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乳がん告知され
標準治療を選ばずに
免疫療法で治すと決めた私と
それに理解を示し
応援してくれた母
その2年後には
"標準治療無しには腫瘍が
小さくなることはありえない。"
と、お医者さんに
言われた私の腫瘍が
半分以下まで小さくなりました



そして、このまま消えて
無くなるだろうと
同じように免疫治療を
続け……
乳がん告知され4年の歳月が
経った頃……
ガンとの生活にも慣れ
とくに、腫瘍がある以外は
ガン告知前より健康に
なっている感じ……



(風邪などほとんどひかなくなり、体温も以前は
35度台だったのが36度半ばが平均になってました。)
そんな事もあり
かなり油断していて生活習慣も
また少しずつ悪くなった
(食生活などは、乳がん告知され落ち着いてから
4年間マクロビオティックが基本でした。)
30歳の頃
少しずつ腫瘍は大きくなり
激痛と共に皮膚から少しずつ
腫瘍が飛び出てきました



この時に再び病院に行き
検査をしました
この時の私の心情は
乳がん告知当初よりは
まだ落ち着いていましたが
やはり、恐怖で怯え
検査結果を待つ時間が何よりも
恐怖だったのを覚えています
そして、今だと
ギリギリ手術可能かもしれない
今は転移してない。
でも、手術もこの大きさだと
危険かもしれない
と、言われました
この時、私はずっとお世話に
なっていた
色彩療法の先生の前で
泣いたのを覚えています。
その先生は、標準治療や手術を
反対するような
偏った先生ではなかったのですが
(抗がん剤をしてない患者さんの方が回復は
早いと経験上感じてはいたようです。)
リスクの高い手術に
踏み切れない私を見て
"もう一度、気を引き締めて
頑張ってみよう。
それで、腫瘍が小さくならなければ
その時は、手術しよう!"
と、話し合い決めました
(この先生は、西洋医学にも東洋医学にも100%は無いから
どちらの目でも見ることが大事だと常々言っていました。
今となっては、よく理解できる言葉です
)

この時の母は
私から見て、お医者さんの言葉に
すがってるように見えてしまい
自分の考えは持てずに
ただお医者さんの言葉を鵜呑みにする
そんな風に見えました
(今思うと、私は自分で船の梶をにぎってるから大丈夫だけど
母はそうじゃなかったから、ぐらぐら揺れる船に
乗ってるいるのは、どれだけ恐怖だったか……
お医者さんの言葉にすがりたくなるのも
娘の命がかかってるからこそ恐かったんだろうと…
そんな風に感じた事を申し訳なくも思います。
※船の例えについてはコチラの記事に書いてます
)

そんな、お医者さんに全てを
委ねるような、母を見ると
私は、余計恐怖が増し……
だから、そんな母に頼る事は出来ず
検査結果も1人で聞く!
と言って診察室に1人で入ったのを
覚えています。
だから、その時の私は
自分でしっかり考えて、今後どうするかも
自分で決めないと!!
と、より強く思っていたと思います



そして、母もそんな私に
真正面からぶつかってくる事はなく
……
それでも変わらず理解は示し
サポートし続けてくれました
その後は、もう必死でした
食事や生活習慣を見直すのはもちろん
治療も、良いと思われるものは
全て試して……
そしたら、腫瘍の成長は止まり
少し小さくなっては
また戻る……
正に一進一退状態。
そんな事を繰り返し、こんな日々が
2年ぐらい続きました
そして、腫瘍の大きさは
変わらずとも出血が増していき
遂には大出血で、救急車で運ばれ
"このまま輸血しないと
明日の命は保証できない。"
と、言われるまでになっていました



もう、この頃には
出血が理由で手術は難しいとされ
それでも私は諦めずに
コチラの記事のコロイドヨード
~Black Salveまでをして……。
ようやく腫瘍が収縮と共に
出血も治まり始めました



この、落ち着くまでの間の事を
今になって母に聞くと
"ただ、毎日出血が続く中で
病院には行ってほしかったけど
本人の頑なな決意の心に
向かい合って正す勇気は
その頃、無かったとも思う。。
本当のところ、どうなってるかも
分からず……
現実的にも親としても
逃げてたとも思い
そこは悔いることもある。"
と、言っていました



今、私として思うのは……
この頃、私も母も目の前の事に
必死で何とかしようと
頑張ってはいたと思います
(もちろん、命がかかってるので
これは大前提で当たり前のことですが。)
ただ、肝心な今の現状を把握し
それに対する対処を、冷静にする。
と、いうことから
逃げていたのかもしれない……
と思います

こんな風に文章にすると
ただただ、現実から逃げて
手術や治療するタイミングを
逃した親子に
見えるかもしれませんが……
確かに、恐くて
立ち向かいきれなかった部分も
あるかもしれませんが、、
それでも、その時の私と母なりに
精一杯出来ることを
毎日必死でして
私の命を2人とも諦めることは
決してしませんでした
今となっては
あの時、手術していれば……
標準治療を受けていれば……
と、思うかもしれませんが
(実際、母や私は思うこともありました。
)

でも、今になって
私の乳がんはホルモン治療で
根治可能だと
言う先生もいると同時に
その当時、原発部分を取ると
ガンが暴れて
転移しやすくなる。と
言う先生が居たのも事実です。
もしかしたら
手術してたら、もっと早く
転移して更に悪化したかもしれない
とも、言えるわけです

要は、もしもあの時……
なんてのは、意味がない。
と、私は思っています
その道に行ったら最善かなんて
誰にも分かり得ない事です
だから、後悔しない。とか
そういうことでなくて。
(私は学びとして、後悔は必要だとも思います
)

この事は、この後悔しないのん?
の記事に詳しく書きましたが
……
間違いなく、今言えるのは
今の私がどんな状況であっても
強く前を向ける要因の一つが
この、私が選んだ道の
8年にあると思います
この、長すぎるような……
傍からしたら意味の無いように
思うかもしれない8年。
でも、この8年の間に
私は病を受け入れ、立ち向かい
時には逃げ出したいくらい
負けそうになって
立ち止まり、涙し……
それでも諦めずに私なりに生きた
この8年があったから
今の私がいると私は思います。
もし、今のお医者さんが言うように
あの時、標準治療の
セカンドオピニオンを受け
手術とホルモン治療をして
"ガンは根治した"
と言われたとしたら……
私の身体は健康になっても
私の心は、追いつかずに
再発、転移を恐れて
それを受け止めることさえ
出来なかったと思います
確かに、今みたいに心も強く持てて
身体も健康になれてるなら
ステージⅠだった告知当初に
手術できて、根治する。
これが、最善だったと私も思います
でも、残念ながら
私にはそれは無理で
この道が必要だったんだと思います



私を想って下さるからこその
悔やみ……
あの時、こうしてれば!
との声は凄く理解できるし
ありがたいなぁ。とつくづく思います



私も、今の私で、それが出来たなら
どれだけ良かったか!
とも、思います



でも、確かにこの8年の
道のりは
私には必要な道でした
これも、今だからこそ言えます



そして、母と私の関係も
この道を通して
より強く、より分かり合えるように
変えられていきました。
この後、余命宣告前後の
私たち親子の心情は
で書かせていただきます



お腹を下ろして、それが可愛すぎて思わず撮った1枚です

お陰様で、こんな感じで毎日平和に過ごせています

私の顔がストーブの熱さで赤いですが…あしからずです
笑)
