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Minahei

ライター戸塚美奈のブログです。

ウミガメの鼻にささったストローの画像が世界中に流れ、いま、先進国では脱プラスチックストローの運動がさかんだ。ストローだけでなく、ちいさなプラスチックの破片は、マイクロプラスチックとなり、海にただよい続け、海洋生物が誤って食べたりすることで大きな問題になっている。プラスチックストローをやめることにはおおいに賛成で、日本のファストフードやコンビニ業界も、いますぐにでもプラストローを廃止すべきだと思う。

でも、こうしたニュースを聞くたびに、いつも思うのだ、そもそも、なんでストローを使う必要がある? ストローが必要なのは、コップで飲むことに不便のある小さい子どもや病人で、大の大人が使うものではない、のではないだろうか?(マラソン中や運転中に飲むには便利だが)。クリームたっぷりのフラペチーノとやら、あれだって、スプーンですくって食べればよい。ストローでアイスウーロン茶を飲むとあまりうまくない。つまり、甘味のないものはストローで吸ってもあまりうまくない。でも、甘いワインや甘いカクテルなどアルコールにはストローは使わない。つまり、ストローは子どもの甘い飲み物用のものなのだ。なのに、今は大の大人がストローを堂々と吸っている。コンビニで買った紙パックにストローをつっこんで吸い上げている若者たち。何の疑いもなくチュウチュウと吸っている。こんなこと言っちゃなんだが……あれは、「おっぱい」の代わりなんじゃないか?

 

ふとだいぶ昔、私の身に起こった事件?を思い出す。大昔の夏の日、市ヶ谷にあったある地下の喫茶店で、仕事の資料にあわただしく目を通しながらアイスコーヒーにストローを突っ込み、勢いよくチューと吸ったら、舌先に、テングサのようなものが触れた。なんで海藻が入っているんだろうと思いつつ口から出したそれはゲジゲジ虫であった(幸か不幸か動いてはいなかった)。あのときのストローとゲジゲジの触感が記憶に刻み込まれたおかげで、私はストロー離れ、乳離れできた、たぶん。

 

ストロー廃止はいいことだ!けれど、そもそもマイクロプラスチックはストローに限らない。ウミガメにささったストローはインパクト大だが、海にはもっと小さな小さな目に見えない生き物たちでできている。

ベア・ジョンソンさんに感化されてコンポストを始めたが、コンポストを始めると、プラスチックがどこまでいってもプラスチックで、まったく土に還らないことをまざまざと見せつけられて愕然とする。土に生ごみをまぜると、生ごみはやがて土に還っていく。その土をかき混ぜると、小さなプラスチックの破片がキラリと光る。いつまでたってもピカピカだ。納豆のタレの切った三角の部分が、いつまでもいつまでも残っている。こうしたものが自然界に漂っていることがどれほど危険かは、コンポストを見ていれば一目瞭然である。

もっと小さいプラスチックのクズに化学繊維の糸くずがある。ストローのことばかり言って、化学繊維のクズのことを何も言わないのも変な感じだ。洗濯の汚水からもそれらはどんどん流れてしまうのに。最近はやりの「○オチくん」という、水でこするだけで汚れがグングン落ちるというスポンジ。洗剤を使わないのがエコっぽいし、こすっているとどんどんスポンジが減って面白いから以前はよく買っていた。でも、「この減ったものはどこへ行くの?」これもマイクロプラスチックとなる。プラスチック消しゴムもプラスチックのかすが出るが、あれは燃えるゴミに出せるからまだましだ。水に流してしまっていいのだろうかと思う。それから、不織布。これもプラスチックだ。肉や魚から出た水分をとるために敷かれている小さな不織布。これもコンポストの中で土に還らない。

使い捨てのマスクのひもにひっかかった野鳥が問題になっていたが、ひもよりもっと問題にすべきことがあるのでは?

