台風373号。

台風373号。

井上みなみのブログです。

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「なりたい」と思うことが多い方だと思う。目指したいとか、あこがれとかじゃなくて、もっとぬるっとした願い。(これは俳優とはまったく別のところの話。)

最近は特に「音になりたい」という感覚が強い。とにかくデヴィッド・ボウイの声になりたい。あとは音楽を聴いていて、一瞬の手拍子「タタタタン!」、ラップの合いの手「ya∼」、とか、そういう、挟まった音になりたい感じ。短い音。歌詞よりメロディより生きた感じの音。

発せられた音はいつ死ぬんだろう。音楽に混ざる音は繰り返されるけど、同じ音は二度とない。聞こえなくなる瞬間、振動がなくなる瞬間、はいつだろう。台詞の外側に興味があるように、ドレミファの間に興味があるのかもしれない。脳内で繰り返し再生されてしまう音楽は、聞こえないはずなのにどこで流れてるんだろう。なにを言ってんだかわかんないし、誰が共感してくれるかわかんないけど、でもやっぱ、そうなんだよなー。

 

尊敬する人がとても増えたと思う。やっぱり、誰かと創るということが一番楽しい。凹んだり悔しかったりもいっぱいすぎて、めげることももちろんあるけど。

それからとにかく練習(稽古)あるのみだなと思った。本番の一瞬の生のやり取りが本当に面白いと思うし、だから続けていたいのだけど、そこにたどり着くまでの準備はほんと重要。重要すぎる。(今とても当たり前の話をしている。)準備の仕方は人それぞだし、正解はないけど、この1カ月の準備は自分にとってはとても有効だった気がして、よかった。自由を目指すために繰り返している。案外テスト勉強と同じなのかもしれない。ドリルとテストの問題は違うけど、ドリルを繰り返さなきゃ、解けない問題がある。

毎日毎晩祈るとしたら。答えはすぐ出てしまって、叶わないことがあるようで凹んだ。これが2年前だったら、「身の回りの人がなるべく幸せであるように」とか、「世界の争いが減るように」とか、そういうふんわりとした祈りだったんだろうと思う。

もし、祈りの力が「叶う」という部分にあるとしたら、もうきっと世界中の戦争はなくなって、疫病は消え去って、みんな思い通りの生活を送れている。祈りは、「叶」わない。叶うためにあるんじゃない。(と思う。)

祈りの力は「祈る」ことじたいにあるんだと思う。祈ること、祈ってみること、祈っておくことが、救いになるということなんだと想像する。シンプルにアウトプットなのかもしれない。沈黙のアウトプット。日記を書くとか、そういうことに近いような気もする。演劇が祈りだという人もいる。人によるよね。(最近座右の銘は「人による」なんじゃないかと思ってきたよ)

新明解さんに「祈り」について聞いたら、「自分の身の上にはよい事が、他人には悪い事が起こることを欲したのが原義」とあってびびった。

 

8月の終わり、「わたしこのまま死ぬのかな」の経験をした(コロナじゃないよ)。こう思ったのは人生で2回目で、1回目は10年前の東日本大震災。東京にいたけど、人生最大の揺れで、自宅に一人で、「こういうときに死ぬんだ…」って思った。もちろん死ななかった。今回だって死ななかったし、元気だし、死ぬようなことではなかった。でも、まじでほんとに毎日豊かに楽しく生きなきゃよねと思ったことでした。明日死ぬかもしれないから、は綺麗事じゃない。不思議なことに、「死ぬかも」って思った瞬間は、生き延びることじゃなくて人に言い残すことを考えた。

そうそうそれに始まって、運の悪い事が重なってかなりめげていた、けど、直後からぴょんぴょんとよい事がやってきて、なんだかほんとに漫画の展開みたいだった。これまで自分が信じてきたものや、積み重ねてきたものを、ちゃんと認めてもらえる機会があるというのはやっぱりめちゃくちゃ嬉しい。すべてすべてがうまくいくわけじゃないけど、目の前にある大切がいちばん大切ですよねって思う。

 

ここ5年くらい考え続けていた自分のことの答えのようなものを発見して、少しだけ世界がきらっとした、8月と9月。

嘘と本当が、ほんとうにあるとしたら、演技はいつもその間にあるなあと思ったこと。嘘に寄りすぎたり、本当に寄りすぎたら、居場所がない。

例えば「フェイクスピア」の終盤にやってきた言葉群、例えば「とぶ」で教室の美術を立てた体育館という設定の劇場空間、例えば「ペンギン・ハイウェイ」で前半の現実感と対照的に後半のファンタジー。嘘が本当に舵を切ったとき、本当が本当のふりをしたまま嘘をついたとき、なんかぐっとおもしろくなると思う。それから、本当を際立たせるために嘘をつき続けたり、嘘も本当の一部にするために本当を続けておいたり、いつだって作戦はとっても重要。

いつか「下手くそに音読する」という演出がついた時、見ていた人に「本当に読み間違えたの?わざと?」と聞かれてうまく答えられなかった。本当だったし、嘘だった。

最近は嘘と本当に興味があるんだと思う。

「フェイクスピア」で、あのシーンが始まるまで馬鹿にして聞いていた(馬鹿にして発せられていたかもしれない)言葉が、シーンの始まりとともに「本当」としてばちんと受け止められて、演劇と演技の力を思い知った気がした。この演劇の始まりも「はじめは本当でここから嘘」という始まり方だった。

当たり前のように、好みや、何を求めて観るかもめちゃデカくて、バチバチのフィクションエンタテインメントが観たいときもある。そういうときは、自分の生きてる現実が、本当部分を担っている感じ。

そういえば、家族の影響でスターウォーズシリーズが結構好きなんですが、あれも宇宙戦争から小さな親子のこと兄妹のこと、フォースが宇宙と一瞬の心の揺れをおんなじに繋いでいて、そういうふり幅が好きなんだと思う。

にゃごにゃご。