京成電鉄は、JRとの乗り換えには日暮里駅が便利な東京と千葉を結ぶ路線であり、京成電鉄沿線の住民たちは、みな京成電鉄の車両を京成電車と呼んでいた。
今回はその3。以前の分は次の通り。
京成電鉄の消えた駅 - 道灌山通、寛永寺坂、そして博物館動物園 (その2)
京成電鉄の消えた駅 - 道灌山通、寛永寺坂、そして博物館動物園 (その1)
3-1-3.道灌山通駅~日暮里駅
新三河島駅を出て、今や何の痕跡も残っていない道灌山通駅付近を通過すると間もなく日暮里駅へ到着する。先に述べたように、堀切菖蒲園~日暮里間は工場と住宅が密集しているため、全長の70%が高架線となっているが、日暮里駅へ着く前には地上へと降りている(現在は上りが1階、下りは3階となっている)。しかし、この先は再び高架となり、すぐに急なスロープを描いてJR線の上を跨ぎながら上野台地へと吸い込まれていく。つまり堀切菖蒲園からずっと長い間、高いところを走った後に、突如として地下へと飛び込むのだ。この様な構造は他に例を見ない。渋谷駅の銀座線も高いところからいきなり地下に潜り込むが、京成電車路線の比ではない。
上野台地に穴を開けたこのトンネルを東臺門という。東臺というのは上野台地のことを示す東叡山寛永寺の臺地(台地)のことで、東臺門とは、そこに入る門と言う意味である。
東臺門入口から終点の京成上野までは地下トンネルが70%を占める。間に2つの廃駅を含むこの経路を航空写真でみると、次のようになる。
Google Earthに筆者が加筆
3-1-4.日暮里駅
日暮里駅に京成電鉄が開業したのは1931年12月19日で、青砥~日暮里間の開通からだった。その後、日暮里から京成上野まで開通したのは2年後の1933年(昭和8年)12月10日である。
今日の京成電鉄内に於ける日暮里駅の利用者数は、同駅全体一日平均利用者103,809人のうち46,507人(2014年度)で、押上駅、京成高砂駅に次いで第三位だが、押上や京成高砂の数字は相互乗り入れを含むので、実際に改札を利用する人としては日暮里駅が最多となる。つまり、利用者数は京成上野駅よりも多いのだ。
一方、日暮里駅のJR線を見ると、昼間の時間帯は京浜東北線が快速運転となっていて日暮里駅は通過しているため、京成電鉄とJRとの連絡という意味での利便性には疑問があるが、両社は成田を巡って旅客獲得合戦を繰り広げている関係上、JRの事情としては山手線外回りや京浜東北線で北側から来たJR乗車客を日暮里では降ろさずに東京駅まで運び、成田エキスプレスに乗せようとする目論見があるのかもしれない。
日暮里駅から東臺門の入口に向かって進むと直ぐに33‰(‰:パーミル。100mにつき3.3mの勾配のことで、1000分の1の意)の急勾配となる。写真は、日暮里駅の常磐線ホームからみた京成上り線(地上駅)。向かって右が京成上野方面だ。駅を出て桁が次々と高くなっていることから、上り勾配となっていることがわかる。
2016年9月 筆者撮影
常磐線の南端から京成線の線路を見ると、高架下に右から左に「乾燥機」とペンキでかかれた看板が見える。かつてこの下に商店が並んでいた事を示す。この様な看板は日暮里から三河島、町屋に至る高架ではしばしば見つかるが、高架の耐震化工事に伴って補強や改築がされてきており、姿を消しつつある。
2016年9月 筆者撮影
3-2.日暮里~京成上野駅区間
日暮里から京成上野への上りを見てみよう。
3-2-1.日暮里駅~東臺門
日暮里駅から東臺門を経て寛永坂駅までは、先に述べた様に東臺門の入口に向かって33‰(パーミル:100mにつき3.3mの勾配)の急勾配、16.5‰の勾配を経てJRの各線を跨ぎ、次いで寛永寺坂駅へ最急勾配40‰で下る。
なぜそれほどの急勾配を上った直後に急勾配で下りるかというと、その間に高崎線や東北線、山手線、京浜東北線といった線路を跨ぐため、極めて短い距離の間で高度を稼ぐ必要があることと、跨いだ後は少しも高くない上野台地のトンネルへ入るために急勾配を下りる必要があるためだ。
写真は、日暮里駅を出てから右に旋回するスロープを経て、JRの歩道跨線橋である御隠殿坂の脇をかすめて通過し、上野台地にある東臺門へと引き込まれるところである。
2016年9月 筆者撮影
東臺門 (Google Earthから抜粋) 筆者加筆
東臺門入口 (Google Earthから抜粋)
このトンネルの入口が東臺門である。
東臺門に吸い込まれるスカイライナー 2019年9月 10日 筆者撮影
東臺門入口 2016年9月10日 筆者撮影
この東臺門は、上野台地のことを東叡山寛永寺の臺地として「東臺」と云ったことに由来する。東臺門は、そこに入る門という意味だ。ここに描かれている揮毫は京成電気軌道株式会社初代社長であった本多 貞次郎(1858年(安政5年)2月20日- 1937年(昭和12年)2月26日)の書で、竣工は昭和八年となっている。
初代社長、本多 貞次郎氏
(「京成電鉄85年の歩み」より抜粋)
普通、トンネル工事は山の中腹に穴を開けていくのだが、ここ上野台地は高々数十メートル程度の台地なので、工事としては地表から僅か2.5m程度のところにトンネルを掘らなければならなかった。この様な場合、通常は開削して掘るのだが、上野の地上には東京都美術館、東京藝術大学、寛永寺、そして東照宮五重塔などの歴史的建造物が多くあり、それを避けるためには非開削にてS字型に掘り進むしかなく、更に地上に存在する公園の桜の木の根を傷つけてはいけないという当局からの条件もついた。
しかも、動物園付近では世伝御料地(皇室所有地)を通過する必要があり、用地使用に際しては御前会議の許可が必要であった。御前会議は一度しか機会が与えられないものであり、既にフライングで上野側と日暮里側から工事は進んでいたために、もしも不許可になれば工事は断念せざるを得なかったのだが、許可は無事に下り、工事は続行されたという。
この様ないくつもの障害を回避するために、実際の工事として前述の40‰の急勾配や最急半径120メートルの曲線区間を二か所も克服しなくてはならず、当時の土木工事建材では極めて厳しい難工事であった事が想像される。トンネル自体は2.1km程度のものだったが、日暮里と終点の京成上野間の75%を占めており、完成まで1年3ヶ月かかったが、測量を20回も繰り返して行いながら工事を進め、日暮里側と上野公園側の両方から掘り続いた結果、出会い地点では僅か3cmの誤差だったと言う。当時の土木技術や建機を鑑みると、極めて高度な工事だったと云えよう。
京成電鉄が、東臺門からこの京成上野駅までで測量した実地測量図を次に示す。
京成電鉄株式会社、「京成電鉄85年の歩み」から抜粋
京成電鉄株式会社、「京成電鉄85年の歩み」から抜粋
これを航空写真に写像すると次のようになる。
Google Earthへの追記 筆者
これが東臺門から入って京成上野駅に至るまでの、京成電鉄の地下経路である。
東臺門から続くトンネルは地下鉄以外では都内に於ける最も長いトンネルであり、太平洋戦争末期に運輸省が非常時の作戦本部とすべく昭和20年4月に接収し、同年5月に国鉄線をアンダーパスさせる路線橋の御隠殿坂橋に沿う形で日暮里駅から東臺門へつなぐ単線連絡線を建設し、8両の国鉄客車を送り込こんだ。この特別に施設された国鉄連絡線は、次の様な工事で行われたらしい。ただし同年8月には終戦となったのでこの作戦本部が実際にどの程度運営されたかは不明である。なお、この接収は同年10月1日に解除となった。
「京成の駅 今昔・昭和の面影 100年の歴史を支えた全駅を紹介」抜粋を元に筆者加筆
下の写真は昭和19年(1944年)10月22日、中央は昭和22年(1947年)7月9日、右は昭和23年(1948年)3月29日の日本陸軍及び米軍による航空写真。終戦直後に隠殿坂が施設で寸断されている様子も見えるが、工事が行われたとされる昭和20年(1945年)の写真がないので国鉄連絡線の実態は不明である。
1944年10月22日
1947年7月9日
1948年3月29日
国土地理院地図・空中写真閲覧サービス抜粋に筆者が加筆
これを現在の航空写真に埋め込むとこの様になる。谷中霊園のキリスト教系墓地が立ち並ぶ地点が航空写真での国鉄連絡線であったと思われる。
国鉄連絡線の軌跡 筆者がGoogle Earthへ埋め込んだもの
この付近を日暮里駅御隠殿坂の下、国鉄連絡線が建造された辺りを日暮里駅側から見ると次の様に見え、山手線・京浜東北線の線路に対して確かに勾配のある坂が東臺門方面へ延びていることが分かる。
実際に現地へ行ってみても痕跡は見当たらない上に、建設に関する資料がないのでなんともいえないが、国鉄連絡線は飽くまでも一時的に使用するだけの線路敷設だったため、短期間で竣工する簡易的な高架を建造して車両を運び上げたのかもしれない。
- 続く








