 

ユニクロがプラスチックパッケージをやめるというニュースがあって、少しほっとした。ピカピカ・キラキラしたプラスチックのパッケージにつつまれると、清潔なようだし、とても素敵に見える。でも、もうそういうことからはもういいかげん卒業しようよ、と言いたい。いや、自分に。私だって、ストローはやめられたけど、生活からプラスチックすべてを排除することはできないし、いまだにプラスチックでできたものを素敵に感じて、うっかり手が伸びてしまうこともあるから。

プラスチックは石油に支えられた豊かさの象徴。まるでドバイのビルみたいになものだ。でも、少しずつ離れたい。ゼロ・ウェイストを掲げる海外のインスタグラムに、「No New Plastic」という言葉を見つけた。今あるもので最後にしよう、できるだけ。

 

土に還る不織布なども、最近研究されているという。でも、本当に本当に土に還るのか? と考えたらわからないことが多いし、そもそもコストが大きすぎるように思う。不織布も、医療など、必要な場ではありがたく使えばいい。どうでもいい除菌とかマスクとかで使いすぎるのが問題だ。マスクはいつから使い捨てになった? ガーゼで何度も洗濯して使えばいい。どうせウイルスを防ぐことなんてできやしないんだから。プラストローも、やめるのはいいが、エネルギーを使って紙ストローにするのなら、最初からストローを使わない飲み方をすればいい。しかし……全世界でこれだけストローが使われていることを考えると、世界中に、いつまでもおっぱいと離れられない人がたくさんいる、ということなんだろうな、なんて思ったりして。

『打ちのめされるほどすごい本』。これは米原万里さんの最後の書評集。なんて素敵なタイトルと唸ったものだ。そんなふうに、私も打ちのめされた本を紹介したい……とはいっても私の場合、かなわんと打ちのめされるほどの才もないので、ただただ感心して影響されるのみである。

しばらくブログを書けなかった理由のひとつが、この本だ。『ゼロ・ウェイスト・ホーム』。もちろん、「打ちのめされて」書けなかったのではなく、あまりにも影響されすぎて、リアルライフが忙しくなったから。著者は、ベア・ジョンソンさんという、カリフォルニアに住む主婦。フランス人だ。もともと、ベアさんは愛する夫、息子二人と、ハリウッド映画で観るような、消費生活を謳歌するゴージャスなアメリカ人の暮らしをしていたらしい。ところが、あるとき、物を減らし、小さな家に引っ越し、シンプルライフへ移行。その過程で、人間の営みが地球環境を破壊しているという映像を観てショックを受け、猛勉強。以来、環境負荷がかかるプラスチックなど化学製品を使うことをやめ、ごみを減らす暮らしにチャレンジ。そしてついに、4人家族が1年に出すゴミは、ガラス瓶1つ分だけに! 本は世界中で翻訳されている。環境大賞に選ばれて、受け取ったトロフィーを、数日後に送り返したというエピソードも面白い。わたしには素晴らしい思い出がある、しかもトロフィーにたまるホコリをはたく必要もないんです!とベアさん。

 

この本には、いかにしてゴミを出さずに暮らすか、ゴミを出さないということがどれほど暮らしを豊かにするか、ベアさんの飽くなきチャレンジがあますところなく書かれている。

大きなポイントは、リフューズ(断る)、リデュース(減らす)、リユース(繰り返し使う)、リサイクル(資源化)、ロット(たい肥化)の5つのR。不必要なものは断り、必要なものを最小限にする。使い捨てをやめて繰り返し使う。ゴミにせず、資源として再利用させる。土に返るものはコンポストに。買い物に行くときは、ガラス瓶を持参し、包装紙やビニール袋はリフューズする。ティッシュは使わず、古いTシャツのはぎれをハンカチーフにして、それを何度も使う。土に返るごみはすべてコンポストに。洋服はすべてリサイクルショップでまかない、新品は買わない。

それはケチで面倒な生活なのかというとさにあらず。ゴミを減らすことで、生活がますますシンプルになり、やりたいことをやる時間ができ、健康的になり、しかも、お金もかからない!


愉快なのは、ベアさんが、自分のライフスタイルを語るにとどまらず、読者に行動を起こし、声を上げようと呼びかけてもいること。本の帯には、「あなたひとりではじめられる、ささやかで楽しい革命です」とある。「時にちょっと過激とも思えるような取り組みの数々を、誰に頼まれたわけでもなく嬉々として実践し、信念に向かって一直線に突き進む揺るぎない姿勢」(訳者あとがきより、ちなみに、翻訳も見事である) まさにそのとおり! ベアさんのポジティブさがこの本の大きな魅力だ。

 

まずは段階的に物を整理して、減らすことが大事。断捨離に似ているけれど、断捨離とはまったく違う。この本を読んだときに、「あっ!だから、私は断捨離ってどこか変だと思っていたんだ!!」と叫んでしまった。断捨離は、どんどん捨てましょう、捨てて循環させましょう、というライフスタイル。ゴミがどこへ行くのかについては関知しない。断捨離本はだいぶ読んだが、コソコソといらないものを処分しながらも、ゴミを大量に出すことへの後ろめたさや、ボロを捨ててさっさと新品を買うこと、キッチンタオル等をためらいなく使うことへの疑問がずっと消せなかった。それが、この本を読んで、すべて、解消。そうだ、ゴミを出さない、という考え方をすればいいわけだ!! 

