とは違う価値観を理解できる人のために
あると言っても過言ではないかもしれない…ね?

今日エスカレーターに乗ろうとしたときに、ふと思ったことがある。
皆はエスカレーターに乗る際にスムーズに足場に乗り込んでいるだろうか?
それとも一歩見送って安全に乗っているだろうか?


ここで後者を選択している人は、
日々遅れを取っていると考えることが出来ないだろうか?


他にも、例えば通勤で5つのエスカレーターを使う事で会社に到着出来るとしよう。
この場合帰宅分も合わせて「10歩/日」の遅れを取ることになるのだ。
これが一週5日(土日を除く)すると「50歩/週」
さらに4週=一月として計算すると「200歩/月」
そして一年では「2400/歩」ということになる。


これは些細なことなのだろうか?


もっともっと考えてみよう。
例えばあなたが帰宅するときに、まもなく出発の満員電車に乗っているだろうか?
それとも10分後発の満員になる前の電車の座席に座り帰宅しているだろうか?
この場合の計算結果は上の歩数と同等(帰宅のみを考えて「10分/日」とする)になる為、「2400/分」(40時間)となる。
あなたは二日間近く無駄にホームで立ち尽くしていることになる。


ただし、全てが無駄なのかと言えばそうでもない。
それは車に乗っていてよく感じるのだ。


信号の無い交差点において、少々強引に右折をして危険な思いをするよりも、
確実に右折可能な状況を待とうか、と。
もちろんここで事故なんかを起こしてしまえば、
時間もお金も無駄にすることは必至である。


要は確実にチャンスをモノにして、遅れを最小限に抑える事が大事なのだ。


以上は物理的な話ではあるが、
これをスキルアップの話に置き換えて考えてみれば、
事の重大さはお解りいただけるであろう。
遅れを取る事で得られるメリット>デメリットである場合を除いては、

極力一歩でも先へ進みたいものである。


まぁ、理想と現実は違うのだけれど。

「若いうちは時間がたっぷりあるから遠回りをしてもいい」
そんな言い回しを誰もが耳にしたことがあるだろう。


私はそうは思わない。
だって「遠回り」って無駄じゃないか?
それに若くとも年を取ろうとも時間は誰に対しても平等だ。
そう思ってしまうのである。
(つまりひねくれてます)


しかしある人は言う。
「人生無駄なし」と。
私は心から同意する。


つまり私はこう考える。


若いうちは無駄なことを沢山すればいいのではない。
無駄ではないと思うことを沢山すればいいのだ。


そこで無駄だったと思えば無駄だったのだ。
それらの経験はあなたに何ももたらしてはくれないだろう。


そこで無駄ではないと思えば無駄ではないのだ。
それらの経験であなたは何かを得るだろう。


つまり後者こそが「人生無駄なし」の本質ではないだろうか。


無駄ではないと思うことを無意識に意識する。
ちょっと頑張ってみよう。

「人間の本性は反復である」と何かの本で読んだ。


時間は過去から未来に向かって流れていくが、
人間の精神についてはそうではないというのだ。
なるほど確かに人は繰り返しを持って生きている。


例えば、いつか訪れる「別れ」を知っていても、
「出会う」という行為を求めて生きている。
それは友人でも恋人でも家族でもそうだ。


他にはどのような反復を行っているのだろう?


小さなところから考えてみると、

それは「一日」という単位で繰り返されていく「毎日」、
これも反復だろう。
そしてその小さな「一日」が反復されるからこそ、
「明日」に改善を加えることが出来るのである。
それが失敗か成功かは関係ない。
失敗なら再度改善を加えればいい、ただそれだけだ。


となると、一つのスパンが終わるときに、
やがて来るであろう未来という名の「過去」を思い起こすこと。
これが次に繋げる為に必要なことなのではないか?


例えば、


・一日が終わるとき、一日の始まりを考える。
・人と別れるとき、出会いを考える。
・命が失われるとき、この世に誕生する命を考える。


正しいかそうでないかは置いておいて、これも人が成長していく一つのカタチなのだろう。
その本の言葉を借りると「未来にこそ追憶すべきだ」と述べている。
何か思い悩んだりつまづいたりしたときは、「未来」を思い出してみよう。

今日も皆様お疲れ様。
私はというと、21時半まで残業だった。
いやいやまだまだ時間が足りない。
てか、本当はもっとやりたかったけど、今日は風邪気味で限界が来たというわけだ。


さて、なぜ私が風邪気味であるか。
その答えは簡単である。


アレは忘れもしない朝の通勤電車の中での出来事だ。
通常、真ん中の通路を挟んで向かい合う様に並ぶ椅子のある電車では、
進行方向に対して体を平行にして乗るスタイルが一般的であろう。
ましてや混雑する朝の時間帯だ。
真ん中の通路においてそのスタイルを崩す様なことがあれば、
吊革を持つ人々の邪魔にもなりかねない…
というのが一般的な見解である…ハズである。


しかし今朝は違った。
体格の良いおばちゃんが一人、それだけでも最大乗車率を下げているというのに
、真ん中の通路を進行方向と垂直になる形で塞いでいるではないか。
全く迷惑な…と思いつつもおばちゃんの横まで詰めて立ち位置を確保する俺。
ん?そういえばおばちゃんマスクしてるやん…まさか?


…そう、そのまさかだった。
おばちゃんは俺が乗換駅で降りるまでの約35分間、ずっとゲホゲホやってくれたのだ。
しかも進行方向と垂直、つまり俺の方向を向いてゲホゲホ。
勘弁してー。
俺の鼻がじゅるじゅる言い始めるのに、そう時間はかからなかった。


と、まぁこうは書いたものの、風邪の原因がおばちゃんであるかどうかは、
俺にとって問題ではない。
おばちゃんを責めてもメリットは何一つとしてない。
一番重要なのは、この風邪を早期に治す事で、二番目に重要な事は免疫力を高める事だ。
三番目以降はウイルスを手で跳ね除けるくらいしか思いつかないので、
その辺からは大して重要ではないのだろう。


要は周りがある前に自分があるのだ。
自分が大変な目に合うということは、大抵の場合自分に非がある。
だからそれに気づいて直せば良いのだ。
周りのせいにばかりしている人に成長はない。
間違いない。


あぁ今日も疲れた疲れた。
ったくこんなに残業せなアカンのは、絶対にあの無茶な案件のせいや。