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京成電鉄は、JRとの乗り換えには日暮里駅が便利な東京と千葉を結ぶ路線であり、京成電鉄沿線の住民たちは、みな京成電鉄の車両を京成電車と呼んでいた。

 

今回はその3。以前の分は次の通り。

 

京成電鉄の消えた駅  - 道灌山通、寛永寺坂、そして博物館動物園 (その2)

京成電鉄の消えた駅  - 道灌山通、寛永寺坂、そして博物館動物園 (その1)

 

3-1-3.道灌山通駅~日暮里駅

新三河島駅を出て、今や何の痕跡も残っていない道灌山通駅付近を通過すると間もなく日暮里駅へ到着する。先に述べたように、堀切菖蒲園~日暮里間は工場と住宅が密集しているため、全長の70%が高架線となっているが、日暮里駅へ着く前には地上へと降りている(現在は上りが1階、下りは3階となっている)。しかし、この先は再び高架となり、すぐに急なスロープを描いてJR線の上を跨ぎながら上野台地へと吸い込まれていく。つまり堀切菖蒲園からずっと長い間、高いところを走った後に、突如として地下へと飛び込むのだ。この様な構造は他に例を見ない。渋谷駅の銀座線も高いところからいきなり地下に潜り込むが、京成電車路線の比ではない。

 

上野台地に穴を開けたこのトンネルを東臺門という。東臺というのは上野台地のことを示す東叡山寛永寺の臺地(台地)のことで、東臺門とは、そこに入る門と言う意味である。

 

東臺門入口から終点の京成上野までは地下トンネルが70%を占める。間に2つの廃駅を含むこの経路を航空写真でみると、次のようになる。

 

Google Earthに筆者が加筆

 

3-1-4.日暮里駅

日暮里駅に京成電鉄が開業したのは1931年12月19日で、青砥~日暮里間の開通からだった。その後、日暮里から京成上野まで開通したのは2年後の1933年(昭和8年)12月10日である。

 

今日の京成電鉄内に於ける日暮里駅の利用者数は、同駅全体一日平均利用者103,809人のうち46,507人(2014年度)で、押上駅、京成高砂駅に次いで第三位だが、押上や京成高砂の数字は相互乗り入れを含むので、実際に改札を利用する人としては日暮里駅が最多となる。つまり、利用者数は京成上野駅よりも多いのだ。

 

一方、日暮里駅のJR線を見ると、昼間の時間帯は京浜東北線が快速運転となっていて日暮里駅は通過しているため、京成電鉄とJRとの連絡という意味での利便性には疑問があるが、両社は成田を巡って旅客獲得合戦を繰り広げている関係上、JRの事情としては山手線外回りや京浜東北線で北側から来たJR乗車客を日暮里では降ろさずに東京駅まで運び、成田エキスプレスに乗せようとする目論見があるのかもしれない。

 

日暮里駅から東臺門の入口に向かって進むと直ぐに33‰(‰:パーミル。100mにつき3.3mの勾配のことで、1000分の1の意)の急勾配となる。写真は、日暮里駅の常磐線ホームからみた京成上り線(地上駅)。向かって右が京成上野方面だ。駅を出て桁が次々と高くなっていることから、上り勾配となっていることがわかる。

 

2016年9月 筆者撮影

 

常磐線の南端から京成線の線路を見ると、高架下に右から左に「乾燥機」とペンキでかかれた看板が見える。かつてこの下に商店が並んでいた事を示す。この様な看板は日暮里から三河島、町屋に至る高架ではしばしば見つかるが、高架の耐震化工事に伴って補強や改築がされてきており、姿を消しつつある。

 

2016年9月 筆者撮影

 

3-2.日暮里~京成上野駅区間

日暮里から京成上野への上りを見てみよう。

 

3-2-1.日暮里駅~東臺門

日暮里駅から東臺門を経て寛永坂駅までは、先に述べた様に東臺門の入口に向かって33‰(パーミル:100mにつき3.3mの勾配)の急勾配、16.5‰の勾配を経てJRの各線を跨ぎ、次いで寛永寺坂駅へ最急勾配40‰で下る。

 

なぜそれほどの急勾配を上った直後に急勾配で下りるかというと、その間に高崎線や東北線、山手線、京浜東北線といった線路を跨ぐため、極めて短い距離の間で高度を稼ぐ必要があることと、跨いだ後は少しも高くない上野台地のトンネルへ入るために急勾配を下りる必要があるためだ。

 

写真は、日暮里駅を出てから右に旋回するスロープを経て、JRの歩道跨線橋である御隠殿坂の脇をかすめて通過し、上野台地にある東臺門へと引き込まれるところである。

 

 

2016年9月 筆者撮影

 

東臺門 (Google Earthから抜粋) 筆者加筆

 

東臺門入口 (Google Earthから抜粋)

 

このトンネルの入口が東臺門である。

 

東臺門に吸い込まれるスカイライナー 2019年9月 10日 筆者撮影

 

東臺門入口 2016年9月10日 筆者撮影

 

この東臺門は、上野台地のことを東叡山寛永寺の臺地として「東臺」と云ったことに由来する。東臺門は、そこに入る門という意味だ。ここに描かれている揮毫は京成電気軌道株式会社初代社長であった本多 貞次郎(1858年(安政5年)2月20日- 1937年(昭和12年)2月26日)の書で、竣工は昭和八年となっている。

 

初代社長、本多 貞次郎氏 

(「京成電鉄85年の歩み」より抜粋)

 

普通、トンネル工事は山の中腹に穴を開けていくのだが、ここ上野台地は高々数十メートル程度の台地なので、工事としては地表から僅か2.5m程度のところにトンネルを掘らなければならなかった。この様な場合、通常は開削して掘るのだが、上野の地上には東京都美術館、東京藝術大学、寛永寺、そして東照宮五重塔などの歴史的建造物が多くあり、それを避けるためには非開削にてS字型に掘り進むしかなく、更に地上に存在する公園の桜の木の根を傷つけてはいけないという当局からの条件もついた。

 

しかも、動物園付近では世伝御料地(皇室所有地)を通過する必要があり、用地使用に際しては御前会議の許可が必要であった。御前会議は一度しか機会が与えられないものであり、既にフライングで上野側と日暮里側から工事は進んでいたために、もしも不許可になれば工事は断念せざるを得なかったのだが、許可は無事に下り、工事は続行されたという。

 

この様ないくつもの障害を回避するために、実際の工事として前述の40‰の急勾配や最急半径120メートルの曲線区間を二か所も克服しなくてはならず、当時の土木工事建材では極めて厳しい難工事であった事が想像される。トンネル自体は2.1km程度のものだったが、日暮里と終点の京成上野間の75%を占めており、完成まで1年3ヶ月かかったが、測量を20回も繰り返して行いながら工事を進め、日暮里側と上野公園側の両方から掘り続いた結果、出会い地点では僅か3cmの誤差だったと言う。当時の土木技術や建機を鑑みると、極めて高度な工事だったと云えよう。

 

京成電鉄が、東臺門からこの京成上野駅までで測量した実地測量図を次に示す。

 

 

京成電鉄株式会社、「京成電鉄85年の歩み」から抜粋

 

京成電鉄株式会社、「京成電鉄85年の歩み」から抜粋

 

これを航空写真に写像すると次のようになる。

 

Google Earthへの追記 筆者

 

これが東臺門から入って京成上野駅に至るまでの、京成電鉄の地下経路である。

 

東臺門から続くトンネルは地下鉄以外では都内に於ける最も長いトンネルであり、太平洋戦争末期に運輸省が非常時の作戦本部とすべく昭和20年4月に接収し、同年5月に国鉄線をアンダーパスさせる路線橋の御隠殿坂橋に沿う形で日暮里駅から東臺門へつなぐ単線連絡線を建設し、8両の国鉄客車を送り込こんだ。この特別に施設された国鉄連絡線は、次の様な工事で行われたらしい。ただし同年8月には終戦となったのでこの作戦本部が実際にどの程度運営されたかは不明である。なお、この接収は同年10月1日に解除となった。