 

通常、アメリカ発のライフスタイル本というと、いまひとつ現実味に欠ける部分があるのだけれど、ベアさんのトライ&エラーはすべて実際になされたことで、誰でもすぐ試してみようと思える例がたくさんあり実用的(ココアパウダーをチークにすることは私はマネしていないけれど)。フランス人らしい、ヨーロッパ風ケチ精神とエレガンス、カリフォルニアの太陽のような明るさにあふれ、エコロジーの本なのに辛気臭いところがまるでない。

 

日本ではこれまで、エコロジーについて考え行動することは、一般的ではなかった。どちらかというと経済発展を妨げるメンドクサイ人たちの行い、のような目で見られる傾向があったと思う。それではいけないのだ! ウエイク・アップ! ようやく日本でも、最近少しずつ、プラスチックゴミの話題がニュースになるようになった。今こそ、もっと読まれるべき本だと思う。

 

この本を読んで私がどれだけ変わったかは次回に。

 

 

 

 

 

 

 

小学生になると学校で教えられるのが、「いかのおすし」。ついてイカない、車にノらないノせられない、危険なときはオオきな声を出す、スぐにげる、出来事を大人にシらせる。子ども自身が犯罪から守るための行動5つ、そこからとった文字が「いかのおすし」。こういうのって、かえってわかりにくいと思うのだが。頭の柔軟な小学生はスンナリ理解し覚え込むことができるのだろうかとずっと思っていたが、民間の学童でバイトしていた時、ランドセルにイカの形の防犯ベルをつけている子がいたので、「あっ、いかのおすしだ!」と言うと、「そうだよ。イカナイ、ノラナイ、オオゴエダス、スグニゲル・・・・ええと、シ・・・・・」「シは、知らせる、だよ」「あ、そーだ」なんだ、小学生だって忘れてんじゃん。

「おかしも」というのもある。これは、「おさない、かけない、しゃべらない、もどらない」という避難訓練のときの標語。こういうのって、いったい誰が考えるのだか。理屈も併せてインプットされなければ、それこそ非常時には何の役にもたたないと思うのだが。

 

そこで、「いかのおすし」よりずっと有効なものがこちら。

「先生は教えてくれない! クレヨンしんちゃんのアブナイ!ことから自分を守るために知っておきたいこと」

交通事故の危険、犯罪にあう危険や災害での危険から、友だちに危険な遊びにさそわれた、塾の先生にキスされた、などのあらゆる危険を網羅。この本1冊おさえておけば、いざという時に安心、という項目を厳選した。

高田ミレイさん描くしんちゃんのマンガも面白いから、何度も読むうちに、なにが危険なことなのかを学ぶことができるはず。

 

昨年11月に刊行。わたしは文章の執筆を担当。この本を作りながら、しんちゃんって、危険を避けることができるタイプの子どもかもと思った。自己肯定感が強く、イヤなことにははっきりイヤ、ということができる子どもなのだ。それは親が厳しすぎず、ゆるくいい感じの子育てをしているからかも、とも思う。親が絶対的に子どもを従わせていたら、そうはならないよねぇ。

梅原猛さんが亡くなった。

高校時代から大学時代にかけて、ハマってずいぶん読んだ。とくに、隠された十字架』『水底の歌』『神々の流竄』などの大胆仮説の歴史もの。スーパー歌舞伎『ヤマトタケル』まで観に行った。白鳥になって飛ぶ猿之助さんを間近に観た。『隠された十字架』のせいで、法隆寺の救世観音のアルカイックスマイルが怖くなった。太子の怨霊を閉じ込めるために秘仏とされたという話を真に受けたからだ。結果、まちがった仏像鑑賞法をしているような気がする。白洲正子さんは「私が世の中で一番美しいと思うものが救世観音、あのお姿を見ると涙が出ます」、とインタビューで語っておられたが、困ったことに今でも私には太子の怨霊が感じられて不気味に感じる。これほどの印象を残した『隠された十字架』、高校時代に読んでたまげてしまい、「これこそ私のやりたいことだ!!」と、興奮しながら、ガスコンロの前の母に、「私、小説じゃなくて、こういうふうに、なにかを発見して、それを面白く文に書く人になりたい!」といさましく宣言したのだった。「そういうのはほんの一握りの人だろうねぇ」と返されたが、いや、そんなことはない、あきらめずにものごとを調べていけば、と思った夢いっぱいの私であった…。私にとっての梅原猛とは、そういう憧れの存在だった。

 

大学で学び、仕事をしながら、いつしか私は、「興味深い大胆仮説」よりも、「一次資料」「ささやかだけれども事実」のほうに価値を見出すようになってしまう。それで、日本史の読み物類を遠ざけるようになってしまった。梅原猛さんの著作に似たタイプの歴史ものがいろいろ出るようになったが、そのどれもがいんちきくさく感じられ、そのせいでなのか、大胆仮説に酔っていた自分が恥ずかしくなったりもした。バイト代で少しずつ古本屋で集めた集英社の梅原猛全集もいつの間にか手放した。すっかり日本史の世界からはなれ、坂本龍馬を殺したのが誰か、邪馬台国がどこにあるのか、もうそんなことどんなに検証しても真実はわかりようがないじゃないかとさめた、ツマラナイ大人になった。

今では歴史なのかSFなのかわからないような書籍も多くある。歴女?とんでもない!! そういうものすべてが、若いころの自分を思い起こさせて恥ずかしく、とても苦手だ。逆に、最近では、いんちき歴史書に対抗するような書籍もたくさん出版されている。手に取ってみることもあるけれど、いまひとつ夢中になれないんだナ。

 

12日日経新聞の読書欄国分良成氏の「半歩遅れの読書術」がおもしろかった。古典、カーの『歴史とは何か』と、東洋史学者の岡田英弘『歴史とはなにか』を取り上げての一文。歴史は将来への教訓とできる役立つ科学であるとするカーの説に対抗し、「歴史は物語であり、文学である。言いかえれば、歴史は科学ではない」とする岡田氏の文を引用する。

国分良成氏の文では、岡田英弘『歴史とはなにか』より、この部分も引用している。「歴史とは歴史家の人格の産物」(2019年1月12日日経新聞「半歩遅れの読書術」国分良成より)。

法隆寺が聖徳太子の怨霊を沈めるために建てられた寺だったのか、柿本人麻呂は刑死したのか。真実かどうかよりも、文学的な面に魅かれていたのに違いない。

今考えてみても、梅原古代学と言われる数々の著書は、まちがいなく面白かった。心をゆざぶられた。それはなぜかといったら、あのたたみかけるような文章の妙だけではなく、梅原猛さんが、権力者やヒーローのことではなく、権力者によって滅ぼされたもの、敗者のことを書くことが多かったからではないかと思う。近年の梅原猛さんの著作物を追っていなかったのでよく知らなかったが、原発にも反対し、9条を守る会の呼びかけ人でもあったそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

新年そうそう、長男がかぜをひいた。3日も寝込む重病ぶり。そして案の定、そのかぜは次男にうつり。最初の熱の上り方が急激で、「はかってみよっかな」と測ったら38、9度。次男は半日も寝たら元気になったが、この兄弟間の伝染のしかた、症状の違い、インフルエンザっぽい。

というのも、2009年新型インフルエンザがはやったときのパターンとほぼ同じ。長男がサッカーの合宿でもらってきて、3日間ウンウン苦しみ、その後次男に伝染。次男は半日寝てアッサリ回復。

もしかして、今年のかぜは、2009年新型インフルエンザの型、H1N1だね…?

と思って、厚労省の病原微生物検出情報を確認してみたら、やっぱりそうだった。↓

 

 

まだ2019年の分が発表になっていないからわからないけど。今年のかぜは、A型のH1N1pdm09(2009年のパンデミック時にはやったソ連型の亜型の意味)が優勢。10年たって、変異したものにかかったのかも。ふだんはほとんどまったく、かぜで熱を出すことはないふたり。

 

「母さんにうつしたらどうしよう」と言うから、「たぶん、母さんも父さんもうつらないよ」と言っておいた。新型のときも、もちろん、うつっていない。2009年の新型インフルエンザは、抗体をもっている大人はほとんどかからなかった。たぶん、今年もかからない。と思うのだけど、サテ、どうだろう?