 

「京成の駅 今昔・昭和の面影 100年の歴史を支えた全駅を紹介」抜粋を元に筆者加筆

 

下の写真は昭和19年(1944年)10月22日、中央は昭和22年(1947年)7月9日、右は昭和23年(1948年)3月29日の日本陸軍及び米軍による航空写真。終戦直後に隠殿坂が施設で寸断されている様子も見えるが、工事が行われたとされる昭和20年(1945年)の写真がないので国鉄連絡線の実態は不明である。

 

      

   1944年10月22日

        

     

            1947年7月9日          

 

       

      1948年3月29日 

 

国土地理院地図・空中写真閲覧サービス抜粋に筆者が加筆

 

これを現在の航空写真に埋め込むとこの様になる。谷中霊園のキリスト教系墓地が立ち並ぶ地点が航空写真での国鉄連絡線であったと思われる。

 

国鉄連絡線の軌跡 筆者がGoogle Earthへ埋め込んだもの

 

この付近を日暮里駅御隠殿坂の下、国鉄連絡線が建造された辺りを日暮里駅側から見ると次の様に見え、山手線・京浜東北線の線路に対して確かに勾配のある坂が東臺門方面へ延びていることが分かる。

 

 

実際に現地へ行ってみても痕跡は見当たらない上に、建設に関する資料がないのでなんともいえないが、国鉄連絡線は飽くまでも一時的に使用するだけの線路敷設だったため、短期間で竣工する簡易的な高架を建造して車両を運び上げたのかもしれない。

 

- 続く

京成電鉄は、JRとの乗り換えには日暮里駅が便利な東京と千葉を結ぶ路線であり、京成電鉄沿線の住民たちは、みな京成電鉄の車両を京成電車と呼んでいた。

 

今回はその2。以前の分は次の通り。

 

京成電鉄の消えた駅  - 道灌山通、寛永寺坂、そして博物館動物園 (その1)
 

3. 区間別廃駅とその周辺

3-1.新三河島駅~日暮里駅区間

それでは、新三河島駅から日暮里駅までを見てみよう。

 

3-1-1. 新三河島駅~道灌山通駅

堀切菖蒲園~日暮里間は工場と住宅が密集しているため、全長の約70%は高架線である。この高架の下には様々な店舗や住居が存在していた。小生の友人もそこに住んでいた。

 

店舗の業種は様々だった様で、辛うじて現在もその看板だけが残存しているところも数箇所あるが、耐震工事などが進んでおり、いずれは消失していくことだろう。

 

下の写真は、高架下にある右書された「南米食堂」という看板で、現在の西日暮里6丁目付近にあったものだ。戦後は移転し、以降倉庫となっていたそうだが、耐震化工事でこの看板が表に出てきたらしい。この写真を撮影したのは2012年2月だったが、その後工事が進み、2016年現在はその姿を見ることが出来なくなってしまった。

 

2012年2月 筆者撮影

 

3-1-2.道灌山通駅

現在、新三河島駅の次の駅は日暮里駅であるが、かつてその間に「道灌山通」という駅が存在した。

道灌山通駅は、日暮里駅 - 新三河島駅間のカーブの途中、道灌山通りの当時の日暮里町八丁目、現在のJR西日暮里駅前の西日暮里五丁目交差点の辺りにあったらしい。場所は新三河島から0.7km、日暮里駅から0.6kmの、道灌山通りに掛かった第五橋梁の地点である。地形社編「昭和十六年大東京三十五區区内「荒川區詳細図」を見ると、道灌山通駅が記されている。

 

地形社編昭和十六年大東京三十五區区内「荒川區詳細図」から抜粋

 

この駅の沿革は次の通り。

   1934年(昭和09年)4月18日 開業

   1943年(昭和18年)10月1日 休止

   1947年(昭和22年)2月28日 廃止

 

写真は、鉄道ピクトリアル1987年10月臨時増刊号に掲載された昭和13年萩原二郎氏による道灌山通駅の写真。この車両は大正14年製の100型モハ106である。

 

昭和13年萩原二郎氏撮影

 

100型は、丸い屋根に雨樋を持ち、前面が丸く湾曲、中央の窓が広い5枚の窓を持つことが特徴で、明治末期から昭和初期にかけて深川にて鉄道車両を製造していた雨宮製作所で製造されたものだ。竣工時はパンタグラフを2挺装備していたが、この写真の106は1挺である。

 

下図の様に拡大してみると駅名表示板に右から左へ平仮名で「だうくわんやま」、漢字で「道灌山通」と書かれていることが確認できる。 

 

昭和13年萩原二郎氏撮影写真の一部抜粋拡大

 

この電車の行き先表示が上野であり、車両が左側に写っていることや手袋をしている運転手の手が見えることで、車両は奥からこちらに向かっていると推測できる。また、線路が大きくスロープとなっているが、駅の駅表示の右方向が日暮里と書かれていることから、スロープの奥が三河島駅、手前が日暮里駅と結論出来る。車両の少し先に橋の様なものが写っているが、先の地図での記載からすると、駅は道灌山通りの東側にあったと思われるので、この陸橋は道灌山通りだろう。

 

なお、看板下部にはコマーシャルとして同じく右から左への片仮名で「づつうにノーシ」と読めるが、これは戦前から販売されている解熱鎮痛薬「ノーシン」の事だろう。「頭痛にノーシン」は後世にも伝えられているキャッチである。

 

右に見えるプラットホームに立つ電柱看板には「花柳病科」とあるが、これは当時の花柳界で感染していた淋病、梅毒などの性病のことで、こうした看板が大きく掲げられていることで、当時の世相が見え隠れする。

 

ここで特筆すべきことは、この道灌山通駅の写真は、なんとこの昭和13年萩原二郎氏撮影の一枚しかないらしいということだ。他にもあるのかもしれないが、公開されているものはこの一枚だけで、様々な雑誌や書籍に紹介される駅の写真は総てこの一枚である。この写真とて、左下から上にかけて、印画紙からコピーしたときに入ったと見られる映り込み光が入っている。もしもこの駅の他の写真が発見されたら、それこそ大発見である。

 

次に示す写真は1936年日本陸軍が撮影した航空写真と、1947年(終戦後)に米軍が撮影した航空写真である。1936年の写真には駅らしき建屋が見られるが、1947年の写真では戦災によって消失したという可能性もあるものの、駅舎は見えない。

 

1936年6月11日陸軍撮影の空中写真 

(地図・空中写真閲覧サービス - 国土地理院から抜粋)

 

1947年7月24日米軍撮影の空中写真 

(地図・空中写真閲覧サービス - 国土地理院から抜粋)

 

現在の同地点写真 Google Earthの画像から

 

下の写真は2016年9月現在の西日暮里五丁目、道灌山通りと京成電鉄が交差する地点で、かつて道灌山通駅があったところだ。線路、向かって右側である。これは、舎人ライナーの西日暮里駅コンコースから撮影したもの。

 

旧道灌山通駅付近 2016年9月 筆者撮影

 

この駅、駅の開業や廃止期日は記載されているものの、開業動機については全く記録がないのだ。恐らく三河島と日暮里の間にある通りは道灌山通りだけだったので、そこに駅を造ったという程度だったのだろう。ところが駅間距離が短いために利用者は少なく、しかも駅舎は戦災で消失、その後復活させる理由もないので人知れず廃駅となったということか。

実際、実家の両親からこの駅について「あった記憶がある様な気がしないこともない」という様なコメントは得られたものの、新三河島駅にも日暮里駅にもごく近いこともあってあまり利用されないが故か、同駅を知っている人にとっても忘却のかなたにある「幻の駅」であり、人々の記憶から静かに消えていく運命にある駅なのだろう。

 

道灌山通駅を出ると、間もなく日暮里駅に着く。日暮里駅までの距離は僅か600mの距離である。現在運行されている都電荒川線の平均駅間距離は420mであるから、それより若干長い距離である。 当時の電車運行速度からすれば今の都電と同じ様な利用方法だったと思われるが、決して歩けない距離ではなく、駅の利用客が少なかったことは想像できる。とはいえ、そもそも開業の理由は謎である。

 

- 続く

 

京成電鉄は、JRとの乗り換えには日暮里駅が便利な東京と千葉を結ぶ路線であり、京成電鉄沿線の住民たちは、みな京成電鉄の車両を京成電車と呼んでいた。

 

小生が高校生の頃まで、山手線・京浜東北線に西日暮里駅という駅はなかった。そのため、西日暮里生まれの小生や西日暮里の住民達はずっと日暮里駅を利用していたのだが、小生の場合、日暮里駅を発着する電車のうち殆ど利用したことのない電車があった。それは京成電鉄である。

 

但し、殆ど利用したことがないとはいえ小学校時代のクラスメートが京成鉄道高架下にあるアパートに住んでいたことや、千葉方面からたくさんの野菜を背負い込んで上京する行商のおばさん達が自宅によく来ていたことなどから、直接間接的に京成電鉄に関連することは幾つもあったが、千葉方面に友人や親戚などがいなかったために京成電鉄に乗車する事は殆どなかった。考えてみれば、日暮里界隈の子供達の京成電鉄を利用する観光移動といえば小学校の遠足で行く谷津遊園ぐらいであり、京成沿線には上野以外にデパートのある大きな商店街や当時流行っていた洋食屋などは殆どなく、しかも日暮里から上野に行く場合には山手線や京浜東北線を使うことがデフォルトだったので、沿線に親戚でもいない限り京成電車を使うことは殆どなかったのである。

 

さて、小生等地元民、とりわけ高齢者の方々の中には記憶がある人もいると思われるが、京成電鉄には日暮里駅を境にして三つの廃駅があった。今や全く痕跡のない駅、今は僅かに痕跡のある駅、そして今も保存されている駅だ。それぞれの駅には、それぞれ理由を以って廃駅となった経緯があるのだろうが、いずれ駅の遺構と共に駅となった理由すらも人々の記憶から消えていく可能性はある。現に、駅廃止後も今日まで残存していた寛永寺坂駅舎跡に就いては、昭和22年(1947年)の駅廃止から70年も残存していた駅舎だったが、ついに今年(2016年)8月には跡形もなく解体されてしまった。現在はまだGoogle Map上には「寛永寺坂駅跡」という表示があるが、そう遠くない将来にその名称すらも消失していくことだろう。

 

そこで、今のうちに日暮里駅を挟む京成電鉄の三つの廃止駅やその周辺についてまとめておくことにした。

 

1. 京成電鉄について

会社創立は、1907年(明治40年)5月に押上~成田間の電気軌道敷設特許が下りた事によって1909年(明治42年)6月30日に京成電気軌道として創立された鉄道会社である。大正元年11月3日の押上~柴又間の運輸営業が開始され、翌年10月には柴又~金町間が開通した。

 

商号 京成電気軌道株式会社

資本金 150万円

本社  東京市麹町区八重洲町1-1

専務取締役 本多貞次郎

 

京成電鉄は正式名称を京成電鉄株式会社といい、営業キロは152.3km。名前の由来は文字通り東京と成田山新勝寺を結ぶ路線として参詣客の輸送や、柴又帝釈天への客輸送を目的として開発されたことにある。

 

京成電車は、東京と千葉を結ぶというイメージが強いが、京葉線とは言わずに接続端を明確に絞込んで東京と成田をつなぐ「京成」としたところから、当時の成田山新勝寺の存在の大きさが想像できるというものだ。一方、同じ関東にある別の私鉄線、即ち東部鉄道や西武鉄道、或いは小田急電鉄などでは沿線沿いに日光、秩父、箱根と云ったような大きな「お抱え的」観光地がある。京成電鉄には成田山新勝寺以外にめぼしい観光地がない。というか、新勝寺は観光地ではない。その辺り、つまり観光としての目玉商品がなく、観光地からの金回りが乏しいことが京成電鉄の持つ大きな課題であると言えよう。

 

とはいえ、近年では成田空港への空港アクセスを担う重要な交通機関として機能し、今や成田山新勝寺へのアクセスというより専ら成田空港との連絡路となっており、いきおい、2010年7月に特急スカイライナーによる成田への新ルートが完成してからは成田エキスプレスを武器とするJRとの間で激しい旅客争奪戦を展開している。つまり、観光地への送迎電車というより国際空港アクセス線として活動している線でもあるのだ。

 

ただし成田空港も永遠ではない。近年、羽田も国際線のハブ空港としての機能を整えてきた。もしハブ空港となれば、都内へのアクセスは成田空港よりも断然利便性が高い。つまり成田空港にとっての最大の競合空港である羽田空港が再び天下を取ろうとしてきているのである。従って成田空港だけを資金源とすることは、将来を鑑みると、ある意味危険かもしれない。

 

2. 京成電鉄日暮里駅周辺の廃駅

これまでの歴史のうち、日暮里駅に隣接した駅の開業停止廃止などについて記載しておく。

 

1912年(大正元年)

11月03日 実質的な開業。当初は押上 - 市川(仮・現江戸川駅西方)・曲金(現・京成高砂) - 柴又間が開業。

 

1931年(昭和6年)

12月19日 日暮里 - 青砥間が開業。

 

1933年(昭和8年)

12月10日 寛永寺坂駅、博物館動物園駅が完成し、上野公園駅(現在の京成上野駅) - 日暮里間が開業。ここは上野公園下の地下線となったが、東京の郊外電車としては初のケースだったという。

 

1934年(昭和9年)

04月18日 道灌山通駅開業。

 

1945年(昭和20年)

06月10日 日暮里 - 上野公園間が当時の運輸省の接収を受けた。これは、戦争末期空襲が激しくなってきたことに伴って、運輸省の疎開先として上野公園下の地下トンネルに目を付けたことによるらしい。しかしこの年の8月に終戦を迎え、当地は機能することはなかったという。

10月01日 終戦に伴い、接収解除となって上野公園 - 日暮里間が営業再開。

 

1946年(昭和21年)

11月01日 寛永寺坂駅営業再開。

 

1947年(昭和22年)

02月28日 休止していた日暮里 - 新三河島間の道灌山通駅、町屋 - 千住大橋間の西千住駅廃止。

08月21日 寛永寺坂駅休止。

 

1953年(昭和28年)

02月23日 休止していた博物館動物園 - 日暮里間の寛永寺坂駅廃止。

05月01日 上野公園駅を京成上野駅に改称。

 

1973年(昭和48年)

06月16日 京成上野 - 日暮里間が休止。京成上野駅改装工事(1976年7月完成)のため。

12月16日 京成上野 - 日暮里間が営業再開。

12月30日 スカイライナー運行開始。

 

1970年代

当時、ストライキが横行しており、なかでも京成電鉄のストライキは硬派として最後まで和解せずに続いていた記憶がある。「小田急電鉄や西部電鉄の様な特急料金を取れる列車がない」ため、財政が厳しいと言われていた。

 

1980年代

京成電鉄の傘下にあったオリエンタルランドが東京ディズニーランドの招致に成功したことや、リストラ策が功を奏して経営が好転した。 1988年(昭和63年)度上半期には12年ぶりの経常利益を計上、1989年度上半期には累積赤字が解消され、同年下半期には株式配当も復活してようやく経営危機からの復活を果たすこととなった。

 

2009年(平成21年)

10月03日 日暮里駅下り線が高架化されホームが上下線別に分離(上りは1階、下りは3階)。

- 続く

以前、USB型ワンセグチューナーを使い、SDR(Software Defined Radio)をインストールしてPCを広帯域ラジオ化させる方法を紹介した。

 

1セグチューナーUSBあそび -440円で作れる広帯域受信機

http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-12175731609.html

 

そのときはFM用のアンテナで動作確認をしたのだが、最近になって広帯域のアンテナを繋いでみたくなり、自作する事にした。もちろん、アンテナの設計には膨大な計算が必要であり、しかも建物などの障害物などの環境諸条件が複雑に絡んでくるので実際には計算通りとはならず、いきおい、アンテナ設計はやってみるのが一番というオチのある試みではある。実際、小生がかつて学んだ電波工学の教授いわく「五素子以上のアンテナは計算し切れないし、計算するよりもカットアンドトライで作った方が早い」と豪語していた。今から40年以上も前の話なので、現在ではコンピュータを用いた様々なアンテナ設計アプリや電磁界解析も出来ているが、それでも実際の郊外では環境条件の総てを計算するのは、現実的に考えると不可能だ。その意味、大雑把に作っておいて後で調整出来る様にしておけば、自作も楽である。

ということで、適当に作り始めた。

 

まずは、アンテナ。この場合、長さを自由に調節出来る無指向性のロッドアンテナが最適だ。

 

ロッドアンテナとは、昔から手元にある身近なアンテナのことで、かつての携帯電話の一本モノやアナログテレビ時代の室内アンテナや現在のFM卓上アンテナに用いられている二本のものが一般的だろう。今回は、土台を固定したまま縦横に自由に張れる様、180度回転出来るものを4本使うことにした。これをアマゾンで一本260円にて調達。しばし待つ事数週間、中国の北京から直送されてきた。

 

 

それを厚み1cmのアクリル板の上へ四角に配置し、電動ドリルで穴を開けてネジ止めする。厳密に言えばこの素材も誘電率が問題となるが、今回は加工性のみ重視。アンテナ間の距離に就いては、狙う相手がVHF帯、つまり100MHzであれば3mもあるので、数cm程度の違いは誤差の範囲として作業開始。専門家からみたら相当いい加減であるが、効率を測定する目的ではないので、いい加減で十分。

 

ロッドアンテナの固定穴の直径は2mmなので、2mmのドリルで穴を開ける。ここでちょっとした事故が発生した。少し力を入れすぎたため、ドリルの刃が折れてしまったのだ。相手がアクリルとはいえ、2mmというのはさすがに細い様で、掘削時に手でしっかりと固定させればよかったのだろうが、力加減が強かったのだろう。たまたま折れた頭がアクリルの上に出ていたのでペンチで引っ張りだす事が出来たが、失敗失敗。次いで3mmのドリルで再挑戦。今度は力をかけずに緩く進めたので成功。その穴を四つ開けた。

 

次いで圧着端子に同軸ケーブルをカシメる。同軸ケーブルは手元にあった3C-2Vのものを使う。3C-2Vはこんな感じの同軸ケーブル。ごく一般的なケーブルだ。

 

 

これをロッドアンテナの穴と一緒にアクリル板に固定し、ケーブルの反対側にはPC用ワンセグチューナーに接続させるF型コネクタをつけて完成。

 

 

完成した形は、2x2のロッドアンテナで構成されたAWXアンテナもどきのやつである。先に述べた様に、殆ど計算などせず適当に勘だけで作成した。受電できた暁には、後で原理を考察すればいい。

 

まずはSDRに接続してみた。これが結果驚くほど利得が高い。実際、拙宅からはかなり遠くて一階では受信できなかったFM横浜もきちんと入る。試しに、市販されているFMアンテナに切り替えてみたが、殆ど入感しない。ブースターをオンにすればいくらか良くなるものの、なんとブースター無しの自作品に劣る利得となった。

 

 

写真は、拙宅で受信した84.7MHzのFM横浜。拙宅まで直線距離で65kmだ。ブースター付市販品よりもブースター無し自作品の方が利得が高いことがわかる。

 

4本あるアンテナの長さや方向を色々と調整すれば、更に高いゲインが得られそうだ。

 

 


おりしも、知り合いから使っていないというテレビを一台もらったのでテレビのない部屋に置くことにしたのだが、その部屋には壁にアンテナ端子がないため、別の部屋からアンテナ線を引き込むか室内アンテナを設置する必要あるので、簡単に済ますために室内アンテナを置く事にした。

 

とはいえ、拙宅のロケーションは東京スカイツリーから約30kmあり、いわゆる中電界という地域であるので室内アンテナはブースター付の大型のものが必要と言われている。とは言え、もしもその大型アンテナでもダメだったら買ったアンテナが無駄になる。高価な室内アンテナを捨てるのは忍びないので、無謀にも強電界用の安いアンテナで「勝負」することにした。とは言え、さすがにブースターが装備されているタイプとした。価格は約3000円程度のもの。結果は、受信のたびにアンテナの位置を探る必要はあるが、その手間を惜しまなければまずまずの性能が得られた。

 

さて、そこで今度は自作アンテナの登場だ。これを試す事にした。この自作アンテナは、素子が総てロッドアンテナとなっているのでアンテナ長は可変だ。そこで地デジの周波数に合わせてアンテナを短くする。これを使って受信してみた。結果は頗る良好。しかもこの自作アンテナはブースターも無し。これには我ながら満足。

 

こうなってくると、もっと素子数を増やしたり色々やってみたくなってきた。

 

こうやって実用よりも好奇心が勝ると、色々とモノが増えてきてしまうのである。 

東京、有楽町にある国際フォーラムにてインターナショナルオーディオショウという展示会が開催された。かつて何度か行ったことはあったが、今回、日頃懇意にさせて頂いている方から出展に際してお誘いを頂き、久しぶりに行ってきた。

 

 

第一回目は1983年だったから今年で34回目となるこの展示会、コアというかディープというか、とにかく大人の趣味としては、金額的にも恐らく最高峰とも言えるオーディオ趣味の極致的祭典だろう。因みに価格1800万円のスピーカー展示などもあり、耳で聞くだけではなく「目で鑑賞」も出来る展示会となっていた。

 

このインターナショナルオーディオショウ、当初はオーディオ製品を輸入もしくは製造する会社法人による任意団体であるInternational Audio Society of Japan、IASJ」が主催する輸入オーディオ展示会だったものが、約10年前から国内のオーディオブランドにも参画させる様にしたオーディオ展示会であり、オーディオファンの客向けに、頑丈な防音壁でメーカー別に隔離された部屋で「選りすぐりの名器」にて各社自慢の音を聞かせるという展示会である。

 

ところで、そもそもこの展示会はオーディオ機器のみ出典の展示会であるため、ほぼ100パーセントの出展社は国内外のオーディオ専業メーカーであったが、今年そこに参画してきたメーカーがあった。

 

テクニクスブランドを背負ったパナソニックである。

 

テクニクスというブランドはオーディオブランドではあるが、パナソニックは住宅空間から車載など幅広く活動する言わずと知れた総合メーカーでもある。新参画は同社の戦略もあるだろうが、その背景には家電業界に於ける市場牽引に関する意図的なパラダイムシフトもある様だ。

 

パナソニックがオーディオブランドとして、かつての名声であったテクニクスブランドを復活させてからおよそ2年が経過、その間に家電市場も様相が変わってきた。因みに今年度のCEATEC(アジア最大級、エレクトロニクス総合展)は、その開催趣旨の軸足を従来のデジタル家電ショーからCPS/IoT関連へと変えるという。よく間違えられるが、CEATECの「CE」はConsumer Electronicsではなく、「Combined Exhibition of Advanced TEChnologies」。つまり最新技術の複合展示の意なので、その意味では展示趣旨が本来の展示へと回帰することにはなる。

 

 

その流れからパナソニックはCEATECでのオーディオ展示を「卒業」し、戦場をオーディオ専門展示会であるインターナショナルオーディオショウへと変更させていったのだろう。実際、来場者幅の広すぎるCEATECよりもオーディオ専門展示会の方が「売りたい、買いたい」のベクトルが合致するので、訴求コスパが高いことは推測できる。

 

パナソニックと展示他社との大きな違いは、先に述べた様に他社が総てオーディオの専門メーカーであることに対し、パナソニックは生活全般を提供する総合ライフスタイル提案会社であることだ。いきおい、他社とは異なる訴求、即ち同社が提供する住宅設備や生活空間の一部としてオーディオを提案出来るという点が大きな差となる。一方、老舗のオーディオメーカーとファンとの間の関係は、決して一朝一夕で培われたものではなく何十年もかけて熟成された有機的結合関係であり、莫大な資金と体力を持つパナソニックといえどもその牙城を切り崩すのは容易ではない。逆に言えば、そこをどの様にして切り崩していくかが同社の腕の見せどころと思えるが、今回参戦してきたということは臨戦に際して何か秘策があるのだろう。

 

競合他社にとってそれは単なる脅威なのか、或いは共に手を携えて市場活性化を図る「好敵手」と見るか、今後の動向は興味深い。


この手の展示会では、各メーカーの訴求方法は大きく二通りある。一つは「四の五の言わず、まずは音を聴いてくれ」という訴求、もう一つは「画期的な技術を見てくれ」だ。もちろん、どちらか一方だけの訴求ということはないのだが、概ねどちらかに分別が可能だろう。例えば、超高級アンプやスピーカーでは技術説明を割愛してしまって音だけで勝負、普及機の場合は、低価格であるにも拘らず何故高級オーディオと比べて遜色のない性能が出せるのかという技術訴求を中心として参戦する。今回の展示会などでは、来場者の嗜好を鑑みると、音の良し悪しはもちろんだが技術的な差別化の解説も来場者にとって印象深いものになるのではないかと考える。その点、今回のテクニクスでの展示は、その両者を使い分けて約1時間のデモとなっていたが、新参としての手探り状態であるとはいえ訴求内容は来場者へ伝わっていた様に思う。

 

さて、今回に限らないのであるが、オーディオ展示会というと圧倒的に男性の来場者数が多い。しかも年齢層が高い。平たく言えば、オーディオとは「オッサンの趣味」ということか。よく、男の趣味は車やバイク、カメラなどと言われるが、そのジャンルには女性もたくさんいるはずだ。それ等に比べると、どうもオーディオ趣味人口は男度が圧倒的に高い様な気がする。実際、この展示会でも99%近くが男性だったし、女性は同伴として来場している人が殆どだった。しかし、音楽を聴くということであれば男も女も同等なはずだ。つまり、音楽を聴くということとそれを再現する手段は全く別と言う事なのだろうか。

 

例えば、旅行という趣味を考えると男も女も同じぐらいいるはずだが、手段としての鉄道、車やバイクを趣味として掲げる人の数は、男性の方が多い様な気はする。オーディオの場合もこれが当てはまるかもしれない。これらの趣味を整理してみると、次の様になるだろう。


精神静養的趣味    研究教養的趣味
--------------       --------------
旅行           鉄道、車、バイク等
音楽鑑賞        オーディオ装置


精神静養的趣味である旅行や音楽鑑賞と、研究教養的趣味の鉄道、車、バイク、オーディオ装置は、まさにソフトウェアとハードウェアとの関係であって、両者揃って初めて機能するはずだ。鉄道や車、バイクに興味はあるが旅行には興味ないという人はまずいないだろうし、オーディオが趣味だが音楽は嫌いという人に至っては皆無だろう。にも拘らず、オーディオが趣味という女性はどうも少ない様なのだ。旅行は好きだし車やバイクも好きという女性はたくさんいるが、こと音楽鑑賞というジャンルを座標平面で鑑みると、女性たちは「音楽は好きだがオーディオ装置には興味がない」という第二象限に集中するからか、オーディオ趣味というカテゴリーでフィルタリングすると男性ばかりになってしまうのだ。

 

ではどうやって女性層を拡大させることができるだろうか。


世にはガンプラ好きとか鉄子さんといった女性たちも多くいるわけだから、ハードウェアとしてのオーディオ機器のポテンシャルユーザーは女性の中にもいるはずだ。ただし、それらの層の構成者は押しなべて若年であり、年配層は少ないだろう。故に、オーディオ展示会で陳列されている様な高額機器を品定めする女子なんぞ、少なくて当たり前だ。

 

高額商品を自分予算で買える女性というのは、特別な事情がない限り高齢の女性なはず。彼女たちは若年層とは異なり購買力がある。ところが、たとえ音楽好きであったとしても、高齢女性たちがオーディオ機器を聞き比べたり仕様を確認すると言う姿は想像に無理がある。従って市場拡大を狙う場合には、そういう女性達をオーディオ展示会場へと誘う方法も考案する事が必要だろう。

 

一般的に女性はブランド志向が強い。安心感を求めているのだ。従ってある一定の機能性能をクリアしていれば、高名なブランドであれば購入層になる可能性は十分ある。であれば、ブランド志向を持つ富裕層への訴求にはブランド戦略が有効だろう。オーディオブランドは数あるカテゴリーの中ではマイナーなブランドだが、前もってブランドに対する「洗練された高級商品」的なイメージを確立、自然に頭の中にそのイメージをインストールさせ、その後でオーディオに目を向けさせれば良いのだ。

 

キーワードは「安心感」。とはいえ、これが出来るメーカーは限られているだろう。

 

かつてカセットテープのメーカーが、音楽好きだがテープメーカーは問わないという女子高校生層をターゲットにするために、それまで重厚な色彩だったカセットケースをパステルカラーにした上、ケースの角に丸みを持たせたところ、狙った層へ爆発的に売れる様になったという。


これは一般消費財の話ではあるが、とにかく新しいユーザー層を開拓するためには、仕様や機能以外の何か仕掛けが必要だろう。若年層までオーディオ趣味を広げるためには、若年層が購入できる価格帯商品が必要だ。しかしその市場は既に激戦区となっている。従って、高機能、高性能が維持された高級ブランドイメージをまとった普及機帯の商品展開が有効と考えられる。

 

メーカーや小売店から聞いた話だが、夫婦でテレビなどのAV機器を購入する場合、機能仕様の確認は旦那が行い、決裁するのは奥様というケースが圧倒的に多いそうだ。拙宅でも覚えがある。こういう場合、女性はリビングに置いたときの見てくれとか、部屋の構造や彩色とのマッチング、更には友人を呼んで見せられるか、などといった様なライフスタイルを鑑みて購入を決定するそうだが、ここで言う生活とのマッチングというところが女性購入層を取り込む大きなキーとなりそうだ。そのためには、これまで男性社会だったオーディオという市場に女性市場を開拓するためにスタッフとして女性をどんどん起用し、音楽のある空間演出について女性的発想を取り入れることも市場拡大に有効だろう。


「女性は男性と異なる価値観を持つ」という理由もありそうだ。

 

実際、動物学的に見て、女性は本能的に子育てを最優先するために周囲との協調を尊しとするから、オーディオの様な自己満足な世界に対して抵抗があることは想像がつく。しかし、オーディオを「自己満足を超えた、おもてなしの世界」へと昇華させる提案があれば、潜在的な女性ファンへの吉報となるかもしれない。

 

自己満足に就いても、どうやら男性とは違いそうだ。女性の自己満足は、バランス感覚に裏づけされた「相対的」な差別から感じ取る自己満足だろう。男性のそれが単純な自己満足である事に対し、極めて複雑である。

 

ある女性は言う。「音楽は好きだけど、オーディオに金をかけるよりも服に金かけたい」

なるほど、と思う。ここに現れている自己満足は、飽くまでも他人あっての満足なのだ。つまり、世界に一人しかいなくなったら、どんな服を着ようが見せる相手は存在しない。相対的なものだ。一方、オーディオで悦に入るのは、周りに人がいようがいまいが関係ない。

どちらに価値を見出すか、一見不可侵な価値観同士ではあるが、どうやって門戸を開くか、開かせるか、チャレンジする価値はある。

 

また、女性同士の間で自己紹介するときに「オーディオが趣味」と言うと、暗いとか理屈っぽいとか思われそうなので敬遠しているという事情もありそうな気もする。従ってオーディオ女子を増やすためには、彼女たちをそこから救出する方策を講じる事も必要だろう。


オーディオ機器は飽くまでも音楽を聞くための「道具」であって、それ以上でもそれ以下でもない。しょせん、オーディオなんて音楽を聴く以外には使い道のない道具だ。いきおい、販売するためには「どうせ聴くなら良い音で」という謳い文句となる。しかし、良い音とはオーディオ装置の良し悪しだけで決定されるわけではなく、生活の一部であること、装置が置かれる空間とのマッチングが取れていること、他人をもてなす心地よい空間を演出出来ること、そういう感性的要素も不可欠だ。つまり音を聴くためのお膳立てや、音を出すまでの演出といった様なオーディオ機器以外の役者も必要であり、市場拡大には生活を取り巻く様々な業種とのコラボが有効だろう。商品の差別化はそこで出来る。くどい様だが、それができるメーカーは限られている。

 

CEATECが軸足を変えた事に伴って、家電の一部であったオーディオは、新たな客層を開拓すべく大きなチャンスを迎えている。

東海道新幹線の新大阪駅にて、週末に実家へ見舞いに行くための土産物を買い、18時10分発上り東京方面行き23・24番線プラットフォームにエスカレーターで上がった直後、突如として激しいめまいに襲われた。これほど激しいめまいは経験がなく、というか、そもそもめまいという事自体が殆ど初めてのことだったので、文字通りめまいがした。

 

症状は、眼前の景色が大きく揺れ動き、まるで地震の様に見えるというもので、足元がふらつき殆ど歩くことができないと言う症状。

 

列車は新大阪駅発なのでフォームにはすでに列車が停車していたため、フォームからの転落の危険はないのだが、足元がふらついて目の前に停車している列車に乗ることができない。フォームからドアまですら歩けないのだ。これには困った。歩こうとすると与太って転びそうになる。泥酔してもこんな酷い歩き方にはならない。列車の発車までは5分近くあるので焦ることはないとは思うものの、とにかく歩けない。

 

とはいえ、乗らないと帰れない。曜日は金曜日。週末の新幹線なんぞ予約もいっぱいだし、これに乗れないと予約放棄として扱われ、座席は自由席となってしまう。その時間帯の自由席なんて、下手をすれば立ち席だ。そんなところに入り込んだら、それこそ倒れてしまうかもしれない。意識は完全にあるので、そ んなことを考えながら一歩ずつゆっくり歩いてなんとかホームの柵までたどり着いてしがみついた。

 

後はドアまで歩み寄り乗るだけだ。時間はまだある。少し落ち着こう。そう考えて歩くことをやめて深呼吸をし、自分の症状の変化を分析した。もし悪化しているのであれば駅員に救助を頼む必要があるし、改善しているとすれば時間経過に伴って症状は軽くなる筈だ。分析の結果、症状としてはピークを過ぎていることを確認、つまり時間が経てば改善する事が分かったので、発車時間までそこに佇み、具合がよくなってから移動することにした。

 

そうやって数分が経ち、柵にしがみつかなくても歩けるようになってから目的号車まで進み、乗車して座席に着くことができた。着席後、京都に着く前には既に眠ってしまい、目が覚めたら静岡付近を通過していたがめまいの症状は感じなかった。

 

このめまいの原因には様々なケースがある様だが、今回の様な動揺性のめまいはストレスによるものも多いという。そういえば実家の母親が痙攣を伴って倒れて救急車で搬送されてからというもの、幻覚を訴えたり全く会話がかみ合わない状態が続き、診断の結果は「せん妄」とされて以来ずっと看病を続けてきたが、いきおい、こちらもストレスは高かった気はする。更に拙宅とは電車で1時間半ぐらい離れている病院と実家を殆ど毎日行き来したので疲れもあるし、食事も極めて変則的でしかも少量であった事や、真夏日が続く中での水分補給もおろそかであったりなど、めまい症状を引き起こす原因は多岐に判っていると思われる。幸いにして母親は退院したが、小生がめまいを起こしたのはその直後であったということも、関連性を否定できない気はする。

 

 

いずれにせよ、少し休養は必要の様だ。
 

小生、自慢じゃないが、クソ理系過ぎなところがあり、読む本と言えば電子電気関連の参考書か科学一般の新書がほぼ100%で、とりわけ小説なんぞ数十年ぐらい読んでいない気がする。

いや、数年前に一度、田中慎弥氏の「共喰い」を読んだのだが、なぜそれを読んだのかと言うと、当時集英社の青春新書による企画「AKB48のメンバーに小説を読ませ、その感想文を公表する」にて、AKB48の大島優子が課題とした小説が共喰いだったことから、では小生も読んでみようという、かなり不純な動機に基づいて読んだものだった。


http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11580146338.html

一方、共喰いの前に読んだ小説はなんだったか、その記憶はない。

そんな中、小生の知り合いが小説を発表した。そこで久しぶりに小説を手に取る事にした。

「四十代の同窓会」という小説である。


ネタバレになってしまうのでストーリそのものに就いては書かないが、高校時代という多感な年頃の男女の日常、及び彼等の数十年後に開催される同窓会というイベントを群像的に描写したものなのだが、事件や事故、或いは怨恨などと云った裏事情的な要素を全く感じさせない、安心して読み進む事の出来る純愛文学的作品である。

事件性がないということは、即ち普通の高校生であれば誰もが経験するであろう他愛もないごく日常的なことであり、いきおい、「皆、同じだよね」という題材になってしまい、小説としての展開が難しいはずなのだが、作者は敢えてそのまま手を加えることをせずに登場人物たちの心の葛藤やその動きを上手く描写している。実際、誰も同じといっても十人いれば十通り、百人いれば百通りの恋愛や人生があるわけだし、とりわけ恋愛感情などは周囲環境にも大きく影響を受けるので、ストーリの展開は千差万別となるだろう。作者は、この作品の中ではそれらの幾つかをサンプリングし、時間軸で変異を綴ると言う手法で群像の変遷を描いている。

そして高校を卒業、数十年経ってからの同窓会というイベントでの再会を描く。「絵」的には、つまりテレビドラマなどでは、このイベントが人生の岐路になると言ったストーリー展開が王道なのだが、本作品では、そのきっかけすら与えないまま、ある意味、読み手にもどかしさをも感じさせたまま、静かに過ぎていく。よくよく考えてみれば、これが実は普通な現実なのだろう。同窓会で人生が変わるなんてB級映画の定番であり、一般的にはそうあることではない。従って作者はその一般系を尊重し、敢えてそこに波乱を与えることなく、緩やかに物語をフェードアウトさせていく。同窓会での再会がその後の人生にどう影響を与えていったか。「ご自由に想像してください」と云わんばかりに、それには触れない。

こういった高校時代とその後の同窓会といったストーリー展開、今日びの青春モノ映画の場合には必ずと言ってよいほど「血生臭い」展開が登場するのだが、この作品に登場する男女は、徹頭徹尾プラトニックな感情を保たせたままストーリを展開させていく。まるで、吉永小百合などが主演する昭和30年代前半の青春映画を彷彿とさせる様な展開に近い。

作者が吉永小百合の青春時代映画をリアルタイムに経験している事はないはずだから、この小生に描かれている情景と言うのは、時代という柵を越えて古の時代から現代まで何時でも繰り返されている情景なのかもしれない。そういえば、乃木坂46のプロモーションビデオにも、こんなストーリ展開なシーンが良く出てくる。この手のストーリーは時代を超えた自然な営みなのだろう、と思う。

かくいう小生、「お前のときはどうだったか」と聞かれると、小生にとってこのストーリー、実は全く別世界なのである。

というのは、小生の場合はずっと男子校だった上、大学も工学部で電子工学専攻、今の時代であれば情報工学科とかメディアxx科と言ったネーミングで女学生もたくさんいると思うが、当時は工学部の女子大生は建築科と化学科に数名いただけで電気機械には一人もいなかったために、多感な年頃のときはオトコ衆だけで過ごし、教室に男女が同席するというシチュエーションは、全くもって想像すら出来ない環境にいたのだ。従って、クラスメートの女性というのは有り得ない、つまりこのストーリの世界は全く異次元な別世界での出来事なのである。

ゆえに、この小説の中には身に覚えのあるといったシーンは全く現れない。いわば、それが逆に新鮮に感じたのかもしれない。
そう云った環境下で育ったが故に、男子校人たちの女性に対する見方は恐らく共学出身者とは違うと思うし、それは仕方ない事だとも思う。そのせいか、小生等の恋愛と云えば「タイプな子がいたらまずナンパしてから」というプロセスがマニュアルに書かれていた様に思う。思い起こせば、教育実習に来た女子大生や、修学旅行でのバスガイドさんから電話番号を聞き出したこともある。そもそも教師達すら「今週末はxx女子高の文化祭だから、みんな頑張れ」みたいに生徒たちを煽ったものだった。それが男子校だった。かなり歪んでいる様な気がしないでもないが、それがデフォルトだった。

一方、小生の様な共学知らずから見た場合、共学のデメリットは男女間恋愛が破綻したときに現れるだろうと想像する。考えてみると、恋愛が破綻した後も毎日同じ教室で顔を合わせ、最悪の場合には机を並べるというのは地獄そのものだ。我々男子校人たちは、破綻した後には一生顔を合わせないと言う方法を講じることが可能なのだ。いきおい、この作品に出てくる様な同窓会で再会するということもない。「生き地獄を味わう事もある」はないのである(原則的、ではあるが)

この作品、共学出身者にとってはこそばゆい思い出をリコールするストーリなのだろうと思うが、共学未経験者にとっても、見知らぬ世界を垣間見ると言う意味で興味深い作品だ。

人生には「忘れられない事であっても思い出す事はないこと」がある。人間の脳は、平均寿命としての生まれてから死ぬまでの期間に見た事や経験した事を総てメモリする容量を持つ。これについてはここで述べた。

http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11697200390.html

「忘れはしないことだが、思い出す事もないこと」をふと思い出すきっかけ。

それは、この作品が示唆する様な同窓会かもしれない。
しかし、我々男子校人には、同窓会での再会はない。それは幸か不幸か。この作品のごとく、答えはない。


小生、わりと子供の頃から電気機関車は好きだった。あの独特な唸り音は、力強くたくましく、しかしながらなんとなくドン臭くて好感もっていた。大人になっても、かなり好きである。

おりしも、東芝製のEH800という電気機関車、同社府中工場から試運転で出庫したところに偶然居合わせたことがあった。EH800は、交流20kV/25kVどちらもオッケーな北海道新幹線と共存する在来線用の電気機関車。自分的には大変ラッキーなことだった。 なにせ、新車だから、ブレーキの軋み音はハンパない。すさまじい音を立てて停止していた。だから気付いたわけだ。

ところで、そのとき、この車両は直流用ではないのだがなぜ直流区間な府中から単体で出てこれたのかという疑問が起きた。

東芝府中工場を出たEH800-5

EH800が開発された背景は次の通りである。

かつて、北海道へ列車で行くためには、青函連絡船で車も列車も船で運ばれた。石川さゆりの「津軽海峡冬景色」がそれだ。それから幾年か経て青函トンネルが完成した後に青函連絡船は廃止され、本州と北海道は津軽海峡を経て文字通り陸続きとなった。この青函トンネルは、ずっと後に予定されていたとはいえ、北海道新幹線の開通を考慮して掘削されたトンネルでもある。

その青函トンネルが開通してから北海道新幹線が開通するまでの期間、青函トンネルには各種客車や貨物の列車が往来してきたが、北海道新幹線の運用が始まってからは北海道新幹線がその役割を担うことになり、在来線は総て廃止された。しかし乗客は新幹線で運べるものの、貨物は新幹線で輸送することが出来ない。従って貨物を輸送するためには、貨物を牽引する電気機関車が新幹線と共に青函トンネルを通過する必要がある。つまり新幹線とトンネルを共用できる電気機関車、即ち貨物輸送の送電線電圧交流20kVと新幹線送電電圧25kVの両電源から受電できるシステムを持つ電気機関車がが必要になったわけだ。EH800はそういう目的のために新設計された電気機関車である。

この青函トンネルという箇所は海底ということもあり、長距離を走行する上では、温度20℃、湿度90%という他と異なる環境を走行する必要がある。冬などはその環境で長時間晒された後で地上に出ると、たちどころに結氷する。これに対する対策が必要となる。
また、津軽海峡の水深140mの更に下を走るので、12パーミルという勾配を20km走る。そのためのブレーキシステムも異なってくる。通常のブレーキだけだと危険なので、電気ブレーキの採用も必要だろう。これらの条件出しを行ったうえで、EH800は2011年7月に開発着手となった。

このEH800については色々な疑問があったのだが、先日さいたま市にある鉄道博物館で「青函共用走行用EH800形式交流電気機関車の開発」という講演会が開催されると聞いて、万難排して聞きに行った。 そこでは色々なことが判り、大変勉強になった。それと同時に、とにかくこの車両は直流回線区間では走れないということも判った。北海道から本州に入ってきたときは、東北本線を経由して宇都宮線の黒磯までの交流区間のみ走行可能ということだ。

ということは、東芝府中工場からの出庫は、北府中の駅から見た時、単体に見えたのだがおそらくディーゼル機関車が牽引していたのではないかということになる。ようやく疑問が解けた。ただし、本当のことを言うと、あの時ディーゼル車量は見えなかった気がしている。従っていまだに腑に落ちない気もしているのだが、直流区間を走れないということは事実な様なので良く見なかっただけ、ということなのだろう。まさか、気合や念力で動いたわけじゃないだろうし。ひょっとすると、この区間だけ東芝管轄として交流を送電しているのだろうか。。。

日本狭しといえど、様々な規格や自然条件が存在する。そこを駆け抜けるということは、一般に知られない多くの苦難がある。先のEH500もこのEH800も車体の色は赤。白い雪の中での赤は識別し易いので、危険回避になるという。そんなことも知ると、機関車を見る目も変わってくる。

「見て知ること、そして知ってからもう一度見ること」。それは、知っていて見ることと異なるアプローチで記憶されていく。
ワイヤレス給電が最近にわかに脚光を浴びてきている。ワイヤレスでの充電や給電は何も目新しい技術ではなく、古くからコードレス電話の子機や電動歯ブラシなどでお馴染みであるが、これまでのワイヤレス給電は電磁誘導方式によって微小な電力の供給を行っていたのに対し、最近では磁界共鳴方式によって大電力の供給が可能となってきた。更に送電受電間距離も大きくなった。従って、今後の主流は磁界共鳴になると言われている。この磁界共鳴をまとめる団体をAirFuel Allianceといい、規格をAirFuel規格と呼んでいる。


これまで、磁界共鳴で使用される電磁波の周波数がISMバンドの6.78MHzを使用することとなっているため、その法整備、つまりライセンスに関する総務省の認可に時間がかかった事などから、商品展開はされておらず、いきおい、これまでのワイヤレス給電の機器は総て電磁誘導方式となっていた。この代表がQi(チー)と言う規格で、これが現在のワイヤレス給電のスタンダードだ。因みにチーとは漢字で「氣」と書く。

今後はこれらが次第に磁界共鳴方式にシフトしていくものと考えられるが、その変遷の過程では両者が混在することからマルチモード、すなわち電磁誘導と磁界共鳴の両方をサポートする送電装置が出てくるだろう。当分の間はマルチモードが主流になるものと考えられる。

現在の専らの技術焦点は電力伝送の効率で、送電された電力がどの程度受電できるかというところだ。電磁誘導にせよ磁界共鳴にせよ、この伝送効率は性能評価に於ける重要なパラメータだ。つまり、ケーブル接続による充電効率がほぼ100%である事に対し、どの程度の効率が出せるかというところが、各社しのぎを削る舞台となっているわけだ。

更に価格も問題だ。これらの方式の最大の競合は100均の充電ケーブルである。つまり、開発者たちには100円に近い価格で、しかも100%に近い充電効率をもつ商品開発を求められている。それが現在の状況である。

ところで、ワイヤレス給電、本当に必要なのだろうか。

もちろん、その答えはYes。理由は、ケーブル接続による充電の場合は使用経年によって充電ケーブルが断線したり、コネクタがヘタること、モバイル機器の場合などではコネクタを装備させることから完全防水出来難いことなどがあげられよう。つまりワイヤレス給電の方が、利便性は高いということだ。

しかし実はこのワイヤレス給電、市場の立ち上がりが緩慢なのだ。利便性が高い事はわかっているのだが、立ち上がらない。何故か。答えは市場のマーケティング方法にある。

要は、市場のトレンドセッターに市場を牽引させる必要があるということなのだ。

ぶっちゃけ、小生も含むいわゆるエンジニアが四の五の言って逆立ちしたとことで、キラーアプリなんか出てくるはずがないというということに早く気付く必要があろう。もしも小生がマーケティング担当だったら、「ワイヤレス給電?それどこの宮殿?」的ボケをかます様な弱年層にニーズを探りに行く。コンサの必携品のペンラなんかもいい。コンサ会場の椅子の脇に配置されたダッシュボードボックスに突っ込めば充電できる。これはゼッタイ喜ばれるだろうし、小生もマジで欲しい。或いはテーブルに置くオーナメントとか、部屋の装飾とか、そんなニーズも出てきそうだ。

クラブやスナックのママさんへのヒアリングも興味深い。電飾関係が電源ケーブルの呪縛から開放させるというメリットがウケるかもしれない。電池切れもないし。

あるいは、電池の交換が面倒な高齢者達に「充電の手間が無くて済むとしたらどうです?」みたいなヒアリングしても良いだろう。実際リモコンも使用頻度によっては頻繁に電池切れする。

こういうユーザーにとって、実は充電効率なんて全く関係なく、たとえ効率が50%だっていいのだ。実際、彼等が比較ベンチマークなんかするとは考え難く、要するに簡単で手軽でメンドクなければいいはずなのだ。その意味、開発エンジニアたちは商品の仕様や性能に固執しすぎであり、しかしそれが仕事であるならば彼等に市場ニーズを探らせるのではなく、商品メーカーとしてはもっと破壊的な発想をするマーケティングへの抜本的な市場開発を働きかけることが必要だろうと考える。

市場開拓のために、もっとアナログ文系人やミーハー連中の間に飛び込ませるべきだ。新しい商品市場を開拓するのだから、既成概念に囚われていてはダメで、突拍子もない様なアイデアを募らなければ、市場の活性化は望めない。

最近、どうやらiPhoneの新機種(おそらく7?)にワイヤレス給電が装備されるという噂が流れている。これは一つのトリガーになると思う。市場を牽引するiPhoneがその方向に走れば、少なくとも若い衆はついて行く。利便性だけを訴求してもダメで、そこにオサレ感覚も必要だ。

エレガントでスマート。そして便利。これがキーワードだ。

「出来るビジネスマンやキャリアウーマンやインテリモデルやタレント達がスタバで開くAir Macは、ワイヤレスで給電を受ける」。こんなのがトレンドセッターになるかもしれない。

そして、もう一つの要素がある。それは常に充電状態であること。

これが適用される例は防災グッズだろう。万が一のために用意しておく防災グッズは、定期的な点検が必要だが、なかなかそうは行かず、すわっという時に電池切れになっているということはゼッタイ起き得るのだ。非常時に非常用装置が働かず大惨事を引き起こした原発事故以降、そういう点検の風潮は高まったものの、毎日意識する事は不可能だ。月に一度か二度程度でもいいから充電点検をすべきだが、これが出来ない。それに対するソリューションこそ、ワイヤレスによる自動給電(充電)だろう。タイマー付きで週に一度充電させておけば安心だ。

備えあれば憂いなし。これもキーワードだ。

さらに、JAXAからこんな話も聞いた。航空宇宙ニーズへの7ソリューションとして、
軽量コンパクトで高信頼性
設計製造の自由度の向上
メインテナンスの合理化
ケーブルなしで総てのモジュールへ同時に送電
金属接触面がないので、磨耗劣化もない
完全なる体環境パッケージへの封入
活線状態での作業時に起きる感電事故の撲滅

があるという。この辺りはBtoBとしてのアプリケーションだが、航空宇宙関係でのワイヤレス化による恩恵実績は、やがてBtoCでも活かされてくると思われる。具体的には、民間でロボットアーム部分での給電などがスタートしているそうだ。これが活かされると給電ケーブルの屈伸ストレスから開放されるので寿命が著しく工向上するという。しかもケーブルの取り回しもないし、小型化が可能だ。

今後様々なアプリが登場するだろう。

ワイヤという束縛からの解放がすぐそこまで来ている。

パソコン用のUSB型1セグチューナーを使って、パソコンを広帯域受信機に返信させると言うワザがあることを友人から聞き、早速試してみた。

使用機材は、PC以外にアキバなどで格安で売っているUSB 1セグチューナーとフリーソフトでダウンロード可能なSDR(Software Defined Radio)というアプリだけ。後は必要に応じたアンテナを用意すればよい。




写真がそのUSB1セグチューナー。小生は440円で調達した。1セグチューナーの構成は、フロントエンドがシリコンチューナーでバックエンドがデモジュレータ(復調)となっている。アプリソフトはSDR Sharpと言うソフトを用いる。

ただしこのソフトがサポートしているデモジュレータチップはREALTEK社のRTL2832Uなので、1セグチューナーに搭載されているチップがこのデバイスである事を確認する必要がある。このデモジュレーターは、DVB-Tや1SEGを含むISDB-Tのみならず、広範囲な放送形式をサポートするチップだ。

インストールするには、まずUSB1セグチューナーのドライバソフトのインストールから始める。ただし1セグチューナーとして使うわけじゃないので、別の汎用ドライバをインストールする。ここではZadigを使う。以下からダウンロード可能だ(今日現在)。

http://zadig.akeo.ie/

ダウンロードページ
http://zadig.akeo.ie/downloads/

インストールに当たっては、まずチューナーを挿入しドライバをインストールする。挿入すると自動的にインストールが始まるがそれは中止させる。すると「インストールできませんでした」といった様なメッセージが出る。それは気にしないでそのまま終了させる。尤もこの標準ドライバーがインストールされてしまったとしても、Zadigを実行することで新しいドライバーが上書きされるらしい。

インストールが正しく出来ているかどうかという状態は、コントロールパネル\ハードウェアとサウンド\デバイスとプリンター\デバイスマネージャで確認できる。インストールが完成すると、写真の様にデバイスドライバーが「Universal Serial Bus Driver」の管理にあることが表示される。


引き続き、SDRをインストールする。ここでは上述したSDR Sharpというアプリを使う。ここからダウンロード可能(今日現在)。

http://airspy.com/download/

この中にあるファイル、sdrsharp-86.zipというファイルをダウンロードする。 ダウンロードされたファイルはZIP圧縮されているので解凍する。解凍するといくつかのファイルが含まれたフォルダが作成される。そのフォルダの中にあるinstall-rtlsdrというバッチファイルをクリックして実行するとDOS画面が開き、いくつかのファイルが自動的にインストールされる。これが終了したらおしまい。

後は中にSDRSharpという名前のExeファイルがあるから、それをクリックすればアプリが立ち上がる。左上に見える三角ボタンをクリックするとすぐに受信が開始され、スペクトラムが表示される。その後は好みによって異なる様々な調整を行うことによって、目的とする表示形式が設定可能だ。


写真は、FM放送を受信してみたもの。ご覧の様に、搬送波中心周波数を軸として正規分布状に帯域を使って送信されていることがスペクトラムとして目視で確認できる。もちろん、音声はステレオで再生される。これは優れものだ。

さて、次は理論計算と実際を見比べながらアンテナを色々製作してみよう